読書家の才能
イリニスタの市場へと出掛けてから
ふた月が過ぎていた。
あの日、帽子屋を出たアデル達は
大通りからすぐ小脇にある横丁へと進んでいき
まずは学生向けの文具店へと立ち寄った。
シックなモノクロで店内を整えている店だ。
そこでノートが数冊とレポート用の高級紙をワンセット。
インクとペンを購入した。
すぐ向かえに構えていた、これまた学生向けの
古めかしい書店で1学年用の教科書をひと揃い購入する。
それから大通りに1度戻って、洋裁店で採寸だ。
紳士服や婦人服、それぞれコーナーがわけられた
広い店内を素通りして2階の指定品エリアへ向かう。
学校ではいくつかの指定があるそうで
カーディガンと、学年色となる濃い青のタイ止め
黒く細いリボンにも見えるネクタイが1つ。
1学年から3学年までは、男の子は膝上までの黒いズボンを履くのだそうだ。
少々華奢なアデルは、ズボンのみが発注となった。
ついでに通学用の、やや大きい肩がけ鞄を購入して学用品に関する大体の買い物を終える。
買い物が終わった頃には、昼を少し過ぎていた。
久しぶりに晴れたイリニスタ市場は
いっそう賑わいを増してきているようだった。
アデルと同じ年頃の子供達が、文具店のある横丁や
アデルが出てきた洋裁店に、きゃっきゃとはしゃぎ合いながら入って行くのが見える。
同じ年頃の友達がいないアデルは
その様子を遠目に見ながら、学校への事や人間関係に少しばかり不安を覚えた。
イリニスタの外れにある小さなカフェテリアで
遅めの昼食を取ることにして、
サンドイッチを何切れかと飲み物を注文する。
ジャックテリーにはサンドイッチに挟まれたパストラミを小皿に取り分けてやると、2人と1匹は黙々と食事を済ませた。
珈琲を飲みながら少し休憩を挟むと
いくつかの店でエイムの用事を済ませることにした。
用事とは言っても、そんなに時間をかける事もなく
夕方には帰路に着くこととなった。
2人で持つにもやや大きい荷物を、何とか家まで持ち帰る。そうして、アデルの滅多にない外出は無事に終わりを告げた。
エイムは一日中、何も変わらない普段通りの陽気な様子だったが、アデルは一息ついた頃、帽子屋で出会った大柄な男性が頭のどこかで蘇った。
それからしばらくして、エイムは出掛けた帰りに
仕上がった指定のズボンを持ち帰って来た。
『これで一通りの準備が整ったな』
エイムは満足そうにクローゼットにそれをしまい込んだ。
アデルはと言うと、帽子屋で出会った大柄な男性が
どうにも夢に現れるような不安な数日間を過ごしたが、エイムが買ってくれた帽子を一日中被ったり、眺めたりしながら何とかかんとか気を逸らした。
ただ、ひとつ残念な事と言えば
ジャックテリーが早々に尻尾を突き刺してくれたおかげで、ちょうど耳の裏側にあたる部分が
少々毛羽立っている事だった。
しかし、2ヶ月という時間が経ってしてみれば
それもひとつの愛着に思えてくるのだった。
ある日の昼下がり、アデルはリビングで
帽子をテーブルの良く見えるところに置くと
買ってきた教科書を広げてみた。
ジャックテリーも興味があるのか、テーブルにちんまり座って教科書を眺めている。
エイムは今日も、書斎に引きこもりである。
数字学、メルンデール史、公国語。
それから......
『剣術と、護身術』
アデルは顔を顰めた。痛いのだろうか。
ジャックテリーはアデルをちらと見るとちっちゃなか細い声できゅ、と鳴いた。
剣術と護身術の教科書はそれで1冊の分厚い本だった。
これでひとつの授業なのだろうか。
内容を確認しようかと手に取ったところで
エイムの書斎のドアががちゃ、と音を立てて開いた。
『おや、熱心だねアデル』
『違うんだよ、エイム。この本はなぁに?』
エイムはキッチンに向かう足を止めて、
アデルの手にある教科書を見た。
本に書かれたタイトルを見て、アデルと同じように
顔を顰めると、あぁそれか。と呟いた。
アデルはエイムが何故顔を顰めたのかが分からなかったが、とりあえず黙ってエイムの言葉を聞くことにした。
『その名前の通りさ、アデル』
エイムはアデルから受け取ってパラパラと教科書を捲ると、ふむふむと内容を確認する。
『この国は今、1学年にまでこんな授業をするのか』
アデルは首を傾げた。
『エイムの時は違ったの?』
エイムは内容を大まかに確認すると、その教科書をテーブルに置いた。
訝しげな表情は変わらない。
『まぁ、そうだな。私の時よりも些か早いように思えるな』
『早い?』
『あぁ。時代が変わってきていると言うことか』
アデルにはよく分からなかった。
エイムはそんなアデルを見て続けた。
『何も悪いという事じゃない。護身術なんかは、身に付けておくといざと言う時に自分を守ることが出来るだろうし。剣術だって......そうだな。将来もしも、国を守るような仕事に就きたいと思うならば必ず必要になる』
『エイムはこの授業が嫌いだったの?』
『いや......ただ、なかなか早いと思っただけだ』
エイムはそう言って、もうひとつの教科書を取り上げた。
『私なんかは、こっちの方が遥かに好みだがね。......ほう、今の時代の教科書というのも、なかなかに興味深いな』
エイムが手に取った教科書はメルンデール史だった。
『それはどんな勉強なの?』
エイムは人差し指をぴんと立てて得意気に答える。
『この国の昔の出来事を学ぶ勉強さ。いつかドラゴンの実在を証明する事が出来れば、ドラゴンに関する記述と私の名前が載ることになる』
あぁ、なるほど。とアデルは頷いた。
メルンデール史か。面白そうかもしれない。
『いつか神話が実在したという証拠も、必ず立証してみせるさ』
エイムの得意気な顔を、アデルはきょとんとした顔で見返した。そんなアデルの表情を見て、エイムも思わずきょとんとする。
『神話?』
アデルは聞き返す。
『あぁ、神話だ』
エイムも答える。
二人は顔を見合わせる。
揃って頭にはて?といったもやもやが浮かぶようだ。
ジャックテリーは欠伸をひとつ零すと、
興味が薄れたようにテーブルをとことこ、と進んで
アデルの帽子に向かって突っ伏した。
誰も気が付かないのをいい事に、そっとお昼寝の体制を整えたのだ。
もちろんアデルもエイムもお互いの顔を見つめっぱなしなので、そんな事には気が付かない。
ジャックテリーはごろりと1度寝返りを打つと、
人知れず目を閉じた。
それからエイムは、書斎にある1冊の古い本を持ってきて、それをアデルに手渡した。
神話について書かれている本だったが、随分な厚さがある。
子供が手にするには、少しならず難しそうなのが見ただけでもわかるものだった。
エイムはその本を手渡すと、髪の毛をかきあげて
アデルとその本を見下ろした。
しまった、と顔に書いてありそうな表情である。
『いや、当然と言えばそうなんだが。まさか知らないとは思わなかったよ』
アデルはその少しばかり大きい本を受け取って
書かれたタイトルを読み上げた。
『メルンデール、建国神話物語?』
表紙をめくって、中身をちらりと眺めると
そこに書かれた文字は教科書のものよりもずいぶんと小さく、細かかった。
『アデルには少しばかりまだ難しい本かもしれないな。子供向けの絵本なんかも出版されているんだが、この家に今はなくてな』
エイムは申し訳無さそうにそう言ったが、
寧ろアデルはその文字の羅列をわくわくしながら見つめた。
ページをいくつかめくってみて
アデルはそのわくわくが高まっていくのを感じた。
『エイム、この本を借りて読んでもいい?』
『あぁ、それは構わないがなかなか難しいぞ?』
エイムはアデルを見下ろしてそう言うが、
アデルはとにかくこの、文字がぎっしりと詰まった本が、とても面白いものに見えたのだ。
『何とかするよ、エイム。これを貸して』
エイムは興味深く本を見つめるアデルを見て
これは面白いかもしれないぞ。と思った。
口元がにやにやと緩んでいる。
『あぁ、もちろんだ』
エイムは思ったのだ。
これが親に似るということなのか、と。
血は繋がってなどいなかったが。
これは大変な読書家になるかもしれないと感じると、
自分に似たところを垣間見せるアデルが
どうにも可愛らしく見えたのだ。
それからの2ヶ月間、アデルは取り憑かれたように
神話物語に明け暮れた。
難しい言い回しや、知らない言葉を見つけると
エイムの書斎のドアを叩いてひとつひとつ確認した。
エイムにとってもこれはとても喜ばしいことで
いつしか次はどこの文字について聞いてくるのか
書斎のドアが叩かれるのを楽しみにさえ思っていた。
やはり少なからず難しい箇所があるようだったが
アデルの理解力は素晴らしいものだった。
しっかりと着実に読み進めていたし
本人の解釈も面白い点を付く。
アデルには本の虫になれる才能があると、エイムは感心した。
そうしてあっという間に2ヶ月が過ぎると、アデルは入学の時期を迎えたのである。