授業の始まり
休息日は穏やかに過ぎ去った。
アデルはエイムから借り受けた建国神話物語をもくもくと読み進めながら、時折ジェルトを思い浮かべた。
初めての時はジェルトが声を掛けてくれたのだから
次は自分の番だ。声を掛けて、そしてまずはお礼を言おう。そう心で何度も決心した。
そして心が乱れた時に読書に耽るという事が
思いの他安らぎになる事を知った。
一方寄宿寮では、それぞれ実家から届けられた大量の荷物をみなが部屋で黙々と整理した。
夕食に三人で顔を合わせた時に、ジェルトは深々フィオナに謝罪した。申し訳ない気持ちと深く傷付けてしまった罪悪感とで、ジェルトの声は微かに震えていたけれど、そんなジェルトの背中をライラスは友として逞しく思った。
フィオナはというと、一日ゆっくりと流れた時間の中で、ライラスの慰めの言葉を何度も頭に反復させた。
そうしてみると、不思議と心にゆとりが出来たのだろう。震えながらも真摯に向き合うジェルトの姿を見て、謝罪を心良く受け入れた。
そして、アデルを嫌ってしまったわけではないと言うジェルトの気持ちを聞くと、フィオナは深く安堵したのだ。
初めて出会った時と同じように、フィオナはにこやかに笑いかけた。
ジェルトの目にはそんなフィオナが、優しくふわふわとした印象の中に、本当は強い芯があるのだと見えた。
それから三人は夕食を共にしながら、あれやこれやと語らいあった。ジェルトの心にどこか突っかかるアデルに対しての不安も、こうして少しずつ紐解いていったのだ。
そうして迎えた次の朝。
この日からは、通常の授業が始まる。
玄関まで見送りに来たエイムは、目の前に立ち幾らか晴れ晴れとしていたアデルの顔を見て内心安堵の息をついた。
『大丈夫そうだね』
エイムはアデルの帽子を片手でくいっと直しながら、そう問いかけた。
『ありがとうエイム。うまくいくかは分からないけど、頑張ってみるよ』
そう言ってエイムを見上げるアデルの肩には
ちょこんとジャックテリーが乗っかっていた。
当然だとでも言うように、得意気にぶら下がっている。
ふてぶてしい態度に見えはするが、今日はそれが心強く感じた。
二人が挨拶を済ませるとアデルはくるりと前に向き直って、澄んだ空気いっぱいの秋晴れの中をしっかりとした足取りで踏みしめて学校へと向かっていった。
ホームルームの教室で、双子とジェルトはそわそわとアデルの到着を待っていた。
ざわざわと賑わう教室の隅で、窓の外を眺めている。
ジェルトは緊張した面持ちで、そわそわと髪を直したりタイを指に絡めたりしていた。
三人は昨夜の食事で、アデルについての話をたくさん話し合った。ジェルトが抱いたアデルの角に対する言い知れぬ不安と、ほんの少しの恐怖をジェミニ兄弟は一生懸命に慰めあった。
ジェルトの方も、そうした不安の中でもアデルと仲良くなれたことに後悔は無かったので、慰めを受けるうちに少しずつ勇気が湧いていた。
そうして、まずは仲直りをするために今日こうしてアデルを待ち構えることにしたのだった。
しかし。
『僕、ちょっとトイレに言ってくるよ』
きょろきょろと落ち着かないジェルトが、二人の顔を見た。
『もう時間がぎりぎりだわ』
壁に掛けられた大きな時計をちらりとひと目見て、フィオナが言う。
『でもお腹が......すぐに戻るよ』
急いで掛けていくジェルトを見て、双子は顔を見合わせた。
『緊張してるのね』
フィオナが困ったようにライラスを見た。
しかし、もう怒りはすっかりと消え去っているのは見て取れる。
『そうだな。でもきっと大丈夫さ』
ライラスは窓の外を見ながらそう答えた。
そんなライラスの表情も晴れ晴れとしていた。
程なくして、これまたどこか緊張した面持ちのアデルが二人の前にやってきた。
ホームルームが始まる鐘はもうまもなく鳴る頃だ。
ジェミニ兄弟は一度顔を見合わせて、すぐにアデルに向き直った。
『おはようアデル。もうすっかり顔色もいいわね』
『おはようフィオナ。ライラスも。心配を掛けてしまって、ごめんなさい』
アデルは窓に近い机に鞄を置くと、双子に深々と頭を下げた。アデルの机の隣に腰掛けたフィオナは、そんなアデルを元気づけるように、いつもの優しい笑顔でなんてことないわ、と答えた。
ライラスがフィオナの前の席について、時計をちらりと確認する。
『ジェルトが遅いな』
『もう鐘がなっちゃうわ』
アデルはジェルトの名前を聞いて、心臓が小さくびくんと跳ねた気がした。
本当は教室を外から覗いた時に、ジェルトの姿が無いことにほんの少しだけ安堵したのだ。
早く顔を見たいのは山々だったが、その反面切り出しの言葉に今も迷いがあった。
時計が九時を指したと同時に、どこからか大きな鐘が鳴り響いた。
ざわざわと賑わっていた教室がしん、と静まり返ったところで、ミーゼル先生が現れた。
『皆さん、おはようございます。全員揃っていますか?』
ミーゼル先生が教壇に立って、教室をぐるりと見渡した。
フィオナが小声で、ジェルトがまだだわ。と呟いた。
『何人かの生徒がいないようね。しかし、時間が限られています。ここにいない生徒には、後ほど誰か伝言なさい。それから、ホームルームがあるのは休息日の次の朝だけです。良いですね?ではまず、机にそれぞれ置かれたカードをご覧なさい。これが、今学年の時間割です。記号が書かれた授業があるのが見えますか?』
アデルは机に置かれていた少し大きめのカードを手に取った。どの曜日にも、確かに見掛けない記号が振り当てられている。
それを確認すると、もう一度ミーゼル先生に向き直った。
『よろしい。その記号の時間、男子生徒は剣術の授業。女子生徒は剣舞の授業となります。それぞれの授業の教室は、科目の下に書かれていますね。基本は毎時間、指定された教室にそれぞれ向かって指導を受けること。出席は科目事で毎時間とります。各教科の先生方にご迷惑がないよう、しっかりと学ぶことを望みます』
ミーゼル先生は教壇で、淡々と説明を続けた。
『それでは、そろそろホームルームも終了となります。一時限目の授業に遅れないよう、移動なさい』
最後にそう告げると、ミーゼル先生はあっという間に教室を去っていった。
教室内がざわざわと、賑わいを取り戻す。
アデルはもう一度時間割のカードに目を落とした。
一時限目の授業は、メルンデール史だ。
どうやら二時間続けて講義が続くらしい。
『教室は、同じ西棟の三階みたいだ』
アデルが呟いた。
アデル達が今いるのは二階なので、階段を登った先である。
三人は立ち上がって、それぞれ鞄を持ち直した。
『ジェルトの分の時間割を持っていきましょう。トイレにいるはずだから、鞄ごと届けたらいいわ』
アデルとライラスは頷きあう。
ライラスが隣の机に置かれたジェルトの荷物と時間割を手に持った。
『次の鐘はもう十分後だ。急ごう』
ライラスの言葉に二人は頷いて、揃って教室を後にした。