二年五組
それから四年後の春、未来は、母校の教壇に立つ準備に追われていた。教育実習は大学の系列校で済ませてしまったが、ちょうど他校に異動になる野口と入れ替わりにこの学校に赴任することが決まったとき、未来はやはり運命を感じた。何より、卒業以来の母校を訪れて、何にも例えようのない複雑な感情が芽生えてくる。懐かしさ、新鮮さ、嬉しさ、不安、緊張、期待。そのどれにも当てはまらず、また、その全てでもあり、未来は胸がいっぱいになった。
つい最近まで学生だった未来は、まだ教える側に立つという実感に乏しい。職員室が未来の部屋に変わり、野口の席だったところが必然的に未来のものになったが、そこに座る自分の姿はやはり、場違いな気がしてならなかった。未来が在校していた時に教えてもらった教師もまだ何人か残っていて、昼食の時などは当時のことをよく話題にする。特に音楽教師の河合は、コンクールで金賞を取った時のことを嬉しそうに語った。
初めての授業が終わり、興味本位で近づいてくる生徒たちの相手をしたあと、未来は無事最初の一日を終えたことにホッとして職員室に戻った。この扉を開ける時は未だに緊張するが、生徒だった頃は、広くて奥が深いと思っていた部屋が、何だか狭苦しく感じるのが不思議だ。窓から見える景色など、あの頃は全く知らなかったことも、職員室の居心地の悪さのせいだったのだと解り、苦笑してしまう。
机に荷物を置くと、未来はおもむろにある場所に向かった。四年という月日は長いのか短いのか。毎日目にして忘れるはずのなかった風景でさえ曖昧になっていることが、その長さを物語っていた。
二年五組。どの教室も同じはずなのに、ここだけは違う。誘われるように窓際に寄り、開けっ放しの窓からグラウンドを眺めながら、未来はようやく、あの時彼が、この場所に佇んでいた訳を知った。住人が何度も入れ替わり、掲示板の内容が変わっても、見える景色は変わらない。夕日も、風も、あの頃のまま、そこにあった。不意に涙で視界が歪み、自分でも予期しなかった状況に戸惑っていると、教室のドアが開く音がした。
「未来、」
その声は、未来がここにいることを承知していたというふうな響きだった。あの日と変わらず、優しく微笑んでいる。一瞬で時間が巻き戻され、最後に話した言葉がまだ耳に残っている気がした。
「泣いてるの?」
未来は泣き虫だね、と笑いながら未来の側に寄り、その綺麗な指でそっと涙を拭いてくれる。懐かしい声と花の香りが未来の中に染み込み、いつか固く鍵をかけた心の奥の扉が、音を立てて開いた。人前で泣くなんて、あり得なかった。この人に出逢うまでは。
「変わってないね。元気だった?」
お互い、なのか未来のほうだけなのか、敢えて一度も連絡しなかった。そうすることに何の意味があるのかと、俊介は何度も言ったが、未来は過ぎ去った時間を無駄だとは思わない。城戸はあの日、四年後、また戻っておいで、と言った。それまでは会わないという意味だと、未来は受け取った。たとえ間違った解釈だったとしても、それで良かったのだ。……まだ、子供だった。対等に向かい合うには、幼すぎたから。
「唯、」
その名を呼んで、四年間ずっと堪えていた気持ちが、幾つも頬を伝うのを感じていた。あの時から自分は、この教師と向き合えるほど、成長できたのだろうか。大学を卒業し、この街に戻る電車の中で、何度も考えたが答えは見つからなかった。しかし、今この場所から見える景色を、言いようもなく懐かしいと感じる。あの頃の自分が、窓際の席で退屈そうにしている姿が見えた気がして、未来はようやく笑みを零した。
「おかえり、未来」
震える声でそう言って、城戸は未来を抱きしめた。あの頃と同じ、包み込むような優しさを持った、その手で。
夕日に染まる白いカーテンが、春の優しい風になびいていた。想い出という景色の見える教室で、重なり合う長い影はいつまでも離れることなく、そこに佇んでいた。