年下のコイビト
コンクールが終わって初めての週末、部活も休みで、未来は久々に二度寝の幸せを味わっていた。部屋の中は相変わらず暑いが、眠ってしまえば気にならない。小鳥のさえずりや、近所でキャッチボールをする子供たちの声を聞きながら、ウトウトと微睡む。時々、庭掃除をしているらしい母親が、こら、ミミ! と、悪戯をする犬を叱る声が聞こえた。夢なのか現実なのか、その狭間で、未来は休日のゆるやかな時間の流れを堪能していたが、そんな幸せも長くは続かなかった。インターホンが鳴り、母親の甲高い声が聞こえてくる。やがて階段の下から未来を呼ぶ声。それでも聞こえないフリをしていると、部屋の扉をノックする音がした。
「……もう、なんだよ?」
遠慮がちに開いた扉から入ってきたのは、沙耶だった。一瞬、何が起こったのか解らず、呆然とその顔を見ていると、
「こんにちは。遊びに来ちゃいました」
「……、」
「私、ミミちゃんと遊んでるから、起きたら来て下さいね」
そう言って、沙耶はすぐに部屋を出て行った。未来の裸同然の格好を、見ていられなかったのかも知れない。まだ寝惚けていたが、仕方なく着替えた未来は、言われた通りに庭に出た。陽射しの眩しさに瞼を刺され、否応無しに目が覚める。植木に水をやっていたらしく、あちこちから雫が滴っていた。日なたと日陰の強いコントラストで、瞬きする視界に幾つも残像が残るのを気にしながら、ミミと戯れる沙耶の側に寄る。それだけで肌がジリジリと焼けた。
「暑くない?」
「平気です。この服、涼しいんですよ?」
今日は女の子らしいレースをあしらった花柄のワンピースを着ている。肩が大きく開いていて、すごく肌を露出しているように思えた。ミミは遠慮なく、その腕に抱かれて嬉しそうだ。
「最近元気がないって、お母さんが言ってましたけど、何かあったんですか?」
どうしてうちの母親は、ペラペラと何でも喋るんだろう。未来は呆れながら、
「別に何もないよ。暑くてバテてるだけ。そうだ、プールにでも行く?」
咄嗟に思いついて言ってみたら、沙耶は嬉しそうに頷いた。
夏休みとあって、プールはすごい人だった。泳げない沙耶は、浮き輪で楽しそうに浮かんでいる。俊介が言った通り、胸がはちきれそうに大きくて、目のやり場に困った未来は、水の中に潜って、人の隙間を縫って泳いだ。久々に思い切り体を動かすと、何だかスッキリする。日頃のモヤモヤが、発散できる気がした。最近、特に溜め息が多いと自分でも解っている。溜め息をつくと幸せが逃げるよ、といつも母親が咎めた。
泳ぎ疲れた未来は、背中で浮かんで、目を閉じた。それでも眩しい太陽に手をかざし、ゆったりと漂ってみる。その浮遊感に、いつか見た夢を思い出した。フワリ、とそこにはないはずの香りがして、ハッとする。……どうして?
「先輩、私もそれ、やってみたいな」
いつの間にか、沙耶が側に来ていた。浮き輪を外して、浮かぼうとしている。未来はすぐに沈みそうになる沙耶の背中に手を添え、浮かばせてやった。
「気持ちいい、」
沙耶は目を閉じ、さっきまで未来がしていたのと同じように手を顔の上にかざした。気持ち良さそうに、未来の腕に体を委ねて浮かんでいる。……と思ったら、急に未来の首に抱きついた。
「先輩、どうして全然連絡くれないんですか? 寂しくて、ご飯も食べれなくて、痩せちゃったんだから」
沙耶の胸が体に当たって、未来はどうしていいか解らなくなった。そのままプールサイドまで沙耶を抱いて行き、座らせる。
「私のこと、キライですか?」
目を潤ませて尋ねられ、未来は考えるよりも早く首を横に振った。
「キライだったら一緒にこんなとこ、来ないよ」
「ハッキリ言ってくれなきゃ、わかんない」
泣かれて、思わず、言ってしまった。
「好きだよ、だから泣くなって、」
「ホントですか?」
未来が頷くと、沙耶は嬉しそうにもう一度、未来に抱きついた。大人しそうな感じと、大胆さのギャップが、未来を驚かせる。意外なことだったが、そんな沙耶との時間が、不可解に曇った未来の心を癒した。
二学期が始まり、まだ夏バテのだるさが残る体に、残暑は容赦なく厳しかった。それに進学校というところは、とにかく試験が多い。暇さえあれば、何とか模試だの、何とかテストだのと名前を変えては生徒たちを苦しめる。当然、部活ばかりやっている未来には、その恐怖と言ったらない。自業自得なのにもかかわらず、平均点を大きく下回る答案用紙に、思い切り傷ついてしまうのだった。
そんな試験週間が終わった日のホームルームで、そろそろ志望校を決めなさいと担任が言い出した。とっくに進路を決めている生徒も多いが、未来のように、何も考えていない生徒もまた多い。そういう大きな決断を迫られることに慣れなくて、すごく負担を感じる。
「未来はどうすんの? 当然理系だよな」
後ろから俊介が声をかける。
「うん……」
「私立ならさ、相当いいとこ、狙えるんじゃないの?」
私立とか国立とか、そういう区別も、未来にはまだ曖昧だった。のんびりした自分の性格が、時々イヤになる。今はまだ考えたくなくて、矛先を俊介に向けた。
「……俊介は? 決めたの?」
「うーん。英文科にしようかな、とは思ってるけどね。将来、英語ができるのとできないのとでは、全然違うって言うし。あとは偏差値次第かな」
想像した以上に、しっかりした答えだった。急に不安になり、未来は黙り込んでしまう。止めどなくざわつきだした生徒たちを静まらせるために、野口が両手を叩き、
「週明けのホームルームで、志望校を三つ書いてもらうから、そのつもりでな」
そう言って締めた。
どうして将来のことが、何も見えないんだろう。部活を終えて帰宅した未来は、自分の部屋の机に向かい、パソコンの画面を眺めていたが、すぐに閉じた。何を検索すればいいのかさえ、解らなかったから。誰かに相談したくても、相談する内容すら、解らない。
自分の不甲斐なさに落胆して机に伏せていると、携帯が鳴った。沙耶からだ。
「先輩、……助けて、」
予測しなかった台詞だった。
「痴漢」
その瞬間、未来は階段を駆け下りて、外に飛び出した。マウンテンバイクで、沙耶が言った場所まで全力で向かったが、姿が見えなくて、今度は走って辺りを探すと、駅裏の薄暗い自転車置き場に、座り込んでいる沙耶の姿が見えた。
「沙耶」
駆け寄ると、沙耶は未来に縋り付くようにして泣いた。Tシャツの胸元が大きく破れて、下着が見えている。未来は自分でも信じられないほどの怒りが込み上げるのを感じた。
「誰だよ? 誰にやられた?」
何も言わず、泣きながら首を横に振る。冷静さを失いかけていたが、二人を訝し気に見ている通行人に気付き、自分の体で沙耶の体を隠した。何をされたのか聞こうとして思いとどまり、自分のシャツを脱いで、破れた服の上から着せる。小さく震えているのが解った。
「……もう大丈夫だから」
未来の言葉に頷き、沙耶はようやく立ち上がった。相当乱暴されたようで、肘やショートパンツから出た足に、数カ所血が滲んでいる。未来は沙耶を近くの公園へ連れて行き、水飲み場で傷口を洗ってやった。
「家で消毒しよう。ばい菌が入るといけないから」
「でも、」
「大丈夫。誰にも言わないよ」
その言葉に頷いた沙耶を連れ、未来は帰宅した。声を出さないように沙耶に合図し、そっと自分の部屋に入る。救急箱を取りに階段を下りると、幸い母親は入浴中らしく、浴室から鼻歌が聞こえていた。
沙耶の傷口を消毒してやり、クローゼットから自分の新しいTシャツを出して渡すと、未来は部屋を出た。隣の部屋の瑠未もまだ塾から帰っていないようで、ホッとする。扉に背を向けて着替えが終わるのを待っていると、やがて中から扉が開いた。
「ありがとうございました。また、洗って返します」
「家まで送るよ」
未来はそう言って、そっと階段を降り、再び外に出た。沙耶の家は、一駅向こうの、住宅街にある。中学までは未来と同じ町内に住んでいたが、新しく家を建てて引っ越したと言った。並んで駅までの道のりを歩くうち、二人は無言になっていく。切符を買い、普通列車に乗ると、あっという間に隣の駅に着いた。この近くに親戚の家があり、幼い頃に訪れた時はもっと遠いと思っていたのに。未来は自分の成長を意外なところで感じた。
「……もしかして、うちに来るところだった?」
ふと気付いて、未来は尋ねた。
「はい。塾が終わって帰る途中、何だかすごく先輩に会いたくなったから」
未来はそこが沙耶の自宅の前にもかかわらず、沙耶を抱きしめていた。思ったことを素直に口にすることは、簡単なようで難しい。今ようやく沙耶の真剣な気持ちを受け取れた気がした。
「ごめんな。今度から、駅まで迎えに行くから。いつでも電話して」
「……、」
沙耶が未来の背中に腕を回し、ギュッと抱きついて頷く。体が離れ、見つめ合った瞬間、二人はキスしていた。近所の人が通りかかったが、それを気にすることもなく。間違いなく、未来は沙耶に惹かれ始めていた。
「未来、聞いたよ」
「……何を?」
「中野のこと、」
ニヤニヤして、それだけで言わんとすることが解った。
「おまえんとこの部活は、そんなことまで報告させるのかよ?」
「違うよ、嬉しそうに、あいつのほうから報告してきたんだよ。先輩とキスしちゃった! って」
「声がデカい、」
慌てて俊介を制した。
「付き合うんだろ?」
未来は黙って頷く。純粋に、愛おしいと感じた。初めて、誰かを守ってやりたいと思った。それは未来にとって、大きな変化だった。ただ、ショックだったのは、一年生の沙耶でさえ、進路をもう決めていたこと。動物が好きで、獣医になるのだと言う。そのために、今から一生懸命、勉強しているのだと。未来は取りあえず、三つの志望校と学部を書いては来たものの、当然、本当に行きたい大学ではなかった。
数日後、担任の野口に呼び出された未来は、用件が何であるか察した上で、職員室のドアをノックした。
「失礼します」
やや小さめの声で挨拶をし、中に入った。待ち構えていたという表情の野口が未来に向かって手招きをしている。
「部活があるだろうから、手短に済ませよう。会議室、使うぞ」
近くの教師たちにそう言って、野口は未来を伴って会議室に入った。二人で使うには広すぎる部屋で慣れない椅子に座らされ、ビクビクしていると、野口が椅子を軋ませて腰を下ろす。おもむろに、
「森下、数学のオリンピックって知ってるか?」
「え?」
想像していた内容と、あまりにもかけ離れていて、未来は思わず聞き返した。
「来年の一月に予選があるんだけど、出てみないか?」
「……、」
「おまえの数学の成績は素晴らしいよ。いつも確実に、学年で十位以内に入る。この成績は、間違いなく全国レベルでも通用するはずだ」
野口は、呆気にとられている未来には構わず、続けた。
「そこで、数学の成績が優秀な二年生の中から何人か選んでその大会に出させようと思ったんだが、それぞれ志望校がすでに決まってて、数学だけを勉強していられないそうなんだよ。……何が言いたいか、解るよな?」
未来はようやく、話の趣旨を理解した。数学オリンピックに出るか出ないかはともかく、数学の成績上位者で、志望校が決まっていない唯一の生徒が自分で、それだけの理由で白羽の矢が立ったということだ。
「おまえが書いてきた志望校は、ハッキリ言って、デタラメだろ? なにがやりたいか、まだ解ってないやつの典型だよ。だから、ちょっとでも手助けをと思ってさ」
その日の練習は、全く身が入らなかった。もうすぐ秋のコンクールの練習が本格的に始まるというのに、音もイマイチで、納得がいかない。何もかも、進路を決められない自分のせいだと解っているだけに、悔しいを通り越して悲しくなった。数学の成績を褒められても、その優越感より、他が何もできない劣等感のほうがはるかに勝って、素直に喜べない。三年生が抜けて、いつも隣にいた南がいなくなった寂しさも、未来にとっては大きなダメージだった。トランペットのパートリーダーは未来に替わり、自分でも、前任者とは比べ物にならないほど頼りなく思える。杏奈はそんな未来の不安を感じ取ったのか、何でも手伝うからね、と、いつものように柔らかい口調で言った。
「先輩、一緒に帰ろ」
冴えない顔で歩いて行くと、校門の外で沙耶が待っていた。部活のジャージ姿に、ホッとする。沙耶の私服を学校で見たことはないが、ちょっと露出が多すぎる気がする。
「友達は?」
「先に帰りました。邪魔しちゃ悪いから、って」
「そうなんだ。……あのさ、別に、敬語じゃなくていいよ」
未だに敬語で話す沙耶にそう言って、急な下り坂を歩き出す。学校から駅までは、ずっと下りだ。未来の自宅へ曲がる角を通り過ぎようとした時、
「あ、ここまでで大丈夫です」
「駅まで送るよ」
「でも、」
「いいから」
未来は半ば強引に、沙耶の手を引っ張った。沙耶は再び隣に並び、嬉しそうに未来の顔を覗き込む。
「心配?」
「心配に決まってるだろ」
「優しい!」
先日あんなことがあったのに、沙耶はもうケロッとした様子だ。その切り替えの早さは見習いたいと思ったが、ちょっと呆れてしまう。もしかしたら、幼い見た目よりずっと強いのかも知れない。駅で沙耶を見送り、今度は上り坂になった道を戻る途中、菜々子の姿を見かけた。未来に気付いているのかは解らないが、足早に自宅のほうへと向かっている。未来は、歩く速度を緩めた。