第2"窪" 公"死"混同❺
警察の服を着た、偉そうな人が入ってきて、片付けをしていた刑事達が、全員が一斉にピシリと"気を付け"をする。
それは、少年の根津に付き添っている私服を着てはいるが、婦警なのだろう、それも同じだった。
片付け最中の、広い部屋で直立不動になっていないのは、新たに部屋に入ってきた警察の偉い人と、パイプ椅子に座る少年の根津に―――偉い警察の制服に続く、2人の人物だった。
そして、まず一人目に全員が釘付けになる。
背の高い大柄な男だった。
俗にいう"ガタイの良い大男"なら、警察署内にもいないこともないが、その人物が身に付けているのは、黒の法衣。
その上に、右肩に黄金色した横被(おうひ・僧が七条以上の袈裟を掛けるとき、別に右肩に掛ける長方形の布)と袈裟を着けた初老の男。
(お坊さんなのに、坊主じゃない?)
皆が直立不動になる中で、少年はそんなことを考える。
少年の根津が疑問に思ったように、"お坊さん"を連れてきた制服着た偉い人以外の警察も、そう考えたのだろう。
絢爛な法衣を纏った、豊かな灰色の髪をした初老の男が、一般的に坊さんと判別される服装をして重厚と厳かを兼ね備えた雰囲気で、静かに部屋に入ってきた。
その後ろに3ピースのスーツ姿の、こちらも初老の―――異国の血でも入っているのか、癖の強いブラウンの髪をオールバックに撫で付けていて、彫りが深い人物が続く。
髪のある坊さんが忽然と佇むのに比べて、スーツ姿の男はキョロキョロと部屋の中を見回していた。
そしてそのまま、口を開き、"警察の偉い人"に話しかける。
"で、"観音"の最後に立ち会った人ってどいつだ?"
少年でもないのに、スーツ姿でやんちゃな小僧のような口の聞き方をするその口許には、八重歯が特徴的に見えた。
("かんのん"?)
警察の偉い人が説明を始める前に、髪の生えた坊さんが少年の根津の方に視線を向けていた。
(―――っ)
大人を謀っているのを、一瞬で見抜かれたのが判る。
"視線が鋭い"なんて表現は、本の物語の中だけと思っていたけれど、実際に"在る"のだと、実感し、少年は部屋の隅のパイプ椅子の上で硬直した。
"四ツ葉、あの坊主がそうらしい"
禿頭ではない僧侶が、部屋の隅に座る鳶色の髪をした少年を見据えて、キョロキョロとしているスーツの男に告げる。
"坊さんが、"坊主"か?って、まだ本当にガキじゃねえか"
四ツ葉と呼ばれたスーツの男は、笑って、案内になっていた"警察の偉い人"を追い抜いてコツコツと革靴で床を鳴らし、部屋の隅の方にいる根津の方にやって来る。
その頃には僧侶から向けられていた視線は、とうに外され、根津少年の硬直は解されていたが、此方にやってくる人物の奇っ怪にも軽快にも見える足取りは、心に漣の様な不安を煽った。
そして、たどり着いた途端に、"フーン"と露骨に観察する視線で、パイプ椅子に座る少年を見下しす。
"こいつが、入滅に"立ち会ったって"ガキ?"
根津に付き添う、"気を付け"の姿勢をした私服の婦警に、四ツ葉と呼ばれたスーツの男は訊ねる。
婦警が気を付けの姿勢から身をそらし、"四ツ葉"と"僧侶"を連れてきた警察の偉い人に答えて構わないかどうかの許可を仰ごうとしたならば、スーツの男は小さく舌打ちをする。
"飲み込みわりぃなぁ、あんたの上司がどんな調子で"この部屋"に、"俺"と"黒佐渡"連れて入ってきたか見て、どっちが立場が上かどうかぐらいわかろうぜ、まあ、いいや、どいて"
また"やんちゃ"な少年の様な口を効いて、私服の婦警の肩を掴んで、グイっと横に押した。
婦警はよろけたが、何とか転けずに根津から離れると、そのまま固まる
"事件の現場"から保護され、警察署内に案内され、結構親身になって未成年の根津の世話を焼いてくれた婦警だったが、背の高いスーツの男の、やや乱暴にも見える行いに、怯えている。
世話になった根津も、1日遊び回って汗を沢山吸ったシャツの下で、今度は冷たい嫌な汗を背に流す
四ツ葉と呼ばれたスーツの男が根津の座るパイプの真横に立った。
"状況的には、《お前が"観音"を入滅させた》なるんだろけれど、まあ、何だ、早い話が巻きこまれたてか、"自殺"にならない為に、利用されたんだな"
見下ろされながら、淡々と言って四ツ葉が言ったなら、少年の姿に新たな影がかかる。
捜査本部になり損ねた会議室にいた誰もが、四ツ葉の動きにばかりに注目していて、僧侶の動きに気がつけてなかった。
"で、どんな風に死んだんだ?刀には、お前の指紋が付着してたみたいだけれども"
回りが僧侶の動きにハッとするなかで、四ツ葉は側に来た"黒佐渡"に振り返りもしないで、根津に訊ね続ける。
だが、少年の根津は相変わらず"事件の事"になると―――引き続き言葉を出すことが不可能の状態にあった。
けれど、やんちゃな―――高圧的な態度のスーツの姿の初老の男は、警察とは言えども女性にあたる婦警を、乱暴ではないにせよ、押し退けたのを眼前で見た。
子供の根津でも、"そこ"に甘んじようとしたら、容赦なく攻撃的な態度を取られるし―――"黒佐渡"と呼ばれる有髪の僧侶も、関わってしまった少年と四ツ葉の話を"聞いている"のが、判る。
ここでは何も行動を起こさない事―――、自ら動く意志を持たない態度をする事が、自分の不利と、警察の偉いさんが連れてきた、四ツ葉の言う"立場が上"の2人の不興を買うことに直結する。
それを察する利発な少年は、"無用なストレス"を避ける、自分の現状を証明する為に、口を開いた。
言葉は相変わらず、事件の事に関し、自分の意志に反して声は出ない。
それでもパクパクと大きく動かす事には、意味がある、そう信じて動かす。
目論見はあたった。
四つ葉は右手を顎にあて、左手をスーツのポケットに突っ込むと"ああん?"と、また"やんちゃな少年"の様な声を漏らす。
根津の"狙い"通り、余計な不興を2人の初老に与える事はなかった様子だった。
"何だ、早速PSD(心的外傷後ストレス障害)か?、ああでも、1ヶ月未満の場合にはASD(急性ストレス障害)だっけか?黒佐渡?"
だが、今度はいき"やんちゃな少年"とは、縁がなさそうな専門的な言葉を並べるから、根津を含めて部屋にいる警察関係の人々は驚く。
この当時、利発でもまだまだ少年の根津と、昔気質の警察関係者は言葉の意味は専門的な用語など解らない。
ただ、"子どもの世話"を任されていた、婦警は知っていたようで、首を縦に振るが四ツ葉はそちらを見てはいない。
彼が見ていたのは、横に立つ黒衣に黄金色の袈裟を纏う、黒佐渡と呼び掛けられる"僧侶"。
僧侶は眼球の黒い部分だけを動かして同伴の男をちらりと見た後に、
"賢人でもないのに、繰れない言葉を使わないことだ"
と、短く言ったなら、黄金色の袈裟の下にある黒衣の袖を"ふうわり"とさせたなら、パイプ椅子に座る根津の少年前に立つ。
"PTSD、ASDを発症する条件は、"強い恐怖感を伴う体験が存在すること"だ、だがあの"観音"が入滅にそんな"手抜かり"をすると思うか、四ツ葉"
"暗い瞳"で見下されながら吐き出された、重く厳かな僧侶の言葉だったが、少年はその通りだと思う。
ローマ字を続けて言われた専門的な言葉は知らなくても、"てぬかり"の意味なら判る。
もう何度も聞く、"にゅうめつ"の意味は、あの綺麗な人が、"めつ=滅"と消えてしまう意味での連想も出来た。
だから、今は自分を無感情に見下している有髪の僧侶が、
【"かんのん"と呼んでいる綺麗な人が、その人が死んでしまうことで、少年に恐怖を与える事はない】
そういった意味を断言しているのが、少年の根津には判った。
だから、言葉が出ない口に代わって、"その通り"という意味で大きく頷いた。
けれども、有髪の僧侶は無反応に微動だしないで、暗い目をして少年の根津を見つめ続けている。
(あの綺麗な人が、3人、人を殺したみたいな話になっているけれど、このお坊さんみたいな人の方が、よっぽど怖いや)
あのつり目の、綺麗な和服の人の出逢いは、根津少年には決して恐怖などではなかった。
寧ろ、安心すら与えて貰った様な気持ち。
夕方の茜色と夜の闇を挟み込んだ様な、不安を煽る様なあの異質な時間と空間。
"時間を守って帰らないといけない"
そう思いつつも、その実はあの禍々しい雰囲気に呑み込まれそうなのを、少年は恐れて"逃げて"もいたから。
そこに、思わず駆ける脚を止めてしまうぐらい、見惚れてしまう気高く輝くように咲いている華を見つけてしまった。
辺りを優しく照し、光を灯したように咲いていた"華"が与えたのは、恐怖ではなくて"感動"。
そこで、あの綺麗な人に出会ってもたらしてもらったのは、"安心"と『自分が華として咲いている内に、摘みとって欲しい』という"願い"だった。
例え根津の小さな手が、掴み手にした小刀で、あの綺麗な人を、願いを叶え、その命を摘み取り"死"へと誘っていたとしても、子どもの中に罪悪感はない。
それに"君が気にすることはない"とも、何度も言われた。
"どうせ、<死刑>になっていた"
けれど、その言葉を思い出した瞬間、あの茜色と夕闇の色に与えられた"恐ろしさ"が全身を廻る。
(ああ、そうだ、安心と一緒に"助けて"も貰っていたんだ)
あの時穢れた和服の、華のような人に出会っていなかったなら、きっと、自分ではどうにも出来ない禍々しい出来事に、引きずり込まれていた。
フンっと僧侶の鼻で嗤う声で、少年は顔を上げる。
"そういう事だ、"偶然の命がけの気まぐれ"、精々感謝するがいい"
根津の表情を読み、子どもが"助けられた事を自覚"したなら、嗤いを引かせ、興味が失せた如く椅子に座る小さな人を見ることを止めた。
わずかに覗き込むように見ていた姿勢を戻したなら、"カチャリ"という、小さな何かがぶつかる音が、僧侶の黒衣に隠れている左手の方から聞こえる。
"連れ"が、根津への興味を消失したのが判った四ツ葉は、また"フーン"とやんちゃ坊主の様な声をだして顎に当てていた手を外して、スーツの方に突っ込んだ。
"入滅まで慈悲深い、さすが綺麗な観音様って、言いたいけれど、偶然にしても、どうしてこんなガキを巻き込んだんだ?。てか"最期"を聞かなくていいのか"
少しだけ鋭くした視線で、最終的な確認を取るように、スーツの男は僧侶を横目で見つめる。
"《秘すれば、"華(花)"なり》としておこう"
利発な少年は、何かで聞いた覚えがあるけれど、これもまだ意味は理解していない言葉に瞬きを繰り返す。
"俺は、お前が良いなら、"最期"までそれで付き合うけれどな"
それから、身軽に"回れ右"をしたならば、先程自分が軽く突き飛ばした、私服の婦警の方に肩幅の広い身体の正面を向ける。
婦警の方はやはり先程の事もあって警戒しているが、四ツ葉が八重歯を隠して今度は愛想良く、且つ品良く微笑んだ。
スーツの姿で背も高い男は、そんな風に振る舞ったなら、十分に魅力的な初老の紳士で、それに思わず婦警は、先程の怯えも忘れ、見惚れた。
"ケジメ、早くしろよ"
"公僕"を虜にする微笑みを浮かべたまま、紳士となった"やんちゃ坊主"はそう告げ、1歩前に出たならば、私服の婦警の視界を完全に塞ぐ。
僧侶も―――黒佐渡も四ツ葉と同時にも、1歩前に出て少年の視界を金と漆黒の法衣で"埋めた"。
"観音"に《禍時》の時間から救済されたのなら、奴が《現》で入滅したことで背負うはずだった、"法の裁き"の一端を担って貰おうか"
そういって、僧侶の左の手が上がり、その指先に、少年の頭の大きさを優に越える環が出来る。
(これって、あれ、だよ―――っ?!)
その環の正体が、僧侶には欠かせない道具だと根津が気がついた時には、少年の首まで降りて―――念珠が締め上げていた。
想像の範疇を飛び越えた道具が、根津の首に食い込む。
グッと念珠を通した紐が、皮膚の薄い首を絞め上げたと同時に、"ハッ"と小さな少年は、声にならない音と唾の飛沫と共に、顎を上げ、口から漏らす。
口を開き、眼も大きく見開き、根津は僧侶を見あげた。
(たすけて)
救いを求める言葉は浮かぶが、初老の僧侶とスーツの男が造った"死角"で行われていることに、無慈悲なほどに、大人達は気がつかない。
正体も名前も四ツ葉というスーツの男が、"黒佐渡"と名前らしき物を呼んだもの以外詳細の判らない僧侶の姿をした男は、仏具と呼ばれている道具で、"観音"を看取った少年の首を締め上げながらも、やはり表情1つ動かさない。
"たすけて"という感情が、"無駄"なのだと、少年は首を絞められながら覚る。
けれど、無駄とわかっても恐怖という感情は、少年の根津の中から、抜け落ちる事を諦めてくれようとはしない。
(こわい、こわい、こわい、こわい、こわい、こわい、こわい、こわい、こわい―――恐い!)
目の前にいる有髪の僧侶が、"恐い"という感情しか浮かばない。
"これが本来なら、"観音"と奴が命を奪った彼奴等が受ける筈だった、この国の法の罰の1つだ、童"
厳かな沈むような、根津にだけ聴こえる声量で僧侶は喋り、また少し絞める力が加わって、圧迫がかかり、根津は苦しくなる。
"もしお前に出逢わなかった"観音"が、公僕に捕まり、公で名を知られ、裁かれ、公衆の定めた法に殉じて、受け入れるつもりだった、苦しみ"
そんな言葉を聞きながら、怖さと苦しさの両方が、同等の勢いで根津の身体を占めていく。
そこからは、首を絞められる力で、耳が詰まった様な感覚になり、僧侶の耳に響く音が"霞む"。
眼球は、今までの生活の中で意識なんてしたことがないのに、目玉の後ろに熱い様な痺れる様な痛みが伴って、僧侶を写す目は乾き、指でふざけて広げて遊んだ時よりも、広がるのが判る。
目尻の端の縁にピリリとした痛みが走る。
眼球の白い部分の毛細血管の末梢の血管が拡張し、そこに血液が流れこんで、白目が充血するのを体感した。
全て、念珠でくびられた箇所から、吊るしあげられ、自分の命がくびり潰されていく。
(―――これは)
"生きている事を国の法に則り、否定され、生きる権利を吊るし落とされている"
そう、利発な頭で理解した時―――少年は僧侶の黒衣から覗く手首を力強く掴んだ。
(その人達が、受ける罰だったかも知れないけれども、これは"私"が受けるべき"罰"じゃない!)
強くそう思って、考えた。
勿論、力で大人に敵うわけがないが、それでも指に力を入れて爪を食い込ませる。
"ほぅ"
その指の力で、年上と言われる子ども達と喧嘩になった時には、やり返して泣かせた。
その時の"誇り"の様な気持ちを、怯える自分に思い出させる。
きっと自分の10倍近くは生きている、"お坊さん"の姿をした存在に少年は"眼"を向けた。
恐怖に揺れ、定まらなかった視線の焦点を、自分の命をくびり取ろうとする僧侶に合わせ、大人にも"鋭い"と言われる眼光を、血走った瞳で見据える。
相変わらず、恐ろしさがその身を占めるけれど、それ以上に自分の"誇り"と"殺されてたまるか"という憤りも、急激に少年の根津の中に沸き上がる。
棒のように垂らしていた脚に力をいれて、ゴムの靴底を床につけて踏ん張った。
序でに僧侶の手首をつかんだ腕の力を使って、その勢いで立ち上がり、"吊るしあげられる"感覚から、逃れる。
勢いを出して立ち上がった時、"ガシャン!"とパイプ椅子は、盛大な音を捜査本部になりかけた会議室中に轟かせて、固い床に倒れ、そのまま畳まれる。
その瞬間、少年の首を絞め上げていた念珠が外された。
"ッハ?!"
潰されるような状態になっていた気管と肺に、"ヒュ"と一気に空気と"唾"が入り込み、少年は激しく咳き込み、力強く握り絞めていた僧侶の手首を握る力が抜け落ちる。
それと同時に、パイプ椅子が倒れた音の条件反射の如く、音に引かれ、それまでどちらかと言えば、"やんちゃ坊主"から紳士に変わった四ツ葉に向かっていた視線が、正体不明の僧侶と事件に巻き込まれた少年の方に集まる。
ただ、その頃には根津は両方の膝も掌も、古く冷たい床に着け、鳶色のフワフワとした髪の頭を下げて、激しく咳き込んでいた。
もし、音がない世界でこの様子を見たなら、少年が剃髪してない立派な僧侶に拝んでいるようにも、救済を施しを求めている様にも見える光景だった。
そして、実際のこの場所にいる"根津と有髪の僧侶のやり取りを見ていなかった人達"にはそう見えてしまう。
彼らは凄惨な事件の関係者になって、心にストレスを抱えた少年が、"僧侶に有り難い言葉でもかけられて、感動しているのだろか?"。
少年からすれば、"ふざけるな"と思える状況なのだろうが、今は俯き呼吸を調え、落ち着かせるべく、激しく咳き込み続ける。
四ツ葉だけがスーツのポケットに手を突っ込んだまま、僅に長身の身を捻り、目を細めて佇む僧侶と、その手前で、犬が大地に這うように頭を下げて咳き込む少年を眺めていた。
先程まで紳士に見惚れていた、公僕の女性は、流石に激しく咳き込む過ぎているのも心配になって、少年の元に駆け寄ろうと足を動かす直前に、肩を捕まれ止められる。
"こういった事は"プロ"に任せて、優しいお姉さんは、"最後のフォロー"だけすれば、良いんじゃないですか?"
紳士とやんちゃ坊主を合わせた様な、不真面目な留め方だけれども、背の高い男が小柄な女性の動き足止めするのも、再び周囲の注目を集めるのもそれで十分だった。
"カチャリ"という念珠のぶつかる音が、自分の咳き込むと共に俯く少年の耳に響く。
見上げたなら、少年の根津の首から外された長い数珠は、黄金色と黒衣の僧侶の左手で二輪にし、房を下ろして納まっている。
その毅然ともした姿に、猛烈に腹がたって、血走った瞳でまた睨み付けた。
きっとそれは子どもながらに、凄まじい形相なのだが、僧侶の姿をした人は揺るがない。
その揺るがぬ様子のまま、少しだけ身を腰から降ろして、念珠を二輪に回して持った左手が根津の首に伸び、豊かな房が揺れた時。
散々咳き込んで、泪も唾も洟を垂れ流していた顔についている―――"鼻"が急激に働いて、念珠の房から漂う"香り"に身体が反応する。
胃に重い拳を打ち込まれた様な感触を、鼻腔から頭に届く線香の香りに与えられ、口の中が苦味と酸味で満ちて、一気にその場で吐き戻した。
流石に、場は騒然としたが、吐き戻した当人が一番呆然として、吐瀉を止められずに続けている。
鼻に残る"線香"の香りを感じる度に、何度も吐き気と恐怖が少年を満たす。
どうしてだかわからない。
首を絞められて、生きることを否定されて、怖い、恐ろしいと思いながらも、何とか押し戻していた"死"の恐怖が死者を弔う"線香"の臭いで、一気に押し負けた。
"これは、流石に"拙僧"でも、手に終えませんな"
黒佐渡は静かにそう宣言する。
僅かではあるが少年の吐き戻した吐瀉物が、床を跳ねて僧侶の黒衣と袈裟と汚し、その周りには饐えた臭いが立ち込め始めていた。
だが、僧侶はそういったことには、一向に気にしてはいない。
また少年は何時口にしたか分からない、未消化物の塊をまた"ボタリ"と吐き出す。
"うわっ、きったねえ、今日食ったもん全部吐き出しているんじゃねえか?"
四ツ葉が例のやんちゃな口調でいう言葉に、不思議と"その通り"だと少年は自分の吐き出した物が、鼻の奥を擦るようにして込み上げてくる、饐えた匂いを直に感じながら考える。
今日出逢ったものは、あの綺麗な人以外が不浄にも感じるし、"線香の匂い"で完璧に死というものを意識し、まるであの匂いが恐怖のスイッチになってしまっている。
(あ、馬鹿だな)
スイッチになると自分でもわかっているのに、目が回る様な状態ながらも"線香の匂い"を思い出した事で、また身体中に悪寒と胃袋を圧迫されるような、感覚になる。
(やっぱり"スイッチ"だな)
もう、恐怖に包まれて、吐き出せるものがないくらいに思っていたのに、また少年は思い出した事で、呻き声と共に大きく口を開けていた。
そんな部屋の隅で行われている出来事に、四ツ葉はやや大袈裟に肩を竦めてから、"友人"を見たなら表情に変化はないが、雰囲気で彼が"納得"しているのが判る。
それを見たなら、口の端をグイとあげて、自分が引き留めた女性にむかってを口を開いた。
"あ、ほら、プロでも駄目だったみたいだから、優しいお姉さんが"最後のフォロー"をしないと"
四ツ葉が歯に衣着せぬ言葉を出したなら、あっさりと今まで自分が足止めしていた婦人警官の肩を先程よりは優しく押した。
"おーい、掃除道具とか、何か拭くものないか?"
少年の根津が吐き出した事に、騒然としていたが、未だに誰1人動けていなかった状況が、四ツ葉の一言で動き出す。
私服の婦人警官が、尚も吐瀉を吐き出し続ける少年に向かって走り出しのと入れ替わるように、有髪の僧侶はスッと動いて、戻ってくる。
"おかえり"
そう言いながら、スーツ姿ながら四ツ葉は胸元から、手拭いとわかる布切れを取り出し、僧侶の立派な黒衣の端につく"汚れ"に目を向けた。
"いらん、基は糞掃衣だったものだ"
興味がないといった感じで、自分の纏っている衣を見て、有髪の僧侶は首だけ振り返り、今は介抱されている少年を一瞥し"微笑んだ"。
四ツ葉は屈んで、汚れが黒衣に染み込まないように丁寧に拭いながら、珍しく微笑む僧侶を見もせずに、その心情を言い当てる。
"仕事着の汚れ以上に、そっちの方が"良かった"わけだ?"
そこまで言った時に、警察署内を案内してきたお偉いさんが、"理由は聞かずに失礼の無いように厚遇しろ"とお達しのあった2人の側に来たが、スーツと僧侶の初老の人物たちは見向きもしなかった。
ただ"お偉いさん"は予め、四ツ葉と名乗る男からこの警察署に到着と同時に、
"此方から質問があったら話しかけるから、それ以上は控えておいてください、お願いします"
と、高圧的ながらも紳士的に申し付けられていてもいたので、こうやって無視に近い形をとられても、気にはならない。
それよりも、"お偉いさん"からしてみれば、四ツ葉という男の表裏が、判別できない事に戸惑ってもいた。
捜査本部になるはずだった会議室に入るまでの彼は、本当に見事なまで冷徹な、もう1人の来客である高僧の世話をする為だけに、同行する秘書の様な人物が、四ツ葉という人なのだと思っていた。
だがこの部屋に入ってからの、彼の"やんちゃ坊主"への変容に、驚きついていけない状態にもなる。
それに続いて、何より位の高そうな、"お偉いさん"の中ではあまり見かけた事がない、剃髪していない僧侶の行動の意味がわからない。
やんちゃ坊主な四ツ葉の振る舞いしか見てない、会議室にした警察署員は、彼が紳士となって婦人警官への発言―――
【こういった事は"プロ"に任せて、優しいお姉さんは、"最後のフォロー"だけすれば、良いんじゃないですか?】
この時、額面通りに、他の公僕はその意味を受けとることが出来たが、彼には出来ない。
だから、"触らぬ神に祟りなし"を念頭に置き、彼等の目的は未だに分からないが、"客人"が満足して、自分が統治するこの警察署内を再び旅立つまで、側にいて失礼の無いように黙っていた。
ここの管轄だから保護をしただけの、この区域の福祉施設に世話になっている少年なんて、怪我もしていないというのなら、歯牙にもかけない。
最初、報告に"被疑者に襲われていた"と聞いてもいたのに、こちらに保護されても比較的落ち着いていた。
生活安全課の少年係の婦人警官が、"まだショックで呆然としているだけです"と言っていたが、とてもそういった事で参っているようにも見えなかった。
可愛げもないし、黙ってこちらを観察している様にも伺わせる雰囲気は、不貞不貞しくすら感じ、仕事でなければ関わりたくもない類いの子ども。
大人に敬意を払う事を知っていても、認めた人物にしか払わず、礼儀を知った上で、相手を見て無礼にならない程度にしか使わない、小聡さ。
それが、大抵の大人が少年の根津に持つ印象でもあった。
一応、最初に"大丈夫だからね"と大人の対応をした後も、頭は素直に下げるのだが、子どもながらに向けられた鋭く見える眼は癪に触る。
何とか睨み返してしまいそうになるのを堪えたなら、その後"お偉いさん"は、目まぐるしい連絡の量に、追われ癪に触った事など忘れていた。
既に死亡している被疑者の関係者や、被疑者が殺めた3人の"始末"に追われ、この場所にくるまで短い時間だが忙殺といってもいい状態。
そして、漸く落ち着いて、失礼の許されない客人を、その"癪に触る子ども"に見えさせたなら、恐らくは、自分が案内したに2人によって、不貞不貞しい子どもは、"災難な事件に巻き込まれた子ども"になった。
恐怖につつまれ、震えて泣いて、最後には堪えきれず吐き戻す。
もし、あの少年がここに来た時、今のような"脅える子ども"だったなら、同情してやったと思う。
報告から考えたなら、何も知らずに巻き込まれたのだとしても、"人を刺してしまった"なら、子どもとして、あのように怯えていなければならない。
怯えてくれたなのなら、まだ"マシ"な公僕の責任者たるべき、寛容な心で以て接していた、そう考えた時
"世間の枠に当て嵌め、弱者が弱く振る舞わないことは、世間にしか通用しない"大きな力"しか拠り所にしていない者には、確かに腹立たしい事よな"
不惑を終盤に迎えた年齢に、戦慄という感覚を味わせれる重々しい声が、俄に側で響いた。
失礼がないようにと、肝に命じていた筈なのに、"自分に向かって言われた"のだと判った途端、体は声色の重さに竦み、固まる。
深く関わるまいと決めていたのに、"触らぬ神"の方から、声をかけらたならお偉いさんは、肯定も否定も出来ないまま、ただ狼狽える。
その狼狽えに上乗せするように、今度は四ツ葉が、鋭い横槍を言葉に乗せて持ってくる。
"ガキが生意気なのは許せるが、不貞不貞しいは許せない、ですか"
四ツ葉が"やんちゃ"と"冷徹"さを重ね合わせた言葉を口にする。
この様子に、丁寧に言葉を返せばいいのか、それともこちらもフランクに返せばいいのか、どれが妥当なのか、迷った。
妥当でもなくてもいい、せめて"間違えたくはない"。
下手な返答が、自分の首を絞めることに繋がるのが、容易に想像できて辛い。
数秒しか時間が過ぎてないが、スーツの男は時間切れと言った様子で"お偉いさん"を見限った。
"なら、あのガキは大人になって、"不貞不貞しく"振る舞うしかないですね"
そうして四ツ葉は、"お偉いさん"に先入観を植え付つけた、一番最初の礼儀正しい秘書の言葉を使って、顔はやんちゃに八重歯を見せて笑って見せる。
礼儀正しく答える事が正解だったのか?。
でも、言葉は丁寧なものを使っているが、表情はやんちゃな坊主そのものにしか見えない。
どれが、間違っていない選択なのかが、未だに判らない。
見限られても、"お偉いさん"は尚も考えていた。
そして、考えている様子を四ツ葉は背の高さの都合上、物理的に見下して観察している。
"時間潰しに、相手を混乱させる言葉ばかりを口から出して、反応のサンプルを集めるのは、やめておけ、四ツ葉"
再び僧侶の姿から似つかわしくない、横文字の言葉を黒佐渡が重々しく口に出したなら、お偉いさんは、漸く考えることをやめた。
"さ、サンプル?"
"お偉いさん"は、自分より背の高い、そして恐らくは自分より年上の男にただ翻弄されている事に漸く気が付いた。
そこで、この四ツ葉という秘書の様にも見えるスーツの男は、"最初から表も裏もなかった"の悟る。
使い分けているわけではなくて、その時に出したいように自分の言葉を口にただ出して、反応を観察されているだけなのだと、知って俄に大きく侮辱された様な気持ちになった。
だけれども、侮辱を感じながらも、関わりを持つまいと"触らぬ神に祟りなし"と考えていたのに、関わりを持ってしまった自業自にも思えた。
"悪いねえ、俺が気遣うのは、精々友だちぐらいなんだわ。私はそういう性分なんで、申し訳無い"
一人称を態々(わざわざ)2つ使って、"本当の所"をサラッと四ツ葉が言うと、お偉いさんは、もう言葉が続かない様子だった。
その時、"お偉いさん"を散々からかった四ツ葉の動きが止まる。
スーツの内ポケットから、何か掴んで取り出した。
"さてと、結果はどうなるかな~"
取り出したのはページャー(ポケットベル)で、片手で操作しながら、序で眼鏡―――どうやら老眼鏡を取り出した。
まるで初老のその姿も、何かの反応を楽しむ為の道具なのではないかと思えたが、流石にそうではないらしい。
シワが入った手で、慣れた仕草で眼鏡をかけて、ページャーに飛ばされてきた短い文言を読んで、特に表情を作らず口だけ動かし、"ともだち"に告げる。
"黒佐渡、やっぱ観音が始末した奴等、"黒"だった。
で、取引成立、"引き取って"帰って良いってさ"
ページャーの操作を終え、眼鏡を外し纏めて、またスーツの内側に戻した。
そして自分達と関わりたくない雰囲気を隠そうともしない、"お偉いさん"の方を向く。
"じゃあ、霊安室、案内してくれますか"
被疑者の遺体の引き取ります"
"事件性がありましたので、その、司法解剖が"
やっとの思いで"お偉いさん"がそういったが、それは四ツ葉の部屋に響き渡るぐらいの"チッ"という舌打ちで途絶えた。
その音に"聴かないふり"をしていた、捜査員になるはずだった署員が数名振り向いた。
彼等もこれまでの流れで、僧侶とスーツの姿で突如現れた初老の2人が、先程起きた事件が公の事件として扱われないのなら、"関わらない方がいい"と察して、見てみぬふりをするつもりだった。
それを忘れて見てしまうほどの、インパクトを持っている音だった。
"死因は彼処でゲロゲロ吐いてる、"巻き込まれたガキ"を使った小刀での"刺殺"だなんて判りきってるだろうが"
四ツ葉が声に圧を乗せ、部屋の隅で漸く嘔吐を止めた少年の方を一瞥して言った。
"それなら、裁判所から"鑑定処分許可状"の発行して、司法解剖しても宜しいが、国の血税、解りきった死因の為に使いますかな?"
今まで四ツ葉に、こういった事で加勢する様子を見せなかった僧侶が、珍しく―――そして搦め手の言葉で加勢する。
スーツと僧侶の男が、連続して喋ったなら、もうどんな立場の存在も言葉を挟める様子ではなくなっていた。
"わかりました"
何とか吃らずに、"お偉いさん"が返事をして、案内するために動き始めた。
舌打ちに驚いていた他の面々も、再び活動―――どちらかと言えば保護した少年の吐瀉してしまった後の片付けを始める。
四ツ葉は、側にいた署員の肩をトントンと気軽に叩いて、話しかける。
どうやら"連れ帰る"為の要員を外に待たせているらしく、そちらを呼んできて欲しい、と"秘書"の口ぶりで、頼んでいた。
そうやって語りかけられると、本当にただ事件の関係者で、警察から連絡があって遺体を引き取りにやって来た、縁者に見える。
けれど確実に先程まで、激しい舌打ちや、ショックで嘔吐する子どもに対して暴言を吐いていた大人のはずだった。
ただ、話しかけられた"駒"として使われる事に馴れてもいる署員は、そこまで四ツ葉の言動の差に拘らずに、"お偉いさん"に視線で確認を取った後で、速やかに出て行く。
"それでは、どうぞ、此方へ"
"黒佐渡、行こう。別に苦手じゃないが、やっぱり匂うからな"
少しばかりだけれども、"馬鹿にする"ニュアンスを隠しもせずに、今は婦人警官に支えられて踞っている少年の方向を見ながら、四ツ葉が言った。
"そうだな、それに早く、観音を連れて帰ってやろう"