Phase.21
サヴァール川流域に存在する渓谷をサヴァール渓谷と呼ぶが、何も川がサヴァール川だけであるわけではない。支流と言うものも存在する。シュザン城の下を流れる川は、セドラン川と呼ばれている。
そのセドラン川の川岸に、アルフレッドはたどり着いた。ここまで連れてきた人物も岸に引き上げてやる。長い栗毛を濡らした少女は、ミシェルだ。アルフレッドよりだいぶ苦しげに息をしているミシェルに、アルフレッドは声をかけた。
「ミシェル。大丈……」
言いかけて、口をつぐんだ。ミシェルを振り返り、月明かりに照らされた彼女を見て驚いたからだ。思わず目を見開く。
アルフレッドの言葉に釣られるように顔をあげた彼女は、仮面をしていなかった。仮面をしていないので、彼女がミシェルかどうか判断がつかなかったが、髪の色や体格、着ているドレスはミシェルのものに見えるので、やはり彼女なのだろう。
じっと自分を見つめてくるアルフレッドに不自然さを覚えたのだろう。ミシェルは首を傾げ、凝視されている自分の顔に手を当てて……思った通り、悲鳴をあげた。
「ぎゃああああああっ!」
顔を覆ってしゃがみ込む。本当に、ぶれないな。
「ごめんなさい、すみませぇんっ。絶句するような不快な顔で……!」
「いや、落ち着け違う! きれいで思わず見とれただけだ!」
ミシェルだけでなく、アルフレッドも落ち着くべきだろう。動揺のあまり心の声が駄々漏れである。
「お世辞は結構です!」
「お世辞ではない!」
二人とも混乱しているので通常ならこのまま論争は堂々巡りに続いたと思われる。通常なら。
しかし、ここは吹きさらしの冬の野外。しかも、二人とも水温の低い川に落ちて全身ずぶ濡れだ。急激に寒さが襲ってきて、アルフレッドは身を震わせた。
「と、とりあえず城に戻ろう」
「は、はい」
寒さで声を震わせながら、アルフレッドが言った。うなずいたミシェルも歯の根があっていない。一度服の水をできるだけ絞ると、アルフレッドはミシェルの手を引いて歩き出した。
ミシェルが川に落ちたから仕方がないとはいえ、飛び込んだ川の水はかなり冷たかった。あのまま心臓が止まってしまってもおかしくはなかったかもしれない。ミシェルの仮面は、水面にたたきつけられたときに外れたのだろう。
川から上がった岸と、城は近い。すぐに城門までたどり着いたが、一つ問題が発生した。
「申し訳ありません。今日はもう、橋をあげてしまいまして……」
そう。上がった岸は、裏門がある方の岸だったのだ。裏門の城へ続く橋は、夜になるとあげられてしまうのである。戦時中だと正面門の橋もあげられていたそうだが、今は戦時中ではない。正面門の方に上がれば橋はまだかかっているのだが、正門に回るには川をわたらなければならない。
「……」
アルフレッドは少し考える。どうしても橋を降ろしてもらえないのか、と尋ねると、規則だからと答えられた。まあ、門番である彼らを雇っているのは国王だ。国王に逆らえば反逆罪になりかねない。
なら、部屋を貸してもらえないかと尋ねると、こちらは快く了承された。何でも、橋が上がった時間に川に落ちる人は今までも時々いたらしく、落ちた人のための部屋が用意されているようだ。だが、女性が落ちるのは初めらしい。
濡れた服を脱ぎ、借りたシャツとズボンに着替えたアルフレッドは、狭い部屋のソファに腰かけて暖炉を眺めていた。一応ベッドもあるのだが、そこは現在、ミシェルが占領している。そう。基本的に川に落ちる人は男性であったため、部屋が一室しかないのだ。当然であるが女性用の服もなく、彼女は大きめのシャツを着ているだけだ。
なんなのだろうか。アルフレッドの理性を試しているのだろうか。
背後から衣擦れの音がした。寝ていたはずのミシェルがソファを回り込み、アルフレッドの隣に腰かけた。薄い毛布を肩から羽織っているので、体は隠されている。そのことにほっとした。
「アルフレッド様。巻き込んですみません。それと、助けてくれて、ありがとうございました」
仮面をなくしたので、素顔を曝している彼女は、暖炉をじっと見つめながら言った。アルフレッドの右側に腰かけた彼女は、アルフレッドの方を見ない。彼から見えるのは左側だけだ。理由は簡単で、彼女の右顔にはやけどの痕が残っているからだ。
「いや。勝手にあなたを追ったのは私だからな。それに、あの状況では最良の判断だったと思う」
「……最善では、ありませんでした」
その返答で、アルフレッドは自分の予測が正しかったことを知った。彼女は、あの時、川に落ちたのではない。自分から川に飛び込んだのだ。
ギャラリーには、アルフレッドとミシェルを襲った襲撃者たちがいた。暗くて何人いたかはわからないが、相手は剣を持っていて、確実にこちらより人数が多かった。勝てるわけがない。
だから、ミシェルは柵を乗り越えて川に身を投げたのだ。その前に彼女と目があった気がしたが、あの時本当に目は合っていたのだろう。ミシェルは自分が落ちればアルフレッドが追ってくることをわかって川に落ちた。だから、アルフレッドが自分の方を見ているか確認したのだ。
川に落ちてしまえば、よほどこちらを殺したいと思っていない限り、襲撃者たちは追ってこない。川に落ちるのは、あのままギャラリーに居続けるよりもあるかに安全だった。
まあ、現在が冬であることをのぞけば、だが。
「そうかもしれないが、あの状況でとっさに川に逃げるという決断ができるのはすごいと思う」
何より、彼女は完全に確信犯なのだ。アルフレッドも巻き込んで、無事に逃げおおせている。もちろん、彼女のおかげで助かったので、アルフレッドが文句を言うはずもない。
「あの時は、これしか思いつかなくて……」
ミシェルは炎を見ながらため息をついた。
「本当は、城から出るのは避けたかったんですけど。夜は橋が上がっていると言うことも忘れていましたし」
まあ、それは仕方がない。戦中でもなければ、普通、跳ね上げ橋はかかったままなのだ。
「私たちがいない間に、城内で何か起こる、と言うことか?」
アルフレッドが心配したのはナタリーだ。彼女を、一人でおいてきてしまった。しかも、毒で苦しんでいるのに……。
そうだ、毒。
「それに、あなたはナーシャが飲んだのは致死性ではない毒だと言っていたな」
「ええ。まあ。おそらく、ナーシャさんが飲んだのは強い睡眠作用のある薬なんです。毒性はありますが、熱が出るのとめまい、吐き気くらいでしょうか。水を大量に呑めばそのうち治ります」
「……何故、わかるんだ?」
「脈拍が安定していましたし、腕に赤い斑点のようなものがありました。強い睡眠薬を飲んだ証拠です」
「……いや、それは知らないが」
「毒薬に似た睡眠薬があるんですよ。パッと見ではわかりません。珍しい草の根からとれる東方の薬です。ええっと、麻酔に近いでしょうか」
「……詳しいな」
「趣味です」
言い切った。どういう趣味なんだ、ミシェル。
「ナーシャさんも心配ですが、問題は証拠が片づけられることです。思わず飛び出してしまったから、こちらの動向が犯人さんに筒抜けですし、絶対に片づけられてる~」
ミシェルが足をソファの上に引き上げて、膝を抱え込んだ。毛布で全身をくるむ。
「……ミシェル」
「なんですか?」
呼ぶと、すぐに返答があった。アルフレッドは彼女の横顔を眺めながら言った。
「巻き込んだのは私たちだが、どうしてそんなに真剣に調べてくれるんだ?」
ミシェルの視線だけがアルフレッドに向けられた。何があっても顔は見せない所存らしい。彼女が見せたくないと言うのなら、それでいいと思う。
「だって、と、友達の危機ですもん」
かわいらしい返答をした後、ミシェルは膝に顔を伏せた。恥ずかしかったのだろうか。何となく微笑ましくなり、彼女のまだ少し湿った栗毛を撫でた。その感触にミシェルがびくっと震えた。
ミシェルが顔を伏せてしまったので、会話が途切れる。時折火がはぜる音や、薪が崩れる音が聞こえてきたがそれ以外は静寂である。
不意に、アルフレッドの右肩に重みが乗った。見ると、うつらうつらしていたミシェルがついに眠ったらしく、アルフレッドの肩に頭を預けていた。力が抜けた体から毛布が滑り落ちる。サイズの合わないシャツを着ているからだろう。白い胸元が見えて、アルフレッドは毛布を掛け直した。すると、ミシェルの体が肩から滑り落ち、今度はアルフレッドの膝に頭を乗せる。もぞもぞと動き、収まりの良いところを発見したのか、動かなくなった。
「……」
もう一度毛布を掛け直してやる。そして、もう一度言う。彼女は、アルフレッドの理性を試しているのだろうか。手に思いっきり爪を立てて衝動をやり過ごす。
アルフレッドは手を動かし、ミシェルの顔を隠している栗毛をそっと持ち上げた。ちょうどミシェルの右顔が現れる。つまり、やけどの痕がある方だ。確かに皮膚が引きつれて赤くなっており、やけどの痕だとわかる。しかし、思ったより痕は薄かった。
初めて、ミシェルの顔を真正面からまともに見た。いとこ同士だからだろうか。少しディオンと似た印象を受けた。
薄紫の瞳を有する目は切れ長気味で、理知的な印象を受ける。左目尻には泣きぼくろがあって、色っぽい。そう言えば、ディオンも『色っぽくて傲慢そう』に見えると言っていた。傲慢そうかはわからないが、確かに色気のある顔立ちで、あの顔で無表情なら見下されているような印象かもしれないな、と思った。これは彼女の従兄であるディオンにも言えることだが、内面は見事に外見を裏切っている。二人とも、理知的な顔立ちなのだ。
そう言えば、ミシェルもやけどがどうの、とは言っているが、自分が不美人だとは言っていない。彼女も、自分の元の容貌が整っているとわかっているのだろう。
湖から上がった時、ミシェルに見惚れたのは本当だ。月明かりに照らされた彼女が美しく、彼女に見とれた。まあ、彼女は本気にしなかったが。
どうでもいいことを考えて現実逃避を試みるが、体に触れる柔らかな感触を無視できない。
アルフレッドは無理やり目を閉じた。このまま眠ってしまおうと思ったのだが、自分でもわかるほど心拍数が高い。だから、眠れそうになかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ミシェル、顔を見られました(笑)
そして、無駄な知識をすべて趣味と言い切る彼女……。実際にはそんな薬はありません。……ありませんよね?




