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不思議な人

 吹奏楽コンクールが翌月に迫り、吹奏楽部の練習は土日にも及んだ。中学の頃から慣れてはいるが、休日の二度寝が何より好きな未来にはちょっと辛い。おまけに、梅雨明けしてから急に真夏並みの気温が続いて、少々夏バテ気味だった。未来の部屋にはエアコンがなく、冬はまだいいが、夏、どんなに暑くても窓を開けて扇風機で凌ぐしかない。小さい頃体が弱くて、エアコンの風が体に悪い、と言われたことを、未だに守っているのだ。未来は自分の部屋を与えられてから、母親にエアコンをつけてくれるよう何度も直訴したが、それだけは受け入れてもらえなかった。

「酷くない? ウチの親」

 練習の合間、未来は譜面ファイルで顔を扇ぎながら、同じパートの嵜本 杏奈あんなにこぼした。

「未来くんのこと、大事にしてくれてるんじゃん」

「でも、もう何ともないのに。最近暑くて眠れないよ」

「確かにね。私もお肌に悪いからエアコンつけずに寝るんだけど、ちょっと辛いね」

 四分の一、ヨーロッパの血が流れる杏奈は色白で、登下校には曇りの日も日傘をさしている。美白ブームか何か知らないが、最近妙に肌を気にしていた。そういえば母親も、風呂上がりに蒸気の出るおかしな機械を使っている。

「女子は大変だね」

「未来くんも、肌理きめが細かいから、気をつけたほうがいいよ。日焼けしたらシミになるから」

 言われた内容にピンとこなかった未来は、曖昧に返事をして、練習を再開した。


 菜々子とはようやく和解して、今まで通りに会話をすることができるようになった。コンクールを前に、部員が少しでもギクシャクしては、演奏に支障が出ると思ったから、と菜々子らしい理由だった。それで未来も肩の荷が降り、溜め息をつくこともなくなっていたが、ただ夏バテは深刻で、夏休みが始まる頃には食事ができないほどになってしまい、それで余計に体力が落ちていた。

「だからエアコンつけてって言ったじゃん」

 ヨーグルトさえ受け付けなくて、スプーンで掻き混ぜただけで席を立とうとすると、母親がそれを止める。

「食べなさい」

「無理だよ」

「吐いてもいいから食べるの」

「……」

 確かに、食事がまともにとれなくなってしまって、何をするにもすごく辛い。ただでさえ肺活量の必要な楽器なのに、力が入らなくてはどうしようもないことも解っている。未来は、腕組みして立っている母親の前で、ヨーグルトを無理矢理流し込み、学校に向かった。

 しかし、音楽室も暑いのは変わりないわけで、正午近くになると、室温はどんどん上昇した。時折、開け放った南北の窓から流れ込む新鮮な風を待ちつつ、皆、汗を拭きながら自主連をしている。大きな楽器の部員たちは、汗で手が滑ると危ないので、暑いのに手袋をして練習をした。未来も、コンクールまでの残り少ない時間を無駄にするわけにはいかないと、気分が悪かったが、苦手な運指の部分を朝から何度も繰り返している。未来に限らず金管楽器は、クラリネットやフルートのようにキィが多い木管楽器に比べ、細かい運指が難しいのだ。

「未来、どうした? 顔色悪いぞ」

 南が未来に声をかけた。

「……、」

「ホント、真っ青だよ。ちょっと涼しいところで休んだほうがいいよ」

 杏奈にまでそう言われて、ますます気分が悪くなってきた。未来は我慢できずに、楽器を椅子の上に置き、走って音楽室を出た。


「大丈夫か?」

 しばらくして南が様子を見に来た。吐き気は治まったものの、体力を消耗して立ち上がれない未来は、廊下の壁にもたれて、目を閉じていた。

「今日はもう帰ったほうがいいよ。一日くらい休んだって、未来なら大丈夫だから」

「……でも、」

 皆も暑いのは同じなのに。自分だけがこんなふうになってしまっていることが情けない。

「楽器は俺がちゃんとしまっておくから、もう帰りな。先生には俺から言っておくよ」

 最初から未来を帰そうと思っていたらしく、荷物を手渡してくれた。未来は悔しかったが、今日だけ休んで何とか夏バテを治そうと決め、南に謝って音楽室をあとにした。普段の倍ほどに感じる階段を降り、下駄箱まで歩くと、また気分が悪くなってくる。しかし、家までくらいはもつだろうと、未来は炎天下を歩き出した。通学路には日陰がなく、痛いほどの陽射しが全身を攻撃するかのように降り注ぎ、一歩ごとに体力を奪われる。いくらも歩かないうちに、未来は耐えきれず、道端に座り込んで嘔吐した。血の気が引いて、気が遠くなるのが解る。このままではダメだと解っても、体に力が入らない。やがてうずくまってしまった未来の横で車が止まった。

「大丈夫?」

 慌てた様子で車を降りて来たのは、城戸だった。城戸は助手席のシートを倒してぐったりした未来を乗せ、タオルを手に持たせる。使っていいからね、と言う声に未来が頷くと、車はゆっくり動き出した。家はすぐそこなのに、とてつもなく遠く感じる。また吐き気がしてきて、未来はそのタオルで口を押さえた。

 ようやく家についたが、どうやらこんな時に限って誰もいないようだ。鍵を渡して玄関を開けてもらい、ふらつく体を支えられて、家の中に辿り着く。城戸は未来をリビングのソファに寝かせると、キッチンを借りるよ、と断って、未来に冷たい水を持って来た。

「少し熱いみたいだから、冷やそうか?」

 額に手を当て、城戸が言った。水を飲んで少し気分が良くなった未来が首を横に振ると、

「熱中症じゃなきゃいいけど……」

と、まだ呼吸の荒い未来を、心配そうに見つめる。首筋の汗に気付き、そっとタオルで拭いた。

「夏バテなんです、……最近ずっと、」

「そっか……。辛いね。今年は特に、蒸し暑いから」

 城戸は、この家の事情を知っているかのように、部屋のエアコンはつけず、窓を開けて扇風機をつけた。食卓の上に母親がよく使う扇子を見つけて、優しく未来の顔を扇ぐ。その風に乗って流れてくる、城戸の香水を、今日は何だか懐かしい、と感じた。


「ホントにすみません。ご迷惑ばかりおかけしてしまって、」

 母親の甲高い声が聞こえる。

「ちょうど通りかかって良かったです。あのまま倒れていたら、大変なことになるところでした」

「体が弱いくせに、自覚がなくて困った子なんですよ。また改めてお礼に伺います」

「いえ、気になさらないで下さい。それより、お大事に」

 城戸が帰って行くのを確認した未来は、起き上がって深呼吸をした。随分楽になった気がする。

「ちょっと、未来。また城戸先生に送って頂いたのね」

「……うん」

「無理しないでお母さんに電話したらいいじゃないの」

「どうせいなかったくせに、」

「近所のスーパーに行ってただけよ。すぐ迎えに行けるわ」

 怒ったように言った後、

「でも、ホント、カッコイイわぁ……王子様みたい」

 しみじみとそう言って、しまった、お茶もお出ししなかったわ、と独り言のように付け足した。

 未来は二階の自分の部屋で、もう一度ベッドに横になった。柔らかな扇風機の風に、すぐに眠気がやってきて、吸い込まれるように目を閉じる。夏の暑さで壊れた体が、何か不思議な力で修復されていくように感じられた。何だろう、この感覚は……。フワフワとした雲に乗り、空を漂っている。景色を見たいのに体を起こすことはできず、ただ流れる雲のベッドで浮かんでいた。それが言いようもなく心地良く、いつまでもそうしていたくて、未来は眠りの世界へと、自ら深く潜っていった。

 再び目覚めたときは、もう吐き気もなく、むしろ空腹を覚えた。不思議な夢の余韻を微かに感じながら起き上がり、階段を降りて行くと、瑠未も父も帰っていて、楽しそうに何やら話している。

「未来、もういいのか? 帰りに倒れたって、」

「……もう大丈夫だよ」

 母親と瑠未は、また城戸の話題で盛り上がっている。二重瞼が可愛いだの、唇の形が色っぽいだのと、会ったことのない瑠未に説明しているが、父親の前でよくこんな話ができるな、と呆れながら食事を始めた。

「もっと野菜を食べなさい。食事のバランスも大事だぞ?」

「解ってるよ」

 大学病院で働く父は、内科専門の医師だ。しかし、未来が小さい頃から、少々熱があっても友達と遊んでれば忘れるよ、と言って幼稚園に送り出したり、怪我をして帰っても、こんなの唾をつけておけば治るよ、と言ったり、全く医者らしくない。まあ、厳格な父よりは気楽でいいのだが、未来は時々、本当に医者だろうか? と疑ってしまう。

「未来、あんたが吐いて汚した城戸先生のタオル、洗濯したから今度ちゃんと返すのよ?」

「……解った」

 城戸と話していたときと、同じ人物とは思えない声だ。指摘しようかと思ったが、まだ母親とやりあう元気はなく、未来は黙って食事を続けた。


 翌朝、未来は夏バテがすっかり治っていることに驚いていた。昨日まであんなに酷かったのに、もう何処も何ともない。いつも通りの食事をとり、久々に元気に家を出た。夏休みで曜日の感覚が薄れてしまって、今日が何曜日だったか考えながら歩いて行くと、菜々子が後ろからやって来て声をかけた。

「未来、昨日途中で帰ったけど、大丈夫?」

「うん、もう平気」

「ならいいけど。真っ青な顔してたって、杏奈が言ってたから。体が弱いんだから、体調には気をつけなきゃ」

 体が弱い、と言われると、カチンとくる。確かにそうだけど、小さい時ほどじゃない。しかし、夏バテだったとか、説明するのも面倒だった未来は、全く別のことを口にした。

「そういえば、今日って何曜日?」

「土曜だよ。なんで?」

「いや、別に」

 土日は、部活の顧問をしている教師以外は、休みだ。城戸にタオルを返すのは、また今度だな、と未来は心の中で、確認するように呟いた。

 音楽室に着くと、あちこちから、体を心配する声をかけられた。特に南は、気分が悪くなったらすぐに言えよ、と未来を病人のように扱う。

「先輩、もう、夏バテ治ったんです」

「ホントか? 昨日の未来を見てたら、そうは思えないけど」

「俺も、不思議なんですけど。昨日……、」

 不思議な夢のことを言いかけて、未来は口を噤んだ。その話をすれば、城戸の名を出すことになる気がして。未来は自分が、それを避けた理由が解らず戸惑った。

「……とにかく、もう大丈夫です」

 知らず知らずのうちに溜め息をついた未来を見て、

「ほら、やっぱりまだ治ってないじゃないか」

 南に咎められる。

「でも、昨日までに比べたら、すごく元気になったね。よかったじゃん」

 気を利かせたわけではないだろうが、杏奈がそう言ってくれたおかげで、ようやくパート練習が始まった。久々に、練習が楽しい。楽器も元気を取り戻したのか、音が明るかった。徐々に息の合ってきた演奏に、コンクールでの入賞の期待を誰もが持ちながら、あえて口にしない。そんな暗黙のルールが、ますます未来をやる気にさせていた。


 月曜日、練習が終わり、鍵当番を引き受けた未来は、部員たちが帰って行くのをピアノの椅子に座って待っていた。くるくる回転するその椅子を、目が回る寸前で止め、今度は逆回転をする。それを何度か繰り返し、飽きてきたところで、ふと窓の外を見た。空が徐々に夕焼け色に染まり、急ぐかのように太陽が沈んで行く。夕焼けが綺麗だと、翌日は雨だったか晴れだったか、そんなことを考えていた。最後の一人が音楽室を出ると、内側からサムターンを回して鍵をかけ、中で繋がった準備室から出る。音楽室にも準備室にも両方鍵はあるのに、何故か皆、そうしていた。音楽室、と書かれた黄色いタグのついた鍵を弄びながら職員室に着いた未来は、一息おいて、扉をノックした。

「失礼します」

 声をかけて、キーボックスに鍵を返し、おもむろに職員室の中を見渡した。目当ての人物が見つからなくて、どうしようか悩んでいると、

「どうした、珍しいな」

 担任の野口と目が合って、滅多に職員室に来ない未来をからかった。野口は数学の教師で、普段は厳しいが、いったん授業を離れると気安く話せる人柄が、未来は好きだ。

「あの、城戸先生って、お休みですか?」

「いや、さっきまでいたけどな。まだ帰ってはないと思うぞ」

「解りました」

 未来は城戸の居場所が解った気がして、職員室を出た。真っ直ぐ自分の教室に向かい、そのドアを開ける。

「やっぱり、」

 思わず声に出してから、しまった、と思った。城戸はあの日と同じように窓際に佇み、外を眺めていたようだったが、驚いたように未来を振り返る。

「よく会うね」

 城戸はそう言って、その表情を和ませた。夕日が射し込み、白いカーテンも彼のシャツも、オレンジ色に染まっている。

「もう体は大丈夫?」

 未来は、ただ頷いた。お礼を言わなければならないのに、何故か体が言うことをきかない。一方城戸は、未来が自分に用があってここを訪れたのだと悟ったのか、窓を閉める手を止めた。

「……入ったら? 自分の教室でしょ?」

 入り口に立ち尽くしていた未来は、言われるまま、中に入った。急に何をしにここへ来たのか解らなくなり、動かない頭で考えていると、城戸のほうから未来に近づいて来た。

「部活、頑張ってるみたいだね。もうすぐコンクールなんだって?」

 母親が甲高い声で喋る様子が目に浮かんだ。徐々に近づいて、目の前に立った城戸は、思っていたよりも背が高く、未来は目線を上げた。夕日に透ける茶色い髪と、同色の瞳。その目を見ていると、吸い込まれるような気がする。この教師が持つ不思議な雰囲気は、瞳のせいだと、解った。

「どうして、ここなんですか」

 思いもよらない台詞を口走って、未来はハッとした。まるで自制心が働かず、催眠術にでもかかったようだ。城戸も、そんな質問を受けるとは思っていなかったらしく、驚いたような表情になる。

「……、」

 迷っているのか、言葉を探しているのか、城戸は黙って未来の目を見つめていたが、

「好きだから」

 そう答えた。その明快な答えに、未来は納得して、思わず笑みを零す。もっと現実離れした理由を期待していたが、それは未来の想像の中だけに留めておこうと思った。

「初めて笑ったね」

 そう言った城戸も、いつになく柔らかな笑顔だった。笑顔が優しい、と女子たちが言うわけに、ようやく納得する。

「コンクール、頑張ってね。見に行くから」

「はい、頑張ります」

 素直に嬉しいと思っていることを意外に思うこともなく、未来は笑顔でそう答えた。

 帰り道、夕日が徐々に傾いて行くのを眺めながら、未来はようやく、教室まで行ったわけを思い出していた。カバンの中に、白いタオル。でも、また放課後の教室に行けばいい。そう思って、再び歩き出した。



「未来は相変わらず日焼けしないな、」

 登校日、久々に会った俊介は、真っ黒に日焼けしている。

「何、その色。海?」

「そうだよ。うっかり寝ちゃってさ」

 そう言って顔と背中の色の差を見せた。部活のメンバー以外の友達と話すのは久しぶりで、新鮮な気分だ。

「そういや、週末、コンクールだろ? 練習頑張ってる?」

「うん。バッチリだよ。もういつでも大丈夫って感じ」

「すごい自信だな。金賞でも取るつもりか?」

 からかうように言いながら、未来の後ろの席に座り、今度は小声で、

「おまえ、中野に一回も連絡してないだろ」

「……、」

 忘れていたわけではないが、最近は部活の練習がきついし、先月は夏バテでそれどころではなかった。言い訳しようかとも思ったが、

「ごめん、コンクールが終わったら、連絡する」

「言っとくけど、あいつ、相当おまえのこと好きみたいだぜ」

 その一言が、未来を新たに憂鬱にさせた。未来は同時に幾つものことが出来ない性分で、コンクールに向けて全力を注いでいる今は、ただそれだけに集中したかった。頭の中が一つのことで占められてしまうと、他を入れる余地がない。逆に、本当に好きな人が出来た時には、その人のことで頭が一杯になってしまうのかも知れないが、今の未来にはそうなることが想像もつかなかった。


 快晴、とはこの空のことを言うんだな、と思えるほど、真っ青な空だ。未来にとって、一年で最も重要と言っても過言ではないこの日、天気が良いと何だか結果まで良いような気がして嬉しくなる。蝉の大合唱も、今日だけは未来を応援してくれているようで、頼もしい。コンクールの会場に着いた未来は、もう既に着いていた部員たちを見つけて合流した。

「おはよう! いい天気で良かったな」

 南の学生服姿が久しぶりで、何だか可笑しい。制服のない未来たちは、少しでも統一感を出すため、女子は上が白いブラウス、下が黒いスカートかパンツで揃え、男子は中学のときの制服を着るか、父親のスーツを借りるかしている。未来も中学のときのブレザーの下と、白いシャツを着ていた。

「楽器の調子はどうだ? ちゃんと磨いてきたか?」

 顧問の河合が、未来たちに声をかけた。河合は有名な音大を出ていて、色々な大会で優勝した経験を持っている。前に勤めていた高校も、河合が顧問になって一気に実力をつけたと聞いた。事実、この高校も河合が赴任してから三年になるが、かなり上位の成績をおさめるようになってきている。今年は圧倒的に女子部員が多く、どうしても同じ男という理由だけで男子部員に目をかける河合に、未来は父親に似たところを感じて好感を持っていた。父と娘ほどの差があっても、女性というのは扱いづらいようだ。

 屋外で軽く練習をし、いよいよ本番が近づくと、毎回のことながら心臓が痛いほど緊張してくる。特に、優勝候補と言われる学校が、非の打ち所のない演奏をするのを聴くと尚更だった。だから、余計な緊張を避けるため、未来は意識的に他の演奏は聴かないようにしていた。コンクールが終わったら録音したものが配られるから、あとで聴けばいい。

 出番が次に迫って、暗い舞台裏で楽器を温め始めると、覚悟を決めていたはずなのに、手が震えてくる。あらかじめくじ引きで決められた順に課題曲、自由曲の二曲を続けて演奏し、その都度、審査員が手元の用紙に評価を書き込んで、最後に審査会で順位が決まるらしいが、結果がどうなるのかということより、自分が足を引っ張らずに演奏を終えられるのかという不安のほうが大きかった。今、舞台では前回の優勝校の自由曲が演奏されている。その演奏の素晴らしさに、皆、明らかに緊張していて、小声で話すこともない。未来は無心になろうと、最後まで苦労した部分を指だけで何度も練習していた。トランペットは音が通るため、特に高音部では些細なミスも許されない。

 やがて前の学校の演奏が終わり、割れんばかりの拍手がおこる中、河合が無言で合図をした。指揮者の河合を除く全員が、決められた通りの順序で舞台に出て行く。客席が暗くて、来ているはずの家族や俊介たちの顔が見えなかったが、自分の正面にいると決めて、未来はお辞儀をした。


「よく頑張ったな。素晴らしかったよ」

 演奏が無事終わり、練習の成果以上のものが出せた実感に、女子部員たちの何人かはもう泣いている。特に三年生はこれで引退するため、思い入れは深かったはずだ。もらい泣きしそうになった未来は、そそくさと外に出て、日陰のベンチで楽器の手入れを始めた。昨夜、念入りに磨いたトランペットを、もう一度綺麗に拭いて、そっと抱きしめる。それでようやく緊張の糸が切れ、未来は大きく息を吐き出した。

「お疲れ様です」

 聞き覚えのある声に顔を上げると、そこに沙耶と俊介たちの姿。

「皆がいるとこにいないから、探したぞ」

「ああ、ごめん」

「結果発表、楽しみだな。拍手が何処よりも一番、大きかったよ」

「そうだね、」

 言いながら、涙ぐんでしまう。だから、人のいないところに来たのに。友人に涙を見せたくなかった未来は、俯いて唇を噛んだ。

 全ての学校が金、銀、銅のどれかに振り分けられるが、割合は決まっておらず、金賞が一校だけの年もあれば十校の年もある。今年は、審査が厳しかったのか、金賞が二校、銀賞が八校で、未来たちは、銀賞。毎年、十位までは発表されるのだが、なんと未来たちは三位だった。

「嘘でしょ、」

「ホントに三位?」

 アナウンスが流れても半信半疑だったが、それが本当だと解った瞬間、皆で抱き合って喜んだ。自然に溢れる涙に、未来は南に抱きついて泣いた。南も泣いているようで、未来を抱きしめる腕が震えている。周りには微塵も見せなかったが、部長として部員たちをまとめ、ここまで導くのは、大変だっただろう。その苦労を思うと、ますます涙が止まらなかった。

「本当は金賞が取りたかったろうけど、そんな贅沢はもっと練習してから言えよ」

 表彰式が終わり、ロビーに集まっても泣き続ける部員たちだったが、その河合の言葉にようやく皆笑った。そこに担任の野口をはじめ、他の教師たちが姿を見せ、見知った顔におめでとう、と声をかける。野口は未来を見つけるなり、嬉しそうな顔でやってきた。

「おい、すごいじゃないか。初めての三位入賞だぞ」

「はい、ありがとうございます」

「これくらい、勉強も頑張るといいんだけどな」

 冗談にしても、聞きたくない台詞を吐いて、他の教師たちと談笑を始める。また余計なことを言われる前に退散しようと、大事なケースを抱えて集団に踵を返すと、そこに城戸の姿があった。

「おめでとう。良かったね。すごく上手だったよ」

「……ありがとうございます」

「頑張ったかいがあったね」

 未来は嬉しくてまた涙が出そうになり、無言で頷いた。みんなで力を合わせてここまで辿り着いた瞬間を、見ていてくれる人がいるということ。今まではそんな有り難さを感じたこともなかったが、今年は何故か言いようもなく嬉しい。やっと、人に素直に感謝できる年齢に達したことを、未来は感じていた。城戸が遠くから誰かに呼ばれて、じゃあ、またね、と未来の肩に手をかけて立ち去ると、今度は未来を見つけた家族が駆け寄ってきた。

「ちょっと、今のが城戸先生? 想像してたよりずっとイケメンじゃない!」

「ごあいさつしてくるわ」

 そう言って今にも城戸の後を追っていきそうな母親を、慌てて止める。

「やめろよ、もう」

「あんた、どれだけお世話になったと思ってるの?」

「先生も色々とお忙しいだろうから、また今度でいいじゃないか。なあ、未来」

 父親のその言葉に、未来も大きく頷いて、名残惜しそうな女たちを引きずるように連れて外に出た。が、心がまだ、帰りたくないと言っている。

「俺、友達と約束あるから、先帰って」

 特に誰とも約束をしていたわけではなかったが、未来はそう言って家族と別れた。楽器だけは自分で持っていたくて、胸に抱いたまま、陽射しを避けてもう一度会場の敷地内に戻る。風通しの良い日陰にベンチを見つけ、未来は腰を下ろした。何だか、人生で一番幸せな瞬間をもう味わってしまった気がして、少し不安になる。幸せすぎる出来事のあとには悲劇が待っている、そんなドラマのような展開が、自分にも起きる気がして。



 きつかった練習は一旦休憩になった。あとはもう一つ、三年生が抜けたあと、秋に地元主催の小さなコンクールがあるため、それに向けての練習カリキュラムに切り替わる。自由曲は何になるんだろう、と楽器を片付けながら考えていた未来は、ふと杏奈が何やら大切そうに握りしめているペンが目に止まった。

「何、それ。何かのおまじない?」

 他の部員も気付いたらしく、声をかける。

「そう。唯様にもらったの」

「え? マジで? なんで? なんで?」

 城戸の話題になると、何処の女子も同じだ。甲高い声が音楽室に響き渡る。

「英語の授業のあと、よく質問に行くんだけどね、コンクールのこと話してて、緊張しないように何かお守りを下さいって言ったら、これをくれたの」

「ズルい! 杏奈ばっかり。ずっとナイショにしてたし、」

「言ったら願掛けにならないじゃん。きっとこのお守りのおかげで入賞できたんだよ。いつも外すGの音、バッチリ出たし」

「いいなー! 私も唯様のお守り、欲しいよ! ね、誰でも喋ってくれる? 優しい?」

「ダメ! ナイショ。私だけの唯様なんだから」

 杏奈はそう言って、今までに見せたことのない表情で、そのペンを抱きしめた。

「バカな奴らだな。城戸先生、彼女いるのに」

 女子たちの大声に呆れた様子で、私物の整理に来ていた南が言った。本人たちには聞こえていないが、未来もそれには驚いて、

「え、マジですか?」

「マジだよ。保健室の木村先生、お似合いだろ?」

 それを聞いた未来は、あの試験の日の偶然がそうでなかったことに、がっかりしている自分に気付いて戸惑った。あんまり人に喋るなよ、と言う南の言葉に曖昧に頷き、音楽室を出る。

「おかえり、未来。お腹すいたでしょ」

 気がついたら、帰宅していた。下駄箱で靴をかえた記憶も、いつもの角を曲がった記憶もない。食卓には家族が揃っていて、未来を待っていたようだった。

「また痩せてきたみたいだから、いっぱい食べなきゃね」

 頷いたものの、食欲がなく、家族が心配そうに未来を覗き込む。

「また夏バテ?」

「今朝まであんなに元気だったのに」

「病院で点滴するか? 元気になるぞ?」

 口々に言われて責められているような気分になった未来は、食事もせずに階段を駆け上がって部屋に閉じこもった。

「……なんで、」

 解らない。未来は自分が解らなかった。ざわざわと胸の中が不快な音を立てる原因が、未来にはまだ、解らなかった。


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