二人の距離
三年生になると、クラスは完全に理系と文系に分かれ、理系の未来は当然、俊介とは別々のクラスになった。その寂しさがまた未来を悩ませていたが、驚いたのは、城戸が未来のクラスの担任になったこと。去年までは他の教師たちの手伝いをしていたが、今年から、クラスを受け持つことになったのだ。最初に担当するのは、まずは学校生活にも慣れて分別もある三年生からと決まっているようで、六つあるクラスの中から、未来たちのクラスに決まった。
「浮かれちゃって。馬鹿みたいだよな」
隣の席の生徒は、一年の時に同じクラスだった三上 正紀だ。最初のホームルームが終わるなり、女子たちは城戸が担任になったことを、飛び上がって喜んでいる。
「担任なんて、誰でも一緒なのにさ」
その言葉に相槌を打ちながら、女子の気持ちも解るだけに、複雑な心境だ。城戸とは、未来が音楽室で泣いて以来、顔を合わせていない。会うのが気まずいような気もしていたのに、担任だなんて。気になるのは、杏奈も同じクラスだということだった。杏奈は化学と生物が得意で、薬学部を目指している。城戸とあんなことがあってから、唯様、とは一度も言わなくなっていたが、城戸のほうもやりにくいのではないかと案じてみる。
「未来くん、同じクラスになったね」
心配をよそに、杏奈がいつもの笑顔で話しかけてきた。
「ね、体育館に教科書取りにいくの、一緒に行かない?」
ちょうど行こうと思っていた未来は、杏奈と二人で体育館に向かった。一年生から三年生まで一斉に教科書が並べられ、自分に必要なものを、そこから選んで持ち帰るというシステムだ。あらかじめ配られたプリントを確認しながら教科書を探していると、偶然沙耶と出会った。
「あ、先輩!」
嬉しそうに駆け寄ってくる沙耶は、寒くないのかと心配になるほどのミニスカートだ。一緒にいる他の女子と比べても、明らかに露出が多い。春になったとは言え、まだ花冷えのする毎日だ。やや呆れてその姿を眺めていると、沙耶は杏奈を一瞥し、
「私ね、二年五組になったんだよ?」
二年五組というのは、未来が去年まで使っていた教室だ。特別な場所を奪われたようで何だか複雑な気分になり、言葉に詰まる。沙耶はそんなことお構いなしに、
「ね、今度、教室でHしよっか」
耳元で、囁いた。
新一年生が部活の見学に来るようになり、パートリーダーの未来は、その都度、一年生にいろいろ質問を受けたりして忙しくしていた。同時に、夏のコンクールの課題曲が決まってその練習が始まるとともに、自由曲の選曲をするため、顧問の河合と菜々子とパートリーダー全員で毎日のように頭を悩ませている。曲は気に入っても、人数が足りなかったり、楽器の種類が足りなかったり、制限時間より長過ぎたり、色々問題があってなかなか決まらなかった。
そんなある日、いつもの部活後の居残りを終えた未来は、偶然俊介に会った。
「久しぶり。どう? 最近」
変わらぬ様子で話しかけてくる。未来は相談したいことがあったため、以前よく行ったファストフード店に誘った。
「彼女と同じクラスになっちゃったよ」
座るなり、俊介が溜め息まじりに言った。
「何だよ、イヤなの?」
「やりにくいじゃん、何かと」
妙に大人びた台詞が可笑しい。笑っていると、
「おまえはどうなんだよ? 中野とうまくいってんの?」
「……まあ、いってるほうだと思うけど、」
それは嘘ではなかった。会えば可愛いと思うし、守ってやりたいと思う気持ちもある。最近はやたらと肌を露出する沙耶の格好が気になるくらいだ。
「あいつさ、足とか、出し過ぎじゃない?」
すると俊介は吹き出した。
「服装自由なんだから、いいだろ、別に」
「そういうことじゃなくて、」
未来は以前に、沙耶が痴漢に遭ったことを言いそうになり、口をつぐんだ。
「それより、何か話があったんだろ?」
話を逸らしてごめん、と言いながら、俊介はハンバーガーにかじりつく。
「俊介、俺さ、数学の教師になろうかな」
俊介は少し驚いたように目を丸くしたが、
「へえ、いいじゃん。おまえ数学得意だし」
そのくせ、生徒に教えてる姿が想像できないと笑う。
「教育学部ってこと? それか理学部とか行って、教職取るのかな」
「まだどこにするかは決めてないけどさ、……そしたら、またここに戻ってこれるんだよね」
俊介はその言葉の意味を理解するまでに少し考え、
「……ああ、教育実習でね」
と、呟いた。
数学を教えること、というより未来は、自分のように進路を見出せなくて悩んでいる生徒の助けになりたいと考えていた。たとえ直接力になることはできなくても、優しく手を差し伸べてやることで、未来がそうだったように、徐々にその目標に向かって歩いて行けるから。そんな未来の心の中が見えたのか、
「そういえば、城戸って、ここの卒業生らしいよな」
俊介が思い出したように言い、クラスの女子が言ってた、と付け加える。
「教育実習の時も、キャーキャー騒がれたんだろうな」
女子生徒に囲まれて、困っている城戸の顔を思い浮かべ、未来は思わず顔を綻ばせていた。
ゴールデンウィークも終わり、ようやく三年生になった自覚が芽生えてきた頃、未来はよく、屋上で昼休みを過ごしていた。五月晴れの空と風が気持ち良くて、思わず昼寝をしたくなる。進路も決め、一仕事終えたような気分だった未来は、いつになく落ち着いていた。グラウンドでサッカーをする生徒たちを眺めながら、来年の今頃は何処にいるだろう、と考えてみる。
先日の二者懇談で城戸は、これからもっと頑張れるだろうから、まだ大学までは決めなくていい、やりたいことが見つかっただけで充分だよ、と言った。担任としての城戸は、音楽室や放課後の教室でのような柔らかい雰囲気はなく、言わなければならないことはハッキリと言う、そんな印象だ。授業中も似たような感じで、言葉の丁寧さはあるものの、何か凛とした厳しさのようなものを感じる。一年生の時もこんなだっただろうか。城戸の授業があったはずなのに、それを思い出せないことがもどかしかった。
「ウチの担任ってさ、絶対名前を呼び捨てにしないよな」
英語の授業の後、正紀が言った。確かにそうだが、自分を時々名前で呼ぶことを思い、曖昧に頷く。正紀の、担任、という呼び方から、彼と教師の間の距離が知れた。未来は、自分が意識的に城戸の話題を避けているためか、彼を何と呼んでいたのか、解らなくなっていることに気付く。
「でも、あの発音はすごいよ。留学してたのかな」
今度は感心したように言って、教科書をカバンにまとめた。未来は相変わらず、殆どの教科書をロッカーに置いて帰る。放課後に学校で勉強するようになった未来にはそれがちょうど良いのだが、最も家が近いくせに、と、電車で一時間ほどかけて通う正紀は笑った。
未来は、このクラスで一番、城戸と会話をしていると自負している。それを誰に自慢するわけでもないが、自分の中では唯一の心の拠り所と言っても過言ではない。そんな未来も、まだ城戸の出身大学を知らないし、留学の話も聞いたことがなかった。初めて城戸の授業でその流暢な発音を聞いて、中学の時の教師とのあまりの違いに驚いたことを思い出す。城戸は最初に、英語での授業か日本語か、どちらが良いかと生徒に尋ね、多数決で多いほうの言葉で授業をした。三年になって、文系のクラスは強制的に受け答えも全て英語らしく、日本語でもついていくのがやっとな未来には到底、信じられなかった。
話がしたいと思えば思うほど、偶然はやってこない。音楽室で、毎日のように居残りをしていても、最近は日が長くなったこともあってか、うまく出会えなかった。職員室に行けば、いることは解っている。しかし、偶然でなければ意味がないと思う未来は、三年生になってからめっきり、放課後の城戸とは疎遠になっていた。
そんなある日、いつものように暗くなってきた音楽室の鍵を締めて職員室に行くと、明かりはついておらず、人の気配がない。生徒がまだ残っていることに気付かずに、教師が皆帰ってしまったのかと不安になった未来は、鍵を戻すと下駄箱まで走った。もしそうなら、昇降口の鍵も締まっているはずだ。しかし、入り口のガラス戸はまだ開いていて、やはり当番の教師は何処かにいるということになる。再び職員室に戻った未来は電気をつけ、キーボックスの中を調べた。他の鍵は全て戻っているから、もし待っていてくれたなら、一声かけるのが礼儀だと思い、まずは奥の休憩室を覗いてみた。が、誰もいない。職員室の中を歩いてみても、どの机も散らかっていて、いるのかいないのかハッキリせず、未来は自分のことは棚に上げ、ちょっとは片付けろよな、と呟いた。
そのとき、聞き覚えのある音が聞こえ、未来はハッとした。城戸の机に行ってみると、机の上で携帯のランプが光っている。ということは、二年五組か……。未来は人探しの目処が立ってホッとし、おもむろにその場所に向かった。
少し前までは毎日通った場所が、懐かしい。不思議なもので、同じ校舎の中なのに、二年生の教室が並ぶ廊下は、余所の家のような匂いがした。未来は何だか歳をとったような複雑な気分で二年五組のドアを開けたが、そこに城戸の姿はなかった。
「何処だよ、」
徐々に暗くなって行く教室で、いつもと逆の立場に、未来は教師たちの苦労を思った。いつまでも戻らない鍵に、いちいち様子を見に行くのも大変だろう。しかし当てが外れて振り出しに戻ってしまい、未来は城戸が他に行きそうな場所を考えてみる。……保健室。その場所にいるとしたら? 未来は自分と沙耶との関係を思い、しばらく悩んだが、不意に意地悪な心が芽生え、保健室に向かった。
「あれ?」
入り口の採光窓から漏れる明かりを期待していた未来は、思わず声に出してしまった。ドアを開けると他の教室と同じく真っ暗で、僅かに夕日の名残で物が見える程度だ。また当てが外れた未来は廊下に出ようとしたが、ふと物音が聞こえた気がして足を止めた。
「誰?」
未来は再び保健室に戻り、明かりをつけた。
「……誰か、いるんですか?」
遠慮がちに声をかけると、白いカーテンの向こうで影が動き、
「ごめん、もう少し、待って」
それが誰かをすぐに解った未来だが、側に行かないほうが良いような気がして、しばらくそこに佇んでいた。するとカーテンが開き、城戸が困ったように笑う。
「体調が悪くて。……疲れてるのかな」
そう言って、辛そうに息を吐いた。明らかに具合が悪そうだったので、
「休んでて下さい、……まだ勉強があるから」
未来はそう嘘をついた。
未来は保健室の机で本当にノートを広げ、さっきの続きを始めた。しかし、すぐそこで城戸が眠っていると思うと、全く集中できない。それでも一時間ほど、無理矢理単語を書いていたが、どうしても我慢できなくなって、そっとベッドを覗いた。
「……、」
少しだけのつもりが、そのあどけない寝顔に思わず釘付けになる。七つも歳の離れた教師を可愛い、と思ってしまって、未来は彼への気持ちにますます加速度がつくのを感じていた。長い睫毛、通った鼻筋、少し開いた唇は、母親がいつか言っていたように、女性の色気さえ感じる。今まで幾度となく会話をしたけれど、ジッと顔を見たことがなかった未来は、食い入るようにその美貌を眺めた。誰もいない、二人きりの空間。そのことに気付いて、未来の鼓動は乱れた。動けなくなって、それでも彼から視線を剥がすことができずにいると、気配を察したのか、城戸の目がゆっくりと開く。側にいる未来に気付いて、
「……未来に寝顔を見られちゃったね」
と、笑った。起き上がってシーツを整えながら、待たせてごめんね、と言う声がまだ弱々しくて、少なからず無理をしていることを悟った未来は、心配でたまらなくなってくる。
「家、遠いんですか?」
「そんなことないよ、車で二十分くらいだし」
未来にはそれが本当に近いのかどうか、判断が難しかった。心配げに見ているのが解ったのか、
「大丈夫、ちょっと疲れただけだから」
城戸はそう言って、いつもの優しい笑顔を見せる。未来はこういうとき、どうすればいいのか見出せず、何もできない無力さに苛立った。自分が助けられてばかりで、肝心なとき役に立てないもどかしさ。しかし、城戸が保健室の鍵を締めているのを見て、具合の悪い城戸を置いて帰ってしまった木村の薄情さに矛先が向いた。
「……木村先生は?」
「もう帰ったよ」
城戸なら、もう帰られたよ、と言うであろうことに、その親しさが知れた。去年、南から聞いて知っていたはずの事実。しかし、確かめなければ、ただの噂と思い込むことも出来た。二人の関係を確認することが、自分自身を傷つけることになると解っているくせに、ハッキリと知りたいもう一人の自分にそそのかされて、ここに来たのだ。心の中に不快な波がたち、未来は黙り込んだ。
「今日はありがとう。気をつけてね」
いつの間にか下駄箱の前まで来たことに気付き、未来は我に返った。城戸はもう何でもなさそうな表情で微笑んでいる。
「……失礼します」
未来は精一杯、平静を装うと、一礼して昇降口を出た。
翌朝のホームルームが始まり、教室に入ってきた城戸が挨拶をするなり、白いマスクとそのかすれた声に、女子生徒たちが心配げな声を上げた。どうやら風邪をひいたようで、時々咳をしながら必要事項を伝える。体が弱い未来にはその辛さが痛いほど解り、簡単に仕事を休めない城戸の立場を気の毒に思った。昨日の体調不良は、風邪の前兆だったのだろう。授業中も頻繁に咳き込み、その都度、苦しそうに呼吸を整える。
「先生、大丈夫ですか?」
一人のクラスメイトが声をかけると、聞き取りにくくてごめんね、と謝った。
恋の病なのか、城戸のことが心配なあまり、昼食の時間になっても食欲がなかった未来は、弁当を食べずに屋上へ出掛けた。母親の小言を想像しながら錆びてきしむ扉を開けると、爽やかな風が通り抜け、フッと心が軽くなる。未来はフェンスに凭れて、遠くに広がる景色を眺めた。ミニチュアのような電車が駅から出発して、徐々にスピードを上げて行く。その軽快な音が風に乗って届いた。こんなに駅が近いのに、その電車に乗ることはほとんどなく、当然遠くまで行ったこともない。そのことに気付いて、無性に何処か遠くへ行きたくなった。
気分が晴れずに口数の少ない未来だったが、その日の放課後、杏奈からの思いがけない知らせに喜んだ。卒業した南が、来ているというのだ。未来は一気に顔を輝かせ、音楽室に飛び込んだ。抱きつかんばかりの歓迎ぶりに若干呆れた様子の南は、髪が茶色くなって、既にあか抜けた雰囲気だ。地元の国立大学の工学部に進学していて、専攻は建築。手始めに、母校の校舎の図面を借りてきて書き写せと言われたらしい。黒い筒のような図面ケースを肩からかけていた。
「それにしても、相変わらずだな、おまえは」
南は荷物を、いつも置いていた棚の上に置きながら笑った。大学での授業の様子や、新しく入った吹奏楽部の話を聞きながら、未来はその楽し気な様子に、初めて来年が待ち遠しいと思った。未成年なのに酒を飲まされて記憶がなくなったなどと、およそ南らしくない話も飛び出し、なんだか南が急に大人になってしまったような気もした。話のネタは尽きなかったが、ふと未来は思い立って、
「先輩、前に木村先生と城戸先生が付き合ってるって言ってたの、誰に聞いたんですか?」
「ああ、何だよいきなり。誰かに聞いたわけじゃなくて、偶然廊下であの二人が話してるのを見たとき、木村先生が城戸のこと、唯、って呼んでたからさ」
「……、」
逃れようのない事実を突きつけられた気がして、未来は愕然とする。
「そんなことより、彼女できたのか?」
その南の言葉も、もう未来には届かなかった。
夜、窓を開けて外を眺めながら、未来は自覚していた以上に城戸への想いが大きくなっていたことを悟り、その苦しさに何度も溜め息をついた。自分にも沙耶という恋人がいるにもかかわらず、城戸にもそういう相手がいたことを心の中で責めてしまう。城戸の優しさはやはり、未来だけでなく、どの生徒にも与えられる、同じ質のものだったのだ。ましてや、未来に対する恋愛感情など、あるはずがない。自分だけが特別と勝手に思い込んで、それを心の支えにしていたことが急に恥ずかしくなり、未来は怒りに任せてベッドに身を投げた。そのまま仰向けになり、ギュッと目を閉じる。腹が立っているはずなのに、浮かんでくるのは城戸の優しい言葉と柔らかな笑顔ばかりで、それを追い払おうと、未来は頭から布団を被った。
保健室の白いカーテンの向こうで、二つの影が動くのが見える。いけないと思いながらも、未来は目を凝らした。楽しそうにじゃれあう二人は、時々笑い声を漏らし、誰かに見られているとは思ってもいない様子だ。未来は急に腹が立って、その薄いカーテンを思い切り開けた。
「未来! いつまで寝てるの! 遅刻するわよ?」
飛び起きた未来は、頭痛に顔をしかめた。どうやら、熱があるようだ。その様子に気付いた母親は、体温計を未来に渡す。
「ゆうべ、遅くまで起きてたみたいだけど、無理して体壊しちゃ、なんにもならないでしょ?」
未来が勉強していたものと思い込んでいる。それは好都合だったが、未来は午後になって四〇度の高熱を出し、病院へ連れて行かれた。未来の父親は医者だが、勤めているのが大学病院ということもあり、普段のちょっとした病気は、近所の内科で済ませる。美人だが厳しい女医に、体が弱いくせに無理をすることを、本人の自覚がないのが一番いけません、と叱られ、未来の心はますます弱ってしまった。入院するよう勧められたが、家で絶対安静にしていることを条件にそれを逃れた未来に、
「入院すれば、楽なのに」
母親が氷枕を取り替えながら、呆れたように言う。
「どうしてそんなに病院がキライなの?」
そのわけは、一つ。当然のように注射器が置いてあり、いつでもその恐怖に怯えなくてはならないから。未来は自分でも情けないが、注射が何より苦手だった。インフルエンザの予防接種ですら、恐怖のあまり貧血を起こして倒れたことが何度もある。
「医者の息子なのにね」
それに、入院してしまうと、自分のひ弱さを認めたことになってしまう気がした。普通の健康な高校生なら、風邪をひいたくらいでそう簡単に入院なんてしない。それが解っているから、未来はいつも無理をしてしまうのだった。
夜になり、未来の熱は全く下がらないどころか、今度は吐き気がひどくなり、何度も嘔吐した。高熱で内蔵に負担がかかるためで、小さい頃から重い風邪にかかるといつもこうだ。夜中、付き合ってくれる両親に申し訳ないと思いながら、苦しさに涙が出る。吐き気は翌朝まで続き、薬も飲めない未来は、結局入院することになってしまった。
「……先生には、言わないで」
病院のベッドの上で熱に浮かされながら、やっとのことで母親にそれだけ言って、目を閉じる。城戸の風邪はもう治っただろうか、そんなことを思いながら、気を失うように眠りについた。
その景色は、流れるように変わっていった。花のような優しい香りに包まれて、うとうとと微睡んでいた未来は、目を開けるごとに変わる景色に、そこが車の中であることを思い出した。ラジオから流れるのは、中学の時の合唱コンクールで歌った曲で、未来の大好きな曲だ。
「懐かしい曲」
運転席の城戸が、そう言ってラジオのボリュームを上げる。聞くと、城戸も中学の時にこれを歌ったことがあるらしい。ピアノが弾ける城戸は専ら伴奏役で、気持ち良さそうに歌うクラスメイトが羨ましかった、と笑った。想い出の中に残る、幾つものメロディ。音楽の時間に習った曲も、コンクールで演奏した曲も、聴けばその時の記憶が鮮明によみがえる。不思議なことに、楽しかった想い出ばかりが浮かんだ。音楽とはそういうものなのかも知れない。悲しい記憶も、いい想い出に変換され、メロディとともに再び姿を現すのかも知れない。城戸との想い出が、何年か経ったある日、この曲に乗って現れたとき、自分は何を思うのだろう。そんなことを考えていた。
外の景色はどんどん流れて行く。何処まで行くの? と聞こうとしたが、このまま遠くへ、何処までも連れて行ってほしい気がした。
次に目が覚めたとき、未来はぼんやりと見える空間に、好きな香りを見つけてその主を探した。窓辺に佇む城戸の姿が、やがてハッキリと見えてきて、未来は起き上がろうとした。
「まだ起きないほうがいいよ」
気付いた城戸が、慌てて未来を止める。城戸がそばにいると思うだけで、随分苦痛が和らいだ。未来はただジッと、城戸の目を見つめる。
「お宅に伺ったら、入院してるって……。ビックリしたよ」
言うなって言ったのに。母親を心の中で恨みながらも、未来はこの状況を嬉しく思ってもいた。城戸の訪問に驚喜している母親の姿を思い浮かべると、少し恥ずかしいが……。城戸はベッドの横の椅子に腰を下ろし、冷やしたタオルで汗を拭いてくれる。
「……僕が風邪を移してしまったのかも知れないね」
ごめんね、と本当にすまなそうに謝った。未来は慌てて首を横に振る。こうなることが解っていたから、城戸には知られたくなかったのだ。あの日、勝手に傷ついた未来は、窓を開けたまま、いつの間にか眠っていた。城戸のことになると冷静さを失う、自分の幼さが招いたことだ。
すぐ側の甘くて切ない香りに癒されて再び現実から遠ざかって行くのを感じ、もっと話したいのに、と悔しい気持ちに襲われる。しかし、睡魔は容赦なく、未来を連れ去ろうとしていた。
「今、……先生とドライブしてたよね、……何処へ、行くんだったの?」
その未来の言葉に、城戸はこれ以上ないくらいの優しい表情を浮かべ、未来の頬をそっと撫でる。
「何処でも、未来の好きなところへ行こう。元気になったら、連れて行ってあげる」
何だか今日は、願った通りに事が進んでいく。それに気付いた未来は、急に可笑しくなって吹き出した。
「夢だよね、絶対……」
そう言って、再び目を閉じた。
「先輩、お見舞いにきたよ」
退院して自宅に戻っていた未来を、沙耶とマキが訪ねてきた。二人で選んだというお見舞いの花が、部屋中に淡い香りを漂わせている。その香りの中でも、記憶の中の城戸の香水を辿ろうとする自分に気付いて、胸が苦しくなった。
「大丈夫? まだ辛いの?」
「……ううん、起きたばっかりで、寝惚けてるだけ」
それも、嘘ではない。ずっと寝ていたせいで、昼も夜も解らなくなっていた。
「入院してたなんて、知らなかった。なんか、寂しいな」
沙耶がそう言って、本当に寂しそうにそうな表情を浮かべる。
「別に、隠してたわけじゃないよ、……ホントに酷い風邪でさ、体が動かなかったんだ」
「うん、……お母さんから聞いたから、知ってる」
「心配かけて、ごめんな」
未来は珍しく元気のない沙耶にそう声をかけ、頭をそっと撫でた。すると、ようやく安心したように、笑顔を見せる。未来も、ホッとした。沙耶は、一緒にいて安らげる、大切な存在。彼女が笑顔になると、未来も笑顔になれる。沙耶を好きだと思う気持ちは、間違いなく未来の中にあった。そのことに、ホッとしたのかも知れない。
「先輩、早く元気になって下さいよ。今度の楽譜、難しくって。先輩がいないと吹けないです」
今度はマキが、甘えたように言った。
「杏奈がいるだろ?」
「女の先輩には、聞きにくいんだもん」
その言葉に、沙耶がマキを睨む。
「マキ、同じ部活だからって、私のカレシにあんまりベタベタしないでよ」
「だって優しいんだもん、ね? 先輩?」
私のカレシ、と言われて、未来はドキッとした。マキを牽制したのではなく、未来に、それを忘れるなと注意された気がした。沙耶は、俺の、カノジョ。解っているけれど、しっかりと言い聞かせておかないと、ふとした隙に、心が違うところへ行こうとしてしまう。沙耶は、俺の、カノジョ。未来はそう何度も胸の中で呟いた。
季節はまた、梅雨にさしかかっていた。蒸し暑い日が続き、晴れたと思ったら突然の雷雨。そうかと思えばしとしとと霧雨が降り続き、暑さに慣れてきた体はその肌寒さに震えた。毎年のことながら、その鬱陶しさに気分が滅入る。いっそ四季のない国へ行きたい、と言うと、留学する気になったのか、と父親が笑った。
「留学はしないよ。俺、数学の教師になろうと思って」
夕食の時間、家族の前で、初めてそう口にした。驚いて顔を見合わせた両親は、しばらく未来の顔を見ていたが、
「ホントに? あんた、人前で教えられるの?」
母親は未だに未来が、姉の後ろに隠れて人目を避けていた頃のイメージを捨てられないようだ。
「大丈夫だよ。もう決めたから」
「そうか! 自分で決めたのか。大人になったじゃないか」
父親は嬉しそうに未来の背中を叩く。
「先生は体力勝負だぞ? 今からしっかり食べて、丈夫になっとかないとな」
未来の両親は、なんでもすぐ成功したつもりになって浮かれるところがある。進路を決めたとは言っても、まだ四年以上も先のことだ。大学も決まっていない未来にはまだ現実味を帯びず、両親の気楽さに呆れて部屋に戻った。
蒸し暑さに窓を開けると、甘い花の香り。風が運んできたのだろうか。急に時間が巻き戻され、未来はあの日の通学路を歩いている自分を見た気がした。慌てて階段を駆け下り、
「母さん、今、外でしてる匂い、何の匂い?」
リビングでくつろいでいた母親は、何、突然、と訝し気に窓を開ける。息を吸い込んですぐ、
「ああ、夏みかんよ。庭にあるでしょ」
と、意外なことを言った。何処から来るのかと思ったら、自分の家の庭だったとは。未来は開けた窓の隙間から覗くミミを撫でたくなり、一時、雨の上がった庭へと出た。リビングの明かりで目が赤く光っているのを見ると、いつも違う動物のようで可笑しい。未来はいつになく活発に動くミミにおやつを与えながら、庭の隅の白い花の咲いた木を見つめた。この花は、不思議と雨が降っているときに、強く香る気がする。
「夏みかんだって。全然みかんの匂いじゃないよね」
ミミに向かって言ったところで、嬉しそうに尻尾を振るだけだ。しかし、あの日の想い出の香りの名前を知って、少し前に進めたような、そんな気分になれた。
中間試験と期末試験の間に、実力試験と言う名の試験週間がある。それは未来が最も恐れる試験で、五教科だけで楽そうにも見えるが、教科書などまるで関係なく、ほぼ入試問題に近い難問ばかりが出題される。どの教科もそれは同じで、勉強せずに受けると、0点を取る可能性も少なくなかった。一年生の時、得意な数学でさえ、十五点という屈辱的な点数だったことがある。
「誰が作ってるんだろうな。試験問題」
物理の試験が終わった休み時間、恨めしそうに正紀が言った。
「生徒をいじめるのが、そんなに楽しいのかね」
未来もそれには同感だった。重箱の隅、という感じのいやらしさもあれば、純粋に解くのが難しい問題もある。それが組み合わされると、もうお手上げだ。当然、隅々まで網羅していない未来の勉強では、それ以前の問題だったが。
昼休みを挟んで、英語の試験がある。未来は久々に杏奈と食事をしながら、単語帳を目で追っていた。
「英語は、長文に知らない動詞がメインで出たら、終わりだよね」
杏奈もそれほど英語が得意ではないらしく、そんなことを言った。
「今回は、城戸先生が作ったらしいよ?」
杏奈の口から城戸の名前を聞くと、去年の事件を思い出さずにはいられず、思わずその顔を見る。
「……もう全然平気だよ? 昨日も質問に行ったんだから」
そのセリフに、未来は食事をする手が止まってしまった。同じクラスで、事情を知るのが未来だけだということもあり、杏奈は城戸のことを未来によく話すようになった。未来の気持ちを知るはずもない彼女は、城戸の態度や仕草をつぶさに報告する。以前と変わらず接する城戸に対し、
「私と話すの、何とも思わないのかな」
不本意そうに言って、
「告白されるのなんて、慣れてるのよね、きっと」
と、未来に同意を求めた。未来の感じるところでは、杏奈はまだ、城戸のことを以前と変わらずに想っている。自分で深刻に考えないように調教しただけのことで、本音を聞けばまた、涙ながらに語るのかも知れない。しかし、こうやってクラスメイトに相談できる杏奈を、未来は羨ましく思った。
風邪で入院してから、未来の城戸に対する想いは急激に大きくなり、自分ではもう、どうすることもできない状態にまで陥っていた。自宅で母親が城戸の名を口にするだけで、赤面してしまう。学校で誰かが、唯様がね、と噂話をするだけで、聞き耳を立ててしまう。英語の授業中、城戸と目が合うたび、どうしていいか解らなくなって胸が苦しかった。最近では放課後に英語の勉強をしていても、授業中の城戸を思い出して、教科書が全然頭に入らない。右肩上がりだった英語の成績も、ぱったりその勢いを弱めていた。
実力試験が終わった週末、未来は思い切って俊介を呼び出した。苦しくて、苦しくて、どうしようもなく、少しでも胸の内を聞いて欲しかったからだ。
「何だよ? 真剣な顔しちゃって」
いつものように、軽い口調で言って、暑いな、今日、とシートに腰を下ろす。しかし、未来の思い詰めた様子にふと真面目な表情になり、
「何かあった?」
と尋ねた。未来はそれでもまだ打ち明けていいものかどうか悩んで、しばらく俯いていると、
「中野と別れる、とか?」
「……、」
最近、以前ほど沙耶と会っていないことを、俊介は知っているのかも知れない。
「俺が紹介したからって、気にすることないよ。他に好きな子ができたんならさ」
俊介はそう言って、最近未来が杏奈と仲良くしていることに触れた。
「杏奈は、関係ないよ。部活が同じで、気楽だから」
「じゃあ、誰」
聞かれて、未来は首を横に振った。やっぱり言えない。いくら親友でも。
「沙耶のこと、好きだよ。今も会ってるし、すごく可愛いと思う。別れたいなんて、思ったことない」
それは本当のことだった。会えばキスもするし、Sexもする。その瞬間は全部忘れられたし、幸せだとも思った。しかし、それを遥かに上回る気持ちが、別の人間に向けられている現実。決して打ち明けることのできない気持ちを抱えて、もう限界だと、俊介に語った。
「……未来、」
俊介はしばらく、言葉を探しているのか、未来の目を見つめたまま黙っていたが、やがてフッとその硬い表情を崩した。
「その相手ってさ、俺、解っちゃったんだけど」
「え?」
「言っていい?」
未来は慌てて首を横に振った。俊介は軽い感じの口調とは違い、相手の心を敏感に察して臨機応変に振る舞える柔軟さを持っている。それゆえ、友達や後輩から慕われ、相談事を持ちかけられることも多かった。もしその名前が俊介の口から出てしまったら、もう友達でいられなくなる気がしたから。
「別に、軽蔑したりしないよ」
その一言で、俊介の解ったという言葉が本当なのだと知れた。俊介はそれでも未来の意志を尊重してか、城戸の名前は出さずに、
「優しそうだもんな。……告白してみたら?」
と、ようやくいつものからかうような口調に戻った。まるで、相手が同性だということなど二の次だと言わんばかりに、
「やってみなきゃ、わかんないと思うよ」
「でも、杏奈が、……友達が告白したら、一人の生徒と個人的に親しくはできないって言われたって、」
思わず杏奈の名を出してしまって自己嫌悪に陥る。俊介は口が堅く、口外されることはないと解っていても、言うべきではなかった。自分のことで精一杯になっている今の状況が情けなくなり、目に涙を浮かべている未来を見て、俊介は可笑しそうに笑う。
「なんで好きになったんだよ?」
そのきわめて単純な質問に、即答できず困っていると、
「顔? 雰囲気? 性格?」
「……全部」
とうとう、俊介は爆笑した。それなら迷うことないじゃん、と冷めかけのハンバーガーをほおばった。食べないならもらうよ、と、未来の分に手を伸ばしながら、
「二人で話したこと、あるのかよ? 連絡事項とかじゃなくて、個人的に」
「うん、何度も」
俊介は、それには驚いた様子で、
「マジで? 俺が何人かの女子に聞いたところでは、勉強の話以外、ほとんど喋ったことないって言ってたぜ。授業の後、質問に行ったりしても、それだけだって。自分に興味を持ってもらおうとして、どんなにアピールしてもダメだし、逆にプライベートなこと聞いても、自分のことは一切喋ろうとしなくて、いつもはぐらかされるらしいよ」
今度は未来が驚いてしまった。急に鼓動が乱れて、苦しくなる。そんなふうに感じたことは、一度もなかった。むしろ、話をするたびに、二人の間の距離は、どんどん近くなる……。
『森下くんの楽器は、どれ?』
『未来、って、いい名前だね』
『未来、頑張れ』
いつも、見守ってくれているような気がした。困っているとき、励ましてほしいとき、いつも優しい言葉をかけてくれた。しかしそれは、誰にでもそうなのだと、思っていた。
「決定的なこと、教えてやろうか」
未来と城戸との会話の幾つかを聞いた俊介は、こう言った。
「城戸の噂は毎日のように女子から聞くけど、生徒を名前で呼ぶなんて聞いたことない」
未来も、それは薄々、感じていた。授業中は皆と同じように森下くん、と呼ばれていたが、放課後になると、未来、に変わる。
「それに、アドレスを知ってるなんてヤツも聞いたことない。そんなのバレたら、女子に殺されるぜ、おまえ。……まあ、可哀想だから、黙っててやるよ」
と未来の肩を叩き、そろそろ塾に行くわ、と俊介は帰って行った。
俊介に会う前より、苦しさが増していた。本当に、自分だけが、特別? そうであってほしいと願ったくせに、急に怖くなる。でも、どうして? その質問はもう、本人にぶつけるしかないのだろう。ただ、そうするにはまだ、早すぎる。残りの学校生活を思うと、また溜め息が出た。