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もう一つの気持ち

 色々考えて、少しは真面目に勉強しようと決心した未来は、どの進路にもついて回るであろう、英語から始めることにした。俊介が言ったように、英語の重要性は解るつもりだし、自分の英語力の低さも、イヤというほど解っていたから。集中力のなさも改善する目的で、何かと誘惑の多い自宅ではなく学校でやると決めた未来は、放課後、部活が終わったあと、音楽室に残って教科書とノートを広げた。単語の意味を確認しながら、知っている単語も知らない単語も全て、書き写すのだ。英語が得意な俊介が、まずは単語だよ、とよく言っている。それが本当なら、次の試験で点数が上がるはずだ。未来は、まっさらなノートに、教科書の単語を覚えるまでと決めて、淡々と書いていった。

 この場所を選んだのは正解だったようで、気がつくと外はもう真っ暗だった。ふと電気をつけた覚えがないのに明るいことに気付いて辺りを見回すと、ピアノの椅子に、城戸の姿があった。

「やっと気付いたね」

 可笑しそうに言って、未来の側に歩み寄った。フワリ、とあの香水の香りがする。いつからそこにいたのか、素の自分を見られてしまったことが、恥ずかしくなった。城戸とはコンクールのあとに話したきりで、そういえば、まだタオルも返していない。

「ここの鍵だけ、戻ってなかったから」

 この場所に来た理由を言って、まだ勉強する? と尋ねた。未来は黙って首を横に振り、ノートを畳む。教室の両側にある窓を閉めるのを手伝い、いつもの癖で音楽室の内側から鍵をかけ、準備室に入った。

「森下くんの楽器は、どれ?」

 打楽器の隙間を縫って出口に向かおうとした時、城戸が足を止めて尋ねた。

「トランペット、だよね」

 自分のパートを知っていたことに驚き、未来は頷きながら棚の上の黒いケースを取り出した。母親が喋ったのか、それともコンクールのステージで見えたのだろうかと想像しながら留め具を外し、開けて見せる。準備室の暗い蛍光灯の光にも輝いて、誘われたような気分になり、城戸がいることも忘れてその楽器を手に取った。

「大事にしてるんだね」

 そう言われて何だか恥ずかしくなり、笑って俯いた未来だったが、楽器を知るには手に取るのが一番だと思って、トランペットを城戸に差し出した。城戸は少し躊躇って、壊れ物を扱うように両手で受け取り、未来に持ち方を習って、ピストンを押してみる。その指が細長く、まるで女性の手のようだと、未来は思った。

「この三つだけで、全部の音階を吹くの?」

 三つのピストンの組み合わせと、唇と息の力加減で音階と高さを調整することを教えると、城戸は感心したように、自分には無理だと言って笑った。

「ピアノは、習ってたんだけどね。管楽器は、さっぱりだよ」

「……ピアノ、弾けるんですか?」

「覚えてる曲なら、」

 城戸がそう言ったので、未来はもう一度音楽室に戻るよう促し、グランドピアノの蓋を開けた。

「何か、弾いて下さい」

 その言葉に驚いたような顔をしたが、こないだ、すごい演奏を聴かせてもらったから、と言って鍵盤に向かった。何を弾こうか、少し考え、一瞬未来のほうを見て、おもむろに演奏を始めた。

 穏やかなメロディが、誰もいない校舎に響く。未来はピアノに向かう城戸の後ろ姿を見つめながら、その心地良い音の重なりを聴いていた。弾かれた弦から生まれた音は、まるで命を吹き込まれたかのように、弾き手の思いを乗せて舞う。音の粒子が体の表面から全身に浸透し、未来は心が大きく動くのを感じていた。ふと見ると、鏡と化した黒いピアノの譜面台に、城戸の顔が映っていて、不意にその鏡越しに目が合う。未来は、暗示にかかったように、視線を逸らすことができなかった。

「トロイメライ、っていう曲だよ。森下くんを見てて、この曲が浮かんだから」

 弾き終えて、そっとピアノの蓋を閉じた城戸が言った。姉の瑠未がいつもガタン、と音を立てていたことと比べると、この教師の育ちの良さが知れる。

「子供の頃、これを習ったときは、全然うまく弾けなくて、こんな簡単な曲なのにって落ち込んだけど……やっと、弾けるようになった」

 音楽は、技術ももちろんだが、その楽曲自体を解釈できるかどうかも大きな課題だ。未来はふと、目の前の大人と自分の幼さを比べてみる。

 今度こそ準備室の鍵を締めて音楽室をあとにし、職員室と下駄箱への分かれ道で、

「懐かしい曲を思い出させてくれて、ありがと」

 城戸は穏やかな声でそう言って、気をつけてね、と未来を見送った。

 帰宅した未来は、真っ先に部屋のパソコンの電源を入れた。トロイメライは、「夢」、「夢見心地」と訳される。「子供の情景」という無邪気な楽曲の中に属しながら、大人が子供の頃を懐かしく思って見る夢だという解釈がされているものもあった。未来はさっきのメロディに、子供の夢というよりはもっと深く、強い思いを感じていた。それは恐らく、城戸自身の心の中に秘められた感情が表れているのだろう。穏やかな態度とは裏腹に、行き場のない情熱を抱えているようにも思える。彼にこの曲を思い出させた訳を知りたいような気もしたが、今はまだ、その余韻だけで充分だと思えた。


 新体制になった未来たちの吹奏楽部は、秋のコンクールに向けての本格的な練習の真っ最中だった。一年生は、この大会が事実上のデビューになる。先輩、先輩、と声をかけてくる一年の野島マキに去年までの自分の姿を重ねながら、三年生が抜けた寂しさが未だに去って行かないことに、自分の幼さを反省する日々。しかも、新部長は菜々子に決まって練習が厳しくなりそうな予感に、もう次の夏のコンクールの心配をしてしまう。夏バテだと休むことなど許されそうもなく、やっぱり南を思い出して溜め息をついた。

 計算外だったのは、マキが沙耶と同じクラスですごく仲が良いということ。周りが聞いていてもお構いなしで、未来と沙耶の関係を喋った。

「ね、沙耶って、超巨乳でしょ? こないだ触ったら、すっごく柔らかくて、ドキドキしちゃいました」

「……そういうことは、小さな声で言ってよ」

「沢木先輩に聞かれるから?」

 図星。沢木先輩というのは菜々子のことだ。どういうわけか、マキは未来と菜々子が以前付き合っていたことを知っている。マキのおしゃべりのせいで、未来と沙耶の関係は周知の事実になり、同級生のからかいのネタになりつつあるが、菜々子だけは聞いて聞かぬフリをしている。それが解るだけに、毎日頭が痛かった。

「もう、Hしたんですか?」

「……、」

 一応、小声で未来の耳元に囁いた。隣の杏奈には聞こえたようで、大きく吹き出す。

「マキちゃん、未来くんが困ってるから、その話はまた今度ね」

「はーい」

 マキはつまらなそうに言って、ようやく自分の練習を始めた。


 季節は徐々に秋らしくなり、昼間の暑さも夕方には何処かに消える。暑いのが何より苦手な未来は、ようやく夏が去って行くことに、喜びを感じていた。秋は、未来が一番好きな季節だ。空も、風も澄んで、その透明感に、心まで洗われる。

 英語の勉強を終え、外に出た未来は、まだ紺色の空を仰いだ。鍵が全て揃わないと、当番の教師は帰れないということを知った未来は、あまり遅くまで残らず、まだ他にも生徒が残っているうちに鍵を返して帰るようにしていた。職員の中で最も若い城戸は、必然的にその役目を押し付けられるわけで、たった一人の生徒の居残りに付き合わせるのも気の毒だ。

 学校からの坂を下り、自宅が近づくと、何やら賑やかな声が聞こえてくる。どうやら、沙耶が来ているようだった。

「ただいま、」

 声をかけると、庭のほうから、おかえりなさい、と沙耶の声。ミミと遊んでいるらしい。未来は一旦部屋に荷物を置き、リビングから庭に出た。キッチンから母親が、

「沙耶ちゃん、うちでご飯食べて行く? お母さん、もう準備しちゃってるかしら」

「多分、もう作ってると思うから、今日は帰ります」

 母親に聞こえるように、大きな声で答える。やがて母親が窓から顔を出し、

「あんたのこと、ずっと待っててくれたのよ? 最近遅いけど、こんな時間まで部活?」

「違うよ、ちょっと、……用事」

 残って勉強していることは、言いたくない。それ以上の追求を逃れるため、未来はミミの首輪にリードをつけ、散歩がてら沙耶を駅まで送ることにした。

「ミミちゃんは、先輩のことが一番好きみたい」

「そんなこと、解るの?」

「解りますよ。多分、先輩があそこの角を曲がったあたりから、すっごくソワソワしだして、もう私のことなんて見向きもしないんだもん」

 話の内容が解るのか、ミミは頻繁に振り返り、嬉しそうに未来のほうを見る。

「ミミちゃんが男の子で良かった」

 そう言って、駅の手前の公園に入るように促す。沙耶がベンチに座ったので、未来はミミをブランコの柵につないで隣に並んだ。

「先輩と、キスしたくて待ってたの」

 平気でそんなことを口にする沙耶と、マキが友達なのは納得だった。

「先輩は、私とキスしたいって思わない?」

 急に泣きそうな顔になって、俯く。未来は言葉より、沙耶を抱き寄せて、唇を重ねた。離れようとすると、沙耶がそれを許さず、何度も、何度もキスをする。誰かに見られているかも知れない、と思うほど、興奮するのを感じた。沙耶は未来を、大胆にさせる何かを持っている。それとも、大胆さは元から未来の中にあったのだろうか。どちらにしても、未来はいつも沙耶に会うたびに変わる自分を感じていた。

 駅の改札を抜けようとして、沙耶が思い出したように未来の側に戻ってくる。どうしたのかと思っていると、

「今度は、Hしようね」

 そう囁いて、おやすみなさい、と手を振った。早くも年下の彼女にリードされ始めていることに気付いて、小さく息を吐き、

「ミミ、帰るぞ」

 せめて犬にだけは好きにされまいと、厳しく声をかけた。



 音楽室のいつもの場所にいるのに、少し前までの自分とは何かが確実に違う。三年生が抜けた寂しさに、ようやく慣れたから? それとも、心が成長する時期だから? その答えを知りたくて、見慣れた音楽室を見渡してみた。人数が減って、少しだけ、広くなった教室。見えなくなった景色は不思議ともう思い出せなくて、そこにまた、後輩たちが新しい景色を作っている。今までは肩身の狭い思いをしていた一年生が、羽根を伸ばしているようにも見えて可笑しくなった。

 少し前までの未来がそうだったように、今後輩が自分を頼りに思ってくれているのを肌で感じながら、1stと書かれた自分の楽譜を見つめる。この楽譜を手にするのは、間違いなく技術が一番優れている証拠。自覚はなくても、顧問の河合が未来を南のポジションに選んだことは、自信を持って良いと太鼓判を押されたことと同じだ。ミスも少なく、まろやかで優しい杏奈の音が一番だと思っていたが、意外にも自分が選ばれて、嬉しさよりも戸惑いのほうが勝っている。

 それに最近、時間の流れが急に、早くなった気がする。ついこの間までは、自分の中にある時計よりも実際の時の流れが遅すぎて、苛立ちすら感じていた。しかし今、その速度は逆転し、時々置いていかれそうになって一生懸命に走った。足がもつれて転びそうになるたび、立ち止まっては汗を拭う、そんな毎日だった。

「今日ね、唯様がね、……」

 誰かの声が聞こえた。見ると、前に並んだホルンの二人が、授業中に起こったことを、嬉しそうに話している。

「なんか、唯様の授業だけ、終わるのすっごく早いんだけど」

「そうそう、古文とか日本史なんて、超長いのにね、あっという間に終わっちゃうよね」

「私なんて、英語好きになっちゃったよ」

 思わずその会話に聞き入っていた未来を、マキがつついた。

「先輩。何ボーッとしてるんですか? ここのところ、どうやって吹くか、教えて下さい」

「ああ、ごめん、」

 未来は席を立ち、マキの側に立って丁寧に教えた。マキは入部した時は全く楽譜が読めず、一からの勉強だったが、最近はよほど複雑なもの以外は自分で解読できるまでに成長した。その説明の途中、何度も未来の顔を見ては、可笑しそうに笑う。

「聞いてんの?」

「優しいですね。沙耶にはもっと優しいんですか?」

「……、」

 二人のやり取りを聞いて、杏奈が笑っている。助けてくれても良さそうなものだと思いながら、自分の椅子に戻って溜め息をついた。こうやって、部活ではマキに、教室では俊介に沙耶とのことをからかわれ、いい加減にしてほしいと内心思っている未来だったが、本当の悩みは、もっと別のところにあった。沙耶を愛おしく思う気持ちは嘘ではない。先輩、といつも未来を慕ってくる姿を無性に可愛いと思える。にもかかわらず、未来の中には、姉に甘えていた頃の幼さが抜けきらないのか、誰かに甘えたい、守られたいと願う気持ちも同時に存在し、どちらが本当の自分なのか解らずに戸惑っていた。……その『誰か』、というのが、もう特定の人物になりつつあるということも。

「先輩、ここは? どうやればいいんですか?」

 またマキに呼ばれ、席を立った未来は、今日も答えが出ないまま、慌ただしい一日を終えた。



 優しい水色の空を、レースのような雲がゆっくりと流れている。通学路のあちこちで金木犀の香りが漂い、途端に秋らしくなった風が上空から下りて来て頬を撫でた。不意にこみ上げる切なさが、どこから来るものか、考えるほどに切なくなる。初秋の風は毎年、目には見えない「何か」を運んでくる。その「何か」は一瞬で心の奥に浸透し、直接精神を揺さぶった。生まれるよりもっと前の記憶を思い出させるような、そんな力で。

 秋のコンクールの成績は6位と、パッとしないものだったが、毎年新人が混じるこの時期、どこの学校も演奏にキレがない。全ては夏に向けて気持ちを高めているため、それが終わって気が抜けてしまうのだ。顧問の河合もそれは承知していて、新人を場慣れさせるという点を重視しているようだった。夏からずっと忙しかった吹奏楽部も、それでようやく一段落して、流行りの歌謡曲や秋祭りで使うマーチなどを和気あいあいと練習する日々。焦りや不安から解放されて純粋に楽器に触れている時間は、何よりも幸せだと感じた。

「未来、それで、中野とはどうなんだよ?」

 昼休み、ベランダで物思いに耽っていた未来に、邪魔が入った。俊介が、未来の隣に並ぶ。

「どうって?」

「キスの次にやることは決まってんだろ?」

 何処へ行ってもこの話題。気が休まるときがないな、と溜め息をついた未来だったが、あれから沙耶と、会うたびにSexをしていた。菜々子とのときは、こんなに頻繁ではなかったのに、と不思議になるほど、沙耶を見ていると興奮した。単に胸が大きいからというのもあるかも知れないが、その幼い顔立ちと体とのギャップも、未来を夢中にさせる。初めて会った時の、大人しい印象は、もう何処かへ消えていた。

「俊介はさ、彼女といつHすんの?」

 逆に、聞いてみる。俊介は、未来がそんなことを聞くとは思わなかったのか、少なからず驚いた表情で、

「体育館のマットとか、超興奮するぜ? 今度やってみたら?」

 それこそ誰に見られるか解らないな、と思いながら、未来はそういうことをやっている俊介をちょっと羨ましく感じた。

 ただ、認めたくはないが、体が弱い未来は、この季節の変わり目の温度差に、毎年のように体調を崩す。秋の長雨で一週間ほど肌寒い日が続き、また試験週間が始まるという時になって、風邪をひいてしまった。今度はまだ試験まで日があるため、治るには治るだろうが、次こそ勉強してからと思っていた未来には、大ダメージだった。

「もう、あんたって子は、そんなに試験がイヤなの?」

 体温計の表示を確認しながら、呆れたように母親が言った。

「追試にならないように、頑張って治しなさいよ。ああ、恥ずかしい」

 病人を、もうちょっといたわってくれても良さそうなものだ。未来はそんな母親を睨むと、重い体を引きずって部屋に戻り、ベッドに横になった。階段の下から、学校に電話をしている甲高い声が聞こえてきて、未来は頭から布団を被った。

 父親が医者のおかげで、家に様々な薬を常備しているため、少々の風邪では病院へは行かない。ずっとそうしてきたせいで、この家の人間は皆、症状に合わせて自分で薬を選ぶ知識がついていた。本当は診察を受けなきゃダメなんだぞ、という父親の顔を思い浮かべながら薬を飲み、未来は目を閉じた。

 また雨の音が強くなってきた。咳き込んで何度も目が覚め、その度に時計を見る。少しも無駄にしたくないのに、時間は無情に過ぎていった。息苦しくて、布団の中で胸を押さえて丸くなる。誰かにいたわってほしいと思って浮かんだのが、家族でも沙耶でもなかったことに、未来はそれほど驚かなかった。雨音を聞くと思い出す、甘い花の香りがする通学路。放課後の教室という、時間が止まったかのような空間での、偶然の出会い。あの日から、自分の中の、何かが変わった。何の思い入れもなかった場所が、特別な場所に変わっていくこと。秘密の想い出が増えていくこと。そんな密かな楽しみに支えられているのだと、初めてハッキリと肯定した。


 試験の二日前、何とか風邪を治した未来は、久々に登校した。普段は皆と変わらず元気でも、風邪をひくと長引いてしまうことが、体の弱さを物語っている。そんなことは自分が一番よく解っているが、認めたくない気持ちが未来に無理をさせていた。

「もういいのか?」

 心配そうに俊介が未来を覗き込む。

「もう平気。ずっと寝てたから、体が痛いよ」

「寝るのも体力がいるらしいからな」

 そう言って、未来の風邪声をからかった。

「そういえば、中野が心配してたぞ。試験前に風邪をうつすといけないから来るなっていわれたけど、私のこと嫌いになったのかな、って」

 沙耶が言いそうなことだ。未来は苦笑して、今日にでも電話するよ、と言った。

 試験前には進学校らしく、部活は休みになる。授業が終わり、全員が一斉に下校するのは、この時だけだ。こんなにもたくさん生徒がいたのかと思うほど、下駄箱はごった返している。まだ本調子でない未来は、その混雑が過ぎるのを、中庭に面した廊下で待っていた。雨は上がっていたが、校舎の影にはまだ、湿気を含んだ地面が残る。中庭の中央にある、年に数度しか動かない噴水が、昨日までの雨で満たされていた。生徒たちはそれを、普段は専らベンチ代わりにして、そこで昼食をとったり本を読んだりするのに使っている。

 ふと見ると、噴水の向こうの渡り廊下に、一組の男女の姿がある。女子のほうは遠目にも泣いているのが解り、気になって目を凝らすと、それは城戸と杏奈だった。杏奈が城戸を好きなのは以前から知っているが、それは他の女子たちが唯様、と騒ぐのと同じレベルだと思っていた。しかし、今見える光景に、杏奈の気持ちがそれ以上に大きいことが伝わってくる。城戸は泣いている杏奈の肩に手をかけ、何か声をかけているようだった。その穏やかな口調が聞こえてきそうだと思った瞬間、杏奈が城戸の胸に、顔を埋めた。

 見ていられなくなり、未来はとっくに人気のなくなった下駄箱で靴を履き替え、足早に坂を下りる。曲がり角まで来ると、ついに駆け出し、自宅の玄関に飛び込んだ。

「未来? 雨でも降って来たの?」

 母親が、奥から声をかける。玄関で咳き込んでいると、タオルを持ってやって来た。

「せっかく治りかけてるんだから、無理しないのよ?」

「……、」

 未来は無言で頷き、部屋への階段を上った。下から、玄関を開けてみた母親の、雨なんて降ってないじゃない、という声が聞こえた。


 試験週間が終わり、未来は想像以上に英語の出来が良かったことに驚いていた。俊介が言ったことは本当だったようで、単語だけを馬鹿の一つ覚えのように繰り返し暗記しただけなのに、今まで暗号にしか見えなかった長文問題が、解読できるようになっていた。やればできるじゃないか、と言う教師の言葉は素直に嬉しく、未来は久々に機嫌良く部活に向かった。しかし……。

 音楽室に着くと、いつもと違うただならぬ雰囲気に、未来は原因を探った。

「杏奈、急にどうしたの?」

「……勉強しなきゃいけないし。部活ばかりじゃ、志望校に行けないから」

「でも、杏奈が抜けたら、トランペットの人数が足りなくなっちゃうよ」

「……、」

 杏奈は黙っている。吹奏楽部は、コンクールに出る際、人数によって小編成、中編成、大編成の三種類のどれかの部にエントリーする。未来たちは小編成で、良く言えば少数精鋭。悪く言えば、必要最低限の人数しかいない。よって、一人が抜けるということは、もの凄い痛手だ。女子部員の一人が未来に気付いて、駆け寄って来た。

「ねえ、杏奈が部活、辞めたいって。どうしよう?」

 明らかに狼狽している様子だった。未来は杏奈がそう言い出した原因が、先日見た光景に少なからず関係しているであろうことに気付きながら、

「杏奈、何かあった?」

「そろそろ、受験勉強を始めようと思って。塾に行くことにしたの」

「……そっか。……あのさ、ちょっと二人で、話さない?」

 未来は杏奈を屋上に連れ出した。明らかにいつもの笑顔が消えた杏奈は、柵に凭れてグラウンドを眺める。未来もそれに並んだ。

「ホントのこと言ってよ。受験勉強なんて、ウソだろ?」

「……、」

「杏奈が今悩んでることってさ、部活を辞めたら解決するわけ?」

 純粋に、杏奈に辞めてほしくないと思った。杏奈の音がすごく好きだし、杏奈はこれまで、どんな時も柔らかい笑顔で、部員たちを癒してくれた。その存在の大きさは、同じパートで近くにいる未来が、一番よく解っている。

「いつも皆の愚痴の聞き役で、杏奈自身の愚痴を聞いたことなかったなって、今気付いたよ。今更かも知れないけどさ、何でも言ってよ」

 精一杯、明るく言ってみた。すると、杏奈は初めて、少し笑った。

「未来くんって、優しいね。南先輩がいた時は、甘えん坊だなって年下みたいに思ってたけど、パートリーダーになって、しっかりしてきたね」

 思いがけないことを言われて、未来はマジマジと杏奈の顔を見つめた。すると、突然、その目から涙が零れる。悲しみの深さを表すかのような、大粒の涙。幾つも頬を伝って、流れ落ちた。

「私……大好きな人がいるの。でも、その人に、……私と付き合う気はないって、……ハッキリ言われちゃった」

 予想はしていたものの、未来は言葉に詰まった。

「その人のことが頭から離れなくて、あんなに好きだったトランペットが、吹けないの」

 他のことに気が移って楽器に申し訳なく思う気持ちは、未来にも理解できた。純粋な杏奈らしいと、少し笑って、

「解るよ。でもさ、杏奈がそんなふうに悩んでる時も、杏奈のトランペットは、黙って見ててくれると思うよ。俺だって、……彼女と楽器を比べるなんてできないけど、もし彼女に、どっちが好き? って聞かれて彼女を選んだとしても、楽器は笑って許してくれると思う」

 以前、菜々子に同じ質問をされて、答えられなかったことを思い出していた。今は、どうだろう。迷わず沙耶を選ぶことができるだろうか。

「城戸先生のこと?」

 思い切って尋ねた。杏奈は少し迷っていたが、黙って頷く。未来の胸が、チクッと痛んだ。

「こんなに好きになった人、初めてなの。優しくて、いつも笑って励ましてくれて、……お守りをくれたときは、私のこと、好きになってくれたんじゃないかって、」

 杏奈は未来に心を許したのか、あの日の城戸との会話を、泣きながら話した。彼女はいないと言ったこと、個人的に一人の生徒と親しくすることはできないと言われたこと、卒業するまで待つと言ったら、約束はできないと言われたこと。

「一人の教え子として、可愛いと思うことはあっても、それ以上はないんだって」

 真っ赤になった目が痛々しかった。多感な年頃の女子を扱うことの難しさは、未来にも少しは解る。城戸の困った顔が目に浮かんだ。

「どうしても諦められないの。だから、塾に行って、他の学校の素敵な子を見つけたら、忘れられるんじゃないかって思ったの。……未来くんだったら、どうする? 好きで好きでどうしようもないのに、諦めなきゃいけない時、」

 聞かれて、未来はドキッとした。決して他人事ではない、そう言われた気がした。諦める、……最初から、それは……。

「ごめん、……やっと解った……杏奈がどんなに辛いかってこと、」

 未来は涙を堪えきれず、俯く。自分の心の中にある、決して誰にも言えない気持ちが、想像以上に大きかったことに、気付いてしまった。胸が、痛い。

「未来くんが泣くことないじゃん」

 未来の涙に、杏奈が驚いている。未来は慌てて涙を拭き、深呼吸した。自分の気持ちの整理もできないのに、友達の相談に乗ろうとしたことが情けなかった。

「何の解決にもならなかったね、……ホントごめん」

 すると、杏奈はようやくいつものように笑い、

「でも、何だか少し、スッキリしたみたい。ありがと」

 空に向かって伸びをしたあと、

「泣いたことは、黙っててあげる、」

と、からかうように言った。


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