Prolog - A -
いつからその角が生えてきたのか?少年は思う。きっと産まれて来た時には既にあったのだと。
はじめて自我を持ったのはどのくらい前だったか。
暗い路地の片隅にひとり寝転がっていた。
まずはその頃の話から始めよう。
......その時少年は気が付いた。
冷たい、と。ほんのまだ幼い小さな子供に見えた。本当なら愛されて育ちだし言葉を覚え歩き出すような。
石畳のガタガタした寂しい路地。屋根などあるわけがなく、その『冷たい』は上からしとしと、と降りしきる。少年は後に言った。これが恐らくはじめての記憶だったのだと。
寂しい路地の中、忘れられて久しいその場に人の影は何もない。ボロボロになってほつれた毛布を1枚抱えて気が付いたらそこにいた。
次第に髪も、服もびしゃびしゃに濡れて
滴る水は少年に顔を顰めさせた。
「......」
少年は言葉を知らない。
辺りを見渡しても目に映るのは片側が腐ってぶら下がる寂れた看板や、割れて砕けた瓶や、雨に打たれて濡れた石畳や、奥には人知れぬ不安を醸し出すショーウィンドウばかり。雨水のなか、どこか焦げたような匂いが漂っている。
いそいそと覚束無い足を動かして立ち上がった少年は何を求めるのか、握りしめた毛布を引きずりながら右か左かもわからずに通りの先へと歩き出す。
どれほど歩いたのか。
まっすぐ行ったり、たまに曲がったりずいぶんと適当にひたひたと歩いた。素足の小さな少年の足は埃の混じった雨水でじとじととして、ずいぶんと黒ずんだ。
微かに向こう奥からざわついた人の気配を聞いた。ずいぶんと人が多くいるようだった。
足先の生ぬるい気だるさも、硬い石畳を引きずって擦りむいた傷の鈍い感覚も、少年からふと消えてその音の溢れる通りの方へと歩き出す。
雨もやみ始め、通りの人々は忙しなく歩く紳士や、籠を抱いて闊歩する親子や、出来た水たまりを飛び跳ねる子供たちで溢れていた。
少年の心はなにか、はしゃぐように跳ねた。
そして出会うのだった。
生えた髪の色も、目の色も少年にそっくりな(背丈は如何程か、少年よりも伸びていたが)小さな男の子に。
男の子は手に握りしめた大きな棒付きの飴を、片方の頬を膨らませて咥えていた。いかにも平凡そうな身なりで素朴を醸し出す風貌でも、その全身からは幸せそうな愛らしい空気を存分に纏っていた。
男の子はぼんやりと空に浮かぶ虹を眺めていたが、ふと前に目をやると、寂しげに口を開く小さな店同士の隙間に少年が立っているのが見えた。
おでこよりやや上の、つむじよりやや下に小さな骨のような角がある。
.......と、思いきや
「僕が......いる」
男の子は肩を強ばらせ少年を凝視すると瞳の奥を振るわせて、くるりと身を翻し、ぽたりと口から落ちた飴を蹴り飛ばしたことにも気付かないまま、少し離れて貴婦人と立ち話をする落ち着いた雰囲気の女性の後ろにびたりとくっついた。
少年はただ眺めていた。
何故か気になって仕方がなかったのだ。
その男の子にも、女性にも何かを感じるのだった。
「なぁに、アデル。どうしたの」
女性の声は深く柔らかく響く優しい声だった。ざわついたその通りで、少し離れて佇む少年にもしっかりと響いた。
アデルと呼ばれた男の子は母であろう女性の腰にしっかりと掴みかかり、やがて母はアデルの頭をひと撫ですると
「帰ろうか、アデル」
そう優しく微笑んでみせた。
今日はアデルの誕生日だから父の帰りが早いのだと、話し込んでいた貴婦人に笑顔を見せると、挨拶を交わしてアデルの手を握り、少年から離れるように人々の奥へ消えて行った。
アデルは1度振り返ろうとしたが、肩より向こうに首を捻ることはなかった。母の手を強く握りしめて、その場から逃げたすかのようだった。
一連の出来事をただ眺めていた少年の耳にはアデルと言う名だけがいつまでも響いた。
「......あで、る」
呟くと、何か虚しいような悲しいような。どうにも複雑な気持ちが身体を支配した。
ただ、少年には何も知識がないので、そのざわつきが何なのか、自分は何者でアデルやあの女性が誰なのか
。それがどうしてこうも気になるのかさえもわからないのだった。
少年は座り込んだ。
気付けば随分と足が重たい。もう雨は降っていなかったがびしゃびしゃに濡れた身体はとても寒さを感じさせたし、雨水を吸いきった毛布はか細く薄汚れた腕からその握力を奪うのだ。
生気の抜けた人形のように、この世界の闇を見てきたかのような色の陰った目。その大きな目が霞んで瞼で隠されていく。じんわりと力の抜けていく身体に抵抗しようとも思わない。
ざわざわと、賑やかな道からほんの少しの細い隙間。店と店の間の細道。多くの人が行き交うというのに、座り込んで目を瞑る少年に、誰も気が付く事は無かった。
やがて、人通りも少なくなって空はどんよりと暗く染まり、暖かい灯りがぽつぽつと夜道を照らし出し。
冷たい風に誘われたのか一人の中年の紳士男性がどこからか現れて、うずくまり意識のない少年に気が付いた。
中年の紳士男性の肩にはミニチュアにしたドラゴンのような赤煉瓦色の生物(両目のやや上に尖った角が生えている)が、これまた小さな両翼を畳みこんで、大きな態度でちょこんと乗っている。
その小さなドラゴン地味た生物が、気だるそうに口からふぉっ、と小さな火を吐くと、少年の頭部がちらりと照らされる。ふわりと暖かい光となった火に照らされたその角を見て、紳士は微かに息を飲んだ。
少年は遠くなった意識の中深くに沈んでいて、目が覚めることは無かったけれども。この紳士男性とドラゴンは、こうして出会い。
幸いなのか、運命なのか。
混じり合う少年の小さな世界の入り口となったのだった。