始まりはこれから
「覚悟はいい、スミト!」
ビシッ!と自身の5m先の対角線上に立つ少年に右の人差し指を突きつけ、少女は高らかに叫ぶ。
二人が立っているのは、周囲を灰色の石の壁と同色の石で出来た座席数段に円形に囲まれた空間だ。
席の外周部には石柱が等間隔に並び、それぞれに鏡文字のルーン文字が判子で押されたような正確さで刻まれている。
天井は無く、その外観はまるでローマ帝政期に建てられた円形闘技場『コロッセオ』のようだ。
その広大な石の建造物の中央で高らかに叫んだ少女に対して、スミトと呼ばれた少年の方はというと
(はぁ‥‥‥‥何でこんなめんどくせぇことになったんだか)
明らかに嫌そうな顔をして、足元の小石をぼんやりと眺めていた。
(『コッチの世界』に来てから半日だってのに、あいつはどうしてこうバカでいられるんだか‥‥‥‥)
心の中で少女を毒づきながら少年は顔を上げ、今度は青空に浮かぶもくもくとした大きな雲を見つめ始めた。
(あっ、あの雲キツネみたいな形してるな。あ~、きつねうどん食いたくなってきた‥‥)
‥‥‥‥少年はちょっと天然なのかもしれない。
しばらく少年がぽかーんと雲を目で追っていると、少年の態度に少女がしびれを切らしたようだ。
「無視すんなアホスミト!わたしの話を聞けーーー!!」
両耳を押さえて少年は1つ大きなため息をついた。
「うっせえよスイ。今、俺は晩メシのメニューを考えてる真っ最中なんだ。コッチの世界で小麦粉が手に入るかどうかで、今晩がうどんになるかあのゲテモノ料理になるか決まるんだから邪魔すんな」
「えっ‥‥あ、ごめん‥‥」
さっきまでの威勢がどこへ行ったのやら、スイと呼ばれた少女は何かと葛藤しているかのように唸り声を上げている。
(確か俺達をこの世界に連れてきたアイツが言ってた話じゃ、コッチの世界にも元の世界にある食材とか道具が少しはあるらしいけど、あとは時間か‥‥‥‥。生地作って練って踏んで伸ばして茹でる。やっぱ、結構時間掛かるよな‥‥‥‥うどん)
天候や気温、湿度。その全てを考慮して水の量や塩の量の加減をする。おいしいうどん作りは職人技。
休日限定とはいえ、家で台所に立つ少年にとって料理と向き合う時間は誰にも邪魔されたくないものなのだ。
少女は、そんな少年の性格を嫌というほど知り尽くしているから余計腹立たしく思っているのだ。
それに数時間前に食べたこちらの世界の料理は、あまりにも少女の口には合わないものであった。
料理が作れない彼女にとって少年はこちらの世界で生きていくための生命線でもあるのが苛立ちを後押ししている。
「うっし、スイ。とりま、俺は北の商店街に行って晩メシの材料買ってくるから、お前は家に行って風呂に使うお湯を沸かしておいてくれ」
そう言うと、少年は手を振ってさっさとその場から立ち去ろうとする。
「え、あ、うん‥‥‥‥‥‥じゃなくて!」
少女は一度頷いた後、すぐに我に返り速足で立ち去ろうとする少年の腕を掴む。
(チッ‥‥逃げ損ねたか)
仏頂面をしながら少女は少年の腕をぐいっと引っ張る。
すると、少年の体はいとも容易く少女の体へと引き寄せられ、少女の顔が少しでも前に進めば唇同士が触れ合ってしまうような距離まで迫ってくる。
「何ナチュラルに話そらして逃げようとしてんのよ!わたしと『勝負』することのどこに不満があるのよ!」
「現状に置いては不満しかねぇよ‥‥。何でスイはそんなに怒ってんだよ、俺何かした?それと、ツバ飛んでくるから離れろ」
ここ数時間の記憶を辿るが、彼には彼女から恨みを買うようなことをした覚えはこれっぽっちもなかった。
ゆえに、少女が自分の何に対して憤りを覚えているのか皆目見当がつかない。
いや、1つだけ心当たりがあった。
「もしかして、あのゲテモノを押し付けたことか?」
「それ以外に何があるのよこの鬼畜畜生スミト!」
少年の心当たりは的を射ていたようだ。
少女は瞳を潤ませながら少年に食ってかかる。
「わたしが他人に頼まれたら断れないの分かっててあんな仕打ち‥‥!外道!鬼!悪魔!梅雨時の癖っ毛!」
少女は怒りで顔を真っ赤にしながら少年を何度も罵倒する。
しかし、こんなのは少年にとってはよくあること。
なので、対して気にすることもなくそれらを受け流していく。
「とにかく!」
少女は、腕を掴んでいない方の人差し指で再び少年の顔を指差す。
「決闘よスミト、積年の恨みもまとめてここで晴らす!」
スイの望戦的な態度に肩から脱力しつつ、現実逃避気味にスミトはどうして自分が幼馴染みに決闘を挑まれるという状況に陥ったのかと、『コッチの世界』に来る少し前から現在までの記憶を思い返していた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
4月の丁度いい春らしい陽気が過ぎ去り、新緑が芽吹き始める5月。
関東圏でも田舎とされる県の一角で、その少年は声帯が潰れないか心配になるほどの悲鳴にも似た大声で叫びながら、アスファルトに鋪装されていない焦げ茶色の地面の上を全力疾走していた。
「くっそおぉおおおお!!遅刻だあぁああああああ!!!」
彼の名は『結城 純人』
今年の4月から『笠之宮大学附属高等学校分校』に入学したばかりの新1年生だ。
身長は170センチ半ばで見た目の体型は筋肉質でも細身でもない中肉中背。寝癖で短めの黒髪の至るところが天パのように跳ねている。
顔は中性寄りで同年代の男子と比較すると若干子供っぽくもあるが、決して男の娘にカテゴライズされるような見た目ではない。
彼の家族は妹の『凜』1人だけ。
両親は3年前に交通事故で亡くなっている。
彼には祖母や叔父、親戚などの身寄りが一切無く、身体の弱い妹の為にも一時は施設に入ることも考えたのだが、昔から親睦の深い親切なお隣さんのご厚意でお隣さんの家に住まわせて貰っている。
そして、
「だから昨日何度も言ったじゃない!夜中までゲームしてたら朝起きられなくなるから早く寝なさいって!」
彼を叱咤しながら隣を走るのは、お隣さんの娘兼クラスメイト兼彼の幼馴染みの『常盤 彗』だ。
彼女の綺麗で小さな顔は、純人以上に子供っぽい。と言うか、何も知らない他人から見れば小学生にも思えるほどに幼い顔立ちをしている。
深紅のバラのように鮮やかな赤い髪をツーサイドアップにした彼女の背丈は、顔に見合って140センチ程しかない。
しかし、彼女の女性的特徴である双球は同年代の女子から見ても驚異的な発達をしていると言わざるを得ない。いわゆる、ロリ巨乳だ。
彼女と純人は幼稚園から中学校卒業まで毎回同じクラスで、今年もめでたく同じクラスになったのだが、
「何なの?純人は学級委員のわたしを貶めるためにわざと寝坊してるの?いい加減にしてよ、毎年毎年純人のせいでわたしがどれだけ迷惑してると思ってるのよ!」
彗は全くそれを望んでいるようでは無かった。
むしろ、彼をひどく疎ましく思っているようだった。
「仕方ねえだろ!だって、課金で引いたいらないレジェンドとゴールド砕いて作ったネクロマンサーデッキが25連敗もしたのに、一度も勝てずに終わらせるなんて出来るわけねぇだろうが!」
彼が寝坊した原因だと言い訳しているのは『シャドウバルス』というソーシャルゲームの事だ。
『シャドウバルス』は2人のプレーヤーが40枚一組のデッキを駆使し、相手のライフを削りきった方が勝つというゲームだ。
そして、彼はどうやらそのゲームで課金したにも関わらず連敗を喫し、寝る間を惜しんで勝つまでゲームをプレイし続けていたようだ。
「アンタばかぁ!?普通、そんなに負けたら途中で諦めるでしょうが!」
「愛しの『ルネ』ちゃんが負けて傷つく姿を見て、立ち上がらない男がいるわけないだろうが!」
ルネちゃんというのは『シャドウバルス』でプレーヤーの身代わりをするキャラクターで、金髪お団子ツインテールのゴスロリ服を着たロリっ娘キャラだ。
『シャドウバルス』にはネクロマンサー使いのルネ以外にもエルフ使いの『アリス』やドラゴン使いの『ローウィン』等がいるのだが、彼はその中でも特にルネがお気に入りの様子だ。
なお、ルナは『シャドウバルス』のキャラクター人気投票で1位を獲得していたりもする。
「お前には幼いながら両親を失ったルネちゃんの気持ちが分からないのか!あの娘には俺が付いていないとダメなんだ。俺はルネちゃんのお友だちになるんだ!」
「意味わかんないし‥‥‥‥それと、キモいから私の側でそういう事言わないで」
彗は生ゴミに群がる小蝿を見るような目で彼を嗜める。
「アンタには羞恥心が足りなさ過ぎんのよ。人前でそういうオタみたいな事言ってると白い目で見られんの分かるでしょ」
「フン!好きなものを好きと言って何が悪い。正直なのは良いことだろ」
「相手やTPOをわきまえてればわたしだって何も言わないわよ。でも、純人は非オタの前でもそんなじゃない。顔はそこそこなくせに、女子からの評価を落としてるの分かんない?」
「別に、俺は女子からの評価なんて気にしないし‥‥‥‥」
純人の声のトーンが一段階下がる。
彼だって年頃の男の子。女子からどう思われているか気にならないワケがない。
でも、男のプライドとして、しかも幼馴染みの女の娘の前でそんな事言えるわけがない。
しかし、そんな男の子の事情を知るわけもない幼馴染みは、
「あっそ。もう、純人に何言っても無駄だよね。分かってた。それじゃ、わたし先行くから」
冷たい言葉をいい放つと、地面を大きく蹴り上げ、近くのコンクリートの塀の上に飛び乗り、素早い足取りで小さな足場を走り抜け、電柱の取っ手に飛び移ったり、更にそこから跳躍して瓦屋根に飛び移ったりと忍者顔負けの動きであっさりと彼の視界から消えてしまった。
「チッ‥‥‥‥彗のヤツ、俺を置いてきやがったな」
パルクールと言ったか、町中の壁やベンチ等を障害物を乗り越えるようにしてさまざまな場所を移動をするスポーツ。
過去に純人と彗はテレビで見たパルクールをする外国人の映像を見て、見よう見まねでそれで遊んでいた。
特に、彗は天才的な運動神経を発揮し、あっという間に町中全てをその足だけで走りきる事が出来るようになった。
そして、たまに今日のように遅刻しそうになると、学校まで文字通り一直線で登校するようになっていた。
一方、彼もそれなりに彗と同じ事が出来るが、両親の死後すぐの時、注意力が散漫になっていた彼は電柱の上から足を踏み外して大ケガを負って以来、二度とその移動術を使うことは無くなった。
「しゃーねー、ちょっとトバすか」
怪我のリハビリで始めたランニングやボルダリングのおかげで、彼は基礎体力が平均以上に鍛えられている。
しかし、彼は着痩せをするタイプなので、鍛えられた身体が表に出ることは未だ無いことは実に残念である。
彼は先程までより明らかに速いペースで走り始める。
普段は遅刻しそうになってもここまで本気で走ろうとはしないのだが、いつも怒りながらでも一緒に走ってくれる幼馴染みが今日はご機嫌斜めな様子だったので、気が向いた時に謝る為に少し本気で走ることにしたのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
50mを5秒46。先月、純人が身体測定で叩き出した絶好調のタイムがそれだ。
そのタイムを記録したとき、陸上部の顧問にしつこく何度も勧誘を受ける羽目になったのは言うまでもない。
「よっ、と‥‥」
まぁ、そのタイムはしっかりと整備されたグランドでこそ発揮されたものであるのだが、この地に慣れた彼には、デコボコの砂利道も学校のグランドも大差ないスピードで走ることができる。
むしろ、通学路が下り坂になっている分更に速く走ることができる。
(‥‥‥‥お)
いつの間にか、彼の視界には赤髪の幼馴染みの背中が捉えられていた。
今、彼らの回りには丁度いい高さの建物が無く、この辺りの道路はアスファルトでしっかりと鋪装されているため、彼女は普通に路上を走っていた。
(これなら、久しぶりに競争出来るかもな。あいつ、俺との勝負事になると熱くなるし。それに、置いてけぼりにされた腹いせしたいし!)
不意に彼はそんな事を思った。
思い立ったが即行動。
純人は幼馴染みの背中を追いかけ肩を並べる。
「よう。さっきはよくも置いてけぼりにしてくださいましたな」
「なーんだ、付いてきてたんだ。てっきり、道端に生えてる野草でも食べてお腹壊してる頃かと思ってた」
「俺が文字通り道草食ってるアホなやつとでも思ってたのかお前は‥‥‥‥」
「え、違うの?」
「何でめちゃくちゃ意外そうな顔するし!?幼馴染みのこと舐めすぎだろ。ま、いいや、俺は先に行くぜ。悔しかったら追い抜いてみろ!」
言い終わるや否や、今度は彼が幼馴染みを置き去りにして走り始める。
一方彼女の方はというと、
(ふふっ‥‥やっぱり純人はバカだなぁ。わたしが何年アンタの幼馴染みやってると思ってるのよ。アンタの短絡的な思考なんてお見通しなのよ)
実は彼女が不機嫌そうな態度を取って純人を置いて先に行ったのには理由があった。
純人は子供の頃から、彗があえて突き放すような態度を取ると後ろから付いてくる、ある意味癖とか習性みたいなものがあることを理解していた。
だから、今回はそれを純人を遅刻させないようにする為に使ったのだ。
「でも――――アンタとの勝負には負けられない!」
彗は彼との勝負を嬉々として受け入れているようであった。
そう思う理由は単純明快、彼女の顔が無邪気な子供のようにニヤけているからだ。
彼女もすぐに彼の後を追って走り始める。
幼馴染み兼ライバルである彼を追い越し、勝つために。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「はぁ‥‥‥‥はぁ‥‥‥‥!」
「はぁ‥‥‥‥はぁ‥‥‥‥!」
二人の勝負の情勢は一進一退。
一方が相手よりも1歩先に出たと思いきや、すぐにもう一方が追い抜くという状況が続いている。
「いい加減‥‥‥‥負けを認めなさい‥‥‥‥純人‥‥‥‥!」
息を切らせながらも、彼女は彼に降服を求める。
しかし、
「は!お前こそ‥‥‥‥そろそろ限界だろ‥‥‥‥そっちこそ‥‥‥‥負けを認めやがれっ‥‥‥‥!」
彼も簡単には負けを認めない。
二人は互いに幼馴染みには負けられない意地がある。
二人はどちらかが前になることなく、息切れの音だけが続く平衡状態が続いている。
が、唐突に少女が口を開く。
「あれ?純人、ズボンのチャック全開だよ。ぷっ!恥ずかしい」
少女は口元に手を当ててニヒッと笑う。
「え?マジ!?」
一瞬、少年の注意が自身の下半身へと反れ、速度が鈍る。
その瞬間、
「バーカ!おっ先ぃ!」
少女は、彼を追い抜き走り去る。
「なっ!?卑怯だぞ彗!」
さっきのは、少女が少年の注意を反らすためについたブラフ。勿論、彼の社会の窓はしっかりと閉じられている。
しかし、一瞬でも反応が遅れた彼と彼女の間にはもう取り返しのつかない差が生まれていた。
(あぁ、今回は俺の負けか‥‥‥‥これで、119勝120敗――か)
少年は自分の敗北を悟り歩を緩める。
しかし、彼はここで異変に気がついた。
二人は学校にたどり着く為の最後の道である雑木林の中を疾走しているのだが、幹の合間を縫うと彼のいるところからも出口が見える。
さっきまでは脇目も振らずにいた為気がつかなかったが、今はそれに気づけた。
雑木林の奥から、一台の大型のトラックが猛スピードで走ってきているのだ。
このまま彗が走り続けたら、間違いなく彗はトラックと衝突する。
「彗ーー!車が走ってきてる、止まれーーーっ!!」
気づいたら彼は走るスピードを上げて叫んでいた。
「ふん、わたしはそう簡単に騙されないよ純人。この時間帯に車がここ通るわけないでしょ!」
しかし、彼の必死の叫びは虚しくも信じてもらえなかった。
(くっそ!あの脳筋バカ!)
純人は更に速く走る。火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか。
彼は、普段の限界を超えるスピードで疾走する。
しかし、彗は既に雑木林を飛び出した。
「――――――えっ‥‥‥‥」
トラックのけたたましいクラクションが鳴り響き、急ブレーキを踏み込むタイヤのゴムが擦れる音が聞こえる。
彗は何が起こったのか分からず頭が真っ白になってしまった。
「彗ーーーっ!!」
車より一瞬早く純人は彗に追い付き路上に飛び出して彼女を助けるためにその手を伸ばす。
突き飛ばすだけなら尻もちをつくだけで済む。少なくとも車に跳ねられるよりは断然マシになるはずだ、という考えのもとでだ。
しかし、事は彼の思い通りにはなるはずも無かった。
それどころか、自分の事を何も考えず飛び出した結果が彼を待ち受けていた。
「――――――っ!?」
彼の手は彼女には届く事は無く、また、彼女も車から逃げることが叶わず、暴力的で破壊的な衝撃が二人を襲い、二人の意識は消滅した。