少女の毒
「胡桃ちゃん。あたしね、胡桃ちゃんのことが好きよ」
「美也ちゃん、私も。私もね、美也ちゃんが好き」
※
あたしが、胡桃を憎んだのは、この瞬間でした。
顎のラインで切りそろえたすぐにくしゃくしゃになる栗色のやわらかな猫っ毛。ミルクのように真っ白な肌、青灰色に深く澄んだ不思議な瞳。
綺麗な綺麗な、胡桃。
あたしの、特別な女の子。
物心ついた時から、ずっと一緒に過ごしてきた“幼なじみ”。そして“親友”。
そんな言葉で自分の心をオブラートで包み、大切に守り続けてきた無垢な笑顔を壊してしまいたいと思ったのは。
空っぽの胸で躍る走馬燈の螺旋。
玄関のチャイムを押して「美也ちゃん、いつも胡桃が迷惑かけてごめんなさいねぇ」の決まり文句に如才なく答えながら、朝一番の眠たい笑顔を独り占めする幸せ。
休み時間ごとの内緒話。くすくす笑いあいながら、意味も他愛もない薄荷の善意と蜂蜜の悪意をごちゃまぜにして。秘密めいた視線だけで頷き合う時の愉悦。
帰り道。無邪気に絡めてきた腕から伝わる体温。いっそはしたないほどの動悸の激しさに耐えられず腕を振り払うと「美也ちゃんの意地悪」と頬を膨らませた甘い声音。
夜毎ベッドの中で胡桃を思うときの、瞼の裏で花火が散るような刹那の喜びと錆の味のする絶望。
溜息のような匂い菫。白詰草の花かんむり。プリムラ、沈丁花。
笑顔のような向日葵。朝顔の葉を伝う雫。露草、ポーラチュカ。
星屑のような金木犀。彼岸花の誘いに立ちつくし。コスモス、桔梗。
爪痕のような冬牡丹。雪を染める七竈の紅。寒椿、ポインセチア。
朝も昼も夜も。
春も夏も秋も冬も。
繰り返す毎日と、繰り返される季節。
艶やかに移りゆく花びらと砂糖菓子の日々。
胸を妬く甘美な苦み。嘘と嫉妬。
全部、全部、隠し通して。
胡桃と胡桃の親友である自分、を守ってきたのに。
きっと、この百合の花がいけないのです。
花園一面を覆い尽くす百合の花。
とろりとしたたる蜜のように濃厚な芳香。
誘われるようにしてあたしは。
イッテハイケナイ。
そう決めていたことを。
「…胡桃ちゃん。あたしね、胡桃ちゃんのことが好きよ」
「美也ちゃん、私も。私もね、美也ちゃんが好き」
「……じゃ、あたしたち両想いだね」
「んっ」
「でもね、あたしは………」
あたしの“好き”は。
言いあぐねて口をつぐんだあたしに、胡桃ははにかんだ顔で笑いかけ、
「美也ちゃん大好き。美也ちゃんは一番大事なお友達なの。これからもずっと仲良くしようね? うふふ。なんだか告白してるみたい」
“友達”“友達”“友達”
目眩のようなリフレイン。
吐き気を催す強い百合の香り。
どくどくと、別の生き物のように脈打つ脳髄。
“友達”“友達”“友達”
あたしは幻聴に酔ったように、ふらふらと胡桃の首に両手を掛けました。
「美也ちゃん?」
「じっとしてて」
「…あたしのこと好きなら、じっとしてて」
しわがれた声で囁いて、あたしは微笑みました。耳まで裂ける赤い唇を誤魔化すように。とびきり優しい笑顔で。
「ん」
「目を閉じて」
胡桃は…素直に目を閉じました。
細い細い、華奢な白い首。
これなら女のあたしでも、容易に絞めることができます。
手のひらに包み込んだ雛鳥を握りつぶすように、簡単に。
胡桃の体温。脈打つ鼓動。
あたしは酔いに任せたまま、そっと指に力を込めました。
少しずつ、少しずつ、強く、強く。
ごくりと、遮断された空気を求めて胡桃の喉が動きます。
小さな呻き。上気する頬。
胡桃の小さな頭は、弾ける寸前の風船のように膨張を感じていることでしょう。
血液はソーダ水のように泡立ち、泡が弾けるたびに意識が混濁していくはずです。
ふざけているのだとでも思っているのか、胡桃はまったく抵抗しません。
静かに…なすがままに。
このまま。
あたしは胡桃の全部を手に入れて、そして。
あたしは胡桃の全部を失って、そして。
胡桃のいない世界に、一人取り残される。
“友達”“友達”“友達”
いつか誰かに奪われるのならば、いっそ、そのほうが。
ねぇ。好き。大好きだよ、胡桃。
「み…やちゃ」
「…あ…」
はっと我に返ると、胡桃は青灰色の不思議な瞳を見開いて、じっとあたしを見つめていました。
すべてを見透かすような、深い眼差し。
「胡桃ちゃん…」
拒絶されるのだと思いました。
止めてと振り払われるのだと。
なのに。
胡桃は小さく笑って、わずかにうつむくと、
「もっとつよく」
瞬間、全身の肌が泡立ちました。
誘惑されているのは、あたしの方でした。
そして、臆病なのもあたしでした。
あたしは、胡桃の首から手を放し、華奢な身体を抱きしめました。
ごほごほと苦しそうに咳き込む胡桃。
背中を撫でながら必死に謝ります。
「ごめん、ごめんね、胡桃ちゃん」
「…………」
咳き込みながら胡桃が漏らした抗議の言葉らしきものは、うまく聞き取れませんでした。
だから、ひたすら謝ります。
「ごめんなさい、ちょっとふざけただけなの。ごめんなさい」
もちろん、そんなの嘘だと胡桃にはわかっているはずです。
白鳥の首にかけた指先に籠っていた力で、背中を撫でる震えの止まらない手のひらで。
「……。」
ようやく咳の止まった胡桃は、顔を上げてまっすぐにあたしを見つめ……。
「もぉ。美也ちゃんの悪戯好きには困っちゃう」
胡桃は笑いました。
無邪気に、無垢に。心からの信頼に満ちた笑顔で。
誘惑されているのは………。
「………」
あたしは何度も首を振って、纏いつく百合の香りを頭の中から追い出し、ぎゅっと瞼を閉じて眉間を指先で押さえました。
「…ん。ごめんね。ちょっとやりすぎだったね…。花の香りに酔っちゃったのかも」
「いいよ。いいの。」あっけらかんと胡桃。「美也ちゃんは胡桃になにしてもいいの。美也ちゃんだけは、なにをしてもいいの」
「胡桃、ちゃん…」
「ね、そろそろ行こうよ。胡桃、お腹すいちゃったな。お茶して帰らない?」
「ん、お詫びに『三月兎』でパフェおごる」
「わーい、ラッキー♪」
飴細工の棘とチョコレートの刃。
死には至らない少女の凶器。
あたしたちはいつものように指を絡めて手をつなぎ、花園を出ました。
束の間傷つけあったことはすべて忘れ、少女に相応しい、ひらひらと舞う二頭の蝶のように気まぐれな足取りで。
※
「…美也ちゃんの、意気地なし」
「ん? なにか言った? 胡桃ちゃん」
「…ううん。なにも」
大好き。大好きよ、美也ちゃん。
だから、きっといつか。