グリッグス氏の苦悩
またも、面倒な事を押し付けられた。
1冊のドラゴンについて記された本を受け取った時
グリッグス氏はそう思っていた。
グリッグス氏は身体こそ少々小柄に見えるものの
それなりに歳を重ねた中年も後半に差し掛かる男だ。
グリフォン氏の側近として名を連ねてからも
それなりに時間が経っている。
ブリムフォン・グリフォン氏は時折
そうした思惑の見えない疑問を持ち込んでくる。
そして、その場に直面するのは圧倒的に
数いる側近の中でも自分なのだと思っている。
考えてみれば、それは重宝されているとも言える。
グリフォン氏は頭がいい。
彼の経歴を見れば一目瞭然だ。
そんな人物に目を掛けられているというのは
素直に喜ばしい事だ。そのはずだ。
しかし、頭がいい人間というのは
しばしば説明を省く節がある。
今回の件についてもそうだ。
百歩譲ってアデルという例の少年が気になった事に
疑問を抱かなかったとしても、手渡された本には
なんの意味がある?
中に何かメッセージの紙切れでも忍ばせているのかとも考えたが、そんな期待も虚しく本は至って普通の、
ただのドラゴンについて記された書物だった。
少年とドラゴン。しかも、ドラゴンなんてものは
架空の生き物と同義ではないか。
実在するのはせいぜい、無力で飛べもしない
ペットのような生き物だけだ。
メルンデールにはドラゴンを題材にした
いかにも非現実極まりない神話物語が存在したが
亡命してきたグリフォン氏が、その物語を知っているのかも疑問であったし、仮に知っていたとして
あの悪魔のような殺戮者にそんなファンタジーな趣味があるとは考えたくもない。
そして疑問は始まりに戻る。
この本が一体なんだと言うのだ......。
グリッグス氏は頭を抱え込んで、書斎のデスクに
その本をぽいと投げ置いた。
とにかく調べろと言われたからには
調べなくてはならない。
本の事はひとまず置いておいたとして、
動かねば始まらない。
まずは出生登録をされた子供達の
戸籍を探そうと考えた。
闇雲にメルンデール中を探し回る時間なんて
自分には無いのだ。
この国にはまともな登録を済ませていない
いわゆる孤児もたくさん存在している。
この首都リミルにも孤児院が何箇所か存在していたが、まずは身元のわかる子供が先だ。
孤児院に出向くのは何も情報が得られなかった時にしよう。
なるべくさっさと見つかってくれよ、とグリッグス氏はため息をついた。
こんこん、とドアを叩く音がした。
外からメイドの声が遠慮がちに呼び掛けてくる。
『旦那様、夕食のご用意が整いました』
『あぁ、ありがとう。すぐに行こう』
外は夕暮れ時も過ぎて、だいぶ暗くなり始めていた。
グリッグス氏は書斎のカーテンを閉めて、
一度頭から一連の面倒事を叩き出すと
部屋を出て食事に向かっていった。
朝、グリッグス氏は目を覚ますと
早々に身支度を整えて出掛ける準備を終わらせた。
玄関に立ってもう一度鞄の中身を確認していた所に
妻がいそいそとやって来る。
『今日のお出かけはずいぶんと早いのね』
妻はグリッグス氏のネクタイを手際良く整えて
控えめに顔を覗き込んだ。
グリッグス氏はため息混じりに、妻の質問に答える。
『あぁ、グリフォン様の用事でな』
『またなのね』
妻は心配そうにグリッグス氏を伺う。
そうなのだ、またなのだ。
本当に困ったものだ。グリッグス氏は自分の心の内をさらっと代弁してくれる妻に感謝した。
自分の口からそんな事を言ってしまうのは
非常に宜しくない事だが、こうして身近なものが
変わりに口にするだけでも
グリッグス氏はいくらでも心が軽い。
『そんなふうに心配してくれるのはお前だけさ』
ため息をついて、グリッグス氏は呟いた。
妻はというとそんなグリッグス氏の言葉を聞くと
僅かに頬を赤らめて、潤ませた瞳を僅かに伏せた。
この夫婦は子宝にこそ恵まれないが
実はとんでもない愛妻家と、旦那至上主義の似たもの夫婦である。
こうして囁かに妻からの愛情で元気づけられた
グリッグス氏は、晴れ渡る朝の空気を
充分に吸い上げて、何とも面倒な用事を片付けに
役場へと重い足を向ける。
結果として、アデルという少年の出生記録は
思いのほかあっさりと見つかった。
個人情報がこんなにも簡単に他人へ開示される
このシステムはいかがなものかとも思うが、
一応でもグリッグス氏は国を支える役員の1人である。
しかも、大きな政治派閥の中でも軍を抜いていて、
挙句にそれなりの地位も確立している。
グリッグス氏は対して不審がられる事もなく、
呆気なく手続きを終えた。
開示された情報資料をひと睨みして、
グリッグス氏はざっと目を通した。
9歳の少年で、同じこの首都に住んでいる。
グリッグス氏は名前と性別欄をじっと見つめて
少しばかり疑問を感じた。
アデルと言う名前は、男性名ではあまり耳にしないのだ。しかし何も珍しいからと言って、何か問題があるのかと言われればそんな事は自分になんの関係も無い。
そして両親の名前を確認すると、グリッグス氏はほう、と呟いた。
なんと、イリニスタ市場の大通りから
少し外れた横丁で武器屋を営んでいる男ではないか。
何度か世話になったことがある。
何か適当に用事を言いつけて、それと無く会ってみようか。本とこの少年との関係に何か気付くことがあるかもしれない。
グリッグス氏はそこまでの計画を頭で練り上げると
資料を鞄に仕舞い込んで、朝一番の会議へと
向かうことにした。
午後には適当に、新しいペーパーナイフでも
発注してやろうでは無いか。
そうした簡単なものならば対して時間も掛からないだろう。
それから数日たったある日の事、
グリッグス氏の家に例の商人がやって来た。
あえて書斎まで足を運ばせて、デスクには例の資料を目に付くところに置いておいた。
商人であるリンデルは、グリッグス氏の書斎にやって来るとその資料にすぐに気が付いた。
グリッグス氏はリンデルの様子を確認すると出来上がった品を受け取った。
あえて偶然そこに置かれたのだと装って、その資料を見つめるリンデルを目に止めた。
『あぁ、驚かせてしまってすまないね。この少年は君の息子だったか』
グリッグス氏はその資料を手に取って、
リンデルの顔を伺った。
『いや、何も悪い意味ではない。ただ少しばかり興味が湧いてね。君の息子は息災かね?』
驚いていると言えばいいのか。
リンデルの顔は少なからず強ばっていたが、そんなグリッグス氏の問いかけに酷く安堵して表情を緩めたようだった。
『それは......それは光栄な事です。まだ才能は眠っているかもしれないが、国に役立つ子に育てようと思っております、はい』
なるほど、と短く答えると
グリッグス氏は続けて例の書物をデスクに置いて
リンデルの顔を注意深く盗み見ながら話を続けた。
『それは結構な事だな、是非期待しよう。......ところでこれは、最近読み始めたものだが。君にも興味はあるかね?』
言わば賭けのようなものだった。
反応してくれさえすれば、何か得られるかもしれないと。関連さえわからないのだから、神頼みのようなものだった。
......しかし、リンデルの反応は
予想外なものだった。いや、予想以上なのか。
本を目にした途端に、さっと血の気が引いたのだ。
それは、目に見えるように。
これは何かある。グリッグス氏は思わず口元が緩むのを咄嗟に指で抑えると、リンデルの様子をもう一度確認した。
何か、焦りを感じているのか?
なんの焦りだ。本自体か、それとも表紙のこの絵なのか......。
グリッグス氏は目の前のリンデルを
注意深く観察する。
そんな探るようなグリッグス氏の視線にリンデルはすぐに気が付いた。僅かに動揺がちらちらと垣間見えていたが、リンデルはまっすぐにグリッグス氏を見据えた。
『いや、わたしはただの武器屋です。こういったものは』
『......ほう、そうだったか。それは失礼』
グリッグス氏は本を引き下げて、そう答えた。
デスクの引き出しにそっと本を仕舞う。
謎は確信に迫りこそしなかったが、自分はなかなかいい線をついた。そんな自信があった。
グリフォン氏の思惑がどうであれ
この本の何かとアデルという少年には何かしらの繋がりがある。それは一体なんなのか。
グリッグス氏は一度そこで思考を止めると、
一度にこりと表情を和らげて見せた。
『君の息子はきっと、望めば将来は明るいだろう。励みたまえよ』
そうして、リンデルが書斎をあとにすると
グリッグス氏は座り込んで本を見下ろした。
どうにも、わからない。
何かが繋がっていることははっきりしたが
これからどうしたものか。
グリフォン氏は何を求めている。これ以上何を探ることが出来るのか......。
もうこうなってしまったら、一度この本を読まなければならないかもしれない。
中身にヒントがあるのだろうか。
これを、読むのか。
対して興味がわかないその本を
グリッグス氏は忌々しく睨みつけてため息をついた。
グリッグス氏の苦悩は、やはりそう簡単には
終わらないようだ。
進まない気持ちを無理矢理に本へ注ぎ込んだ。
そして、表紙を開き、ページをめくると
つらつらと並ぶ文字達を頭に流し込み始めた。