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彼の香り

 月日は過ぎ、乾いた北風が心の中までも入ってきそうな寒さが続いていた。毎日放課後の居残りをして、暗くなった外に出る瞬間は、痛いほど冷えた空気に思わず首を竦めてしまう。早く、春にならないかな。寒さのあまり耳が痛くて、未来はつい、現実逃避に走っていた。何かの拍子に時間が進んで、この冬を一瞬で越えられないかと。暑さにも弱いが、寒いのも苦手で、温室育ちの代表のような自分がつくづくイヤになる。しかし、泣いても笑っても、一ヶ月後にはセンター試験が控えているのだ。そして二月には、未来の目指す大学の、本試験。

 はぁ。未来は夜空を見上げて、白い息を吐いた。教室の暖房で火照った頬はすぐに凍り付き、ひび割れそうになる。心と同じだな、と呟いてしまいそうになった。何かの気まぐれだったのか、城戸が未来を買い物に誘って以来、また二人は何事もなかったかのように教師と生徒に戻っていて、それがかえって、未来の余計な雑念になっている。極力彼のことを気にしまいと努力しているのに、城戸が最近香水をつけ始めたことを様々な憶測で話す女子生徒の会話があちこちから聞こえ、それも未来の悩みの種だった。実際、城戸が側を通ると、春先に咲く花のような、瑞々しい果物のような、何とも言えぬ良い香りがする。それは去年から未来が知っている彼の香水とは全く違っていた。どうやら城戸から聞いた不思議な瓶の話は本当だったようで、未来以外、誰も以前の城戸の香りを知らない。

「あの瓶のこと、あとで教えるって言って、結局忘れてるんじゃん、」

 未来は、城戸の言動に一喜一憂している自分に、いい加減腹が立っていた。彼にとってみれば高校生など子供も同然。もしかしらた未来の気持ちなどとっくにお見通しで、適当にあしらっておけばそれなりに喜ぶだろうと思われているのかも知れない。……今度二人で会ったら、絶対ハッキリさせてやる! 未来は威勢良く誓ったが、いざその時になって尻込みする自分の姿が目に浮かんだ。自分が全校生徒の中で最も城戸と親しい、ということはほぼ間違いない事実だろうし、彼の過去を知っているのが自分だけだと解っていても、彼の全てを知っているわけではない。だから当然、日々の噂は気になって仕方がなくて、結局自分もクラスの女子たちと変わらない立場であることに苛立つ毎日だった。


 期末試験は、受験生だろうが何だろうが関係なく行われ、今日でやっと、全ての答案用紙が手元に返ってきた。心配ないのは数学だけで、あとはいつも受け取るときヒヤヒヤするが、今回は自分でも納得の出来映えだった。本命が私立の未来は、受験に関係のない科目は一応、平均点以下でも許される。センター試験は、受けてみるだけ。その点で、自分で決めたラインをクリアしたということだ。

「これでやっと、試験が終わったな」

 正紀がもううんざりだという表情で、未来に声をかけた。正紀は早々と指定校推薦の枠を手に入れていて、受験はないも同然だ。こういう友達を見ると、未来も全教科、きちんと勉強しておけば良かったと激しく後悔した。結局、塾通いをしていた俊介も推薦組で、普通に受験すれば超難関と言われる私立大に既に合格している。そんな中で、未来は自分だけが取り残されているかのような気分に襲われ、それでも絶対合格してやる、と闘志を燃やしているのだった。

「クリスマス、中野とどっか出掛けんの?」

 廊下でばったり会った俊介と、久々の立ち話だ。

「部活引退してから、おまえらの話が聞こえてこなくて寂しいよ」

 実際、未来は沙耶と、以前ほど頻繁には会っていなかった。受験だから、というもっともな理由をつけていても、それは違うと認識しているから胸が痛い。思い切って別れようと思っても、つい沙耶のペースに乗せられて、会えばいつものように部屋でSexをしていた。

「あっちのほうは、どうなってんだよ? 全然報告がないけど?」

「……報告するようなことが、ないからだよ」

 ふーん、と探るような目で見て、

「向こうは教師だから、自分からは誘えないと思うぜ? 未来が思い切ったことしないと、いつまでもそのままで、あっという間に卒業式が来るぞ」

 まあ、頑張れよな、と肩を叩いて予鈴の鳴った教室へと戻っていった。


 思い切ったことって? 未来は放課後の教室で、受験する大学の過去問を解きながら、余計なことを考えていた。俊介のせいで、受験とは別のタイムリミットを設けられたようで焦りを感じる。

「俊介は、そういうことばっかり期待するんだもんな」

 思わずそう呟きながら、指先でペンをクルクルと回した。落ち着きのないとき、決まってこの技が出る。気になることは一つ、城戸の気持ちだった。彼の中から未来に重ねていた智が消えて、もう特別扱いは終わったんだと、諦めていた。それなのに、ある日、嘘をついてまで、未来を連れ出した事実。もしかしたら、何か話したいことがあったのではないかと勘ぐってみた。まさか、告白? ……まさかね。

 ますます落ち着きのなくなった未来は、ジッと目を閉じ、今度は自分の心の中に、問いかけてみる。自分は何を望んでいるんだろう。城戸と、どうなりたいと思っているんだろう。……最初はキライだった。男のくせに、香水なんかつけやがって、というのが第一印象だった。誰にでも優しい態度が、気に入らなかった。それが、いつからか、意識するようになった。それは今思えば、あの心を穏やかにするという瓶のせい。会うたびに、甘くて優しい香りが、未来の胸の中に、スッと入った。城戸といると心が安らぐと感じたのは、あの香りに癒されていたから?

「そうなのかな……」

 未来は急に、不安を覚えた。城戸が未来に智の姿を見て自分の心を癒したように、未来もまた、城戸の持つ瓶の香りに癒されていただけ? 条件反射のように、城戸の側にいれば安らぐと、思い込んだだけ? そこまで考えが及んで、未来は強く頭を振った。細かいことを考えるのは、やめたはずだったのに。たまらなくなって、机に伏せ、もっと前向きなことを思い出そうと必死になった。しかし、全てが智に結びついて、離れない。未来と城戸とを結ぶものは、智以外に見つからなかった。


 誰かが未来を揺り起こした。フワリ、と優しい香りがして、すぐに城戸だと解る。未来は顔を上げ、そこがまだ教室だと気付いた。

「風邪ひくよ。大事な時なんだから、気をつけないと」

 授業中のような口調で言って、カーテンを閉めた。それが気にいらず、いつまでも机の上を片付けようとしない未来に城戸は、

「どうしたの? 具合が悪いの?」

 未来は何も言わず、俯いていた。思い切ったことをするなら、今しかない、と思いながら、それを引き止める自分が邪魔をする。未来が意図的に黙っていることを悟ったのか、城戸は小さく息を吐き、未来の側に来た。

「未来、約束、覚えてる?」

 急に、いつもの優しい口調になった。意地を張って、忘れた、と言いかけて思いとどまる。黙っていると、

「受験勉強の息抜きに、今度、何処か行かない? 未来の好きなところでいいよ」

「……あれは智とした約束でしょ」

 思わず言ってしまって、後悔したが、もう遅かった。拍車のかかった未来の意地悪な口が、さらにこう続ける。

「智の代わりにはならないって言ったよね」

 城戸の反応を見たくなくて、あらぬ方向を向いていたが、あまりに長い沈黙に不安になって、

「ごめんなさい」

 不本意ながらも、謝ってしまう。小さい頃、些細なウソをついて、謝りなさい! と叱られた時のことを思い出していた。

「謝るのは僕のほうだよ。ホントに、ごめんね。いくら謝っても足りないくらいなのにね」

 その寂し気な口調に、城戸が過去に受けた傷の深さを知っていながら、心ないセリフを吐いてしまった自分を責めた。どうしてこんなに、うまくいかないんだろう。前はもっと、冷静に言葉を選べたはずなのに。言わなくてもいいことは、飲み込む術も心得ていたのに。

「……未来といると、落ち着くから、って言っても、未来にはピンと来ないよね。きっとまた僕が、智と一緒にいるつもりになってるんだろう、って思うよね」

 全く、その通りだ。苛立ちが、未来からどんどん冷静さを奪っていく。

「俺の身にもなってよ。どうしていいか、全然解んない。俺はまだ智なの? 未来なの? 先生の、何なの?」

「……、」

「大事な生徒、なんて言って逃げないでよね。ハッキリするまで帰らないから!」

 畳み掛けるように言って、それでもまだ気の治まらない未来だったが、言いたいことは言ったつもりだった。もう、どうなってもいい、と開き直って、城戸から顔を背けた。


 長い沈黙の後、ようやく、城戸が口を開いた。

「未来に初めて会った日、……試験の前で、教科書を忘れて取りに来てたよね。雨が降ってて、蒸し暑くて、窓を開けると何処からか甘い花の匂いがして、……智が死んだ日も、ちょうどあんな感じだった」

 過去の風景を見るような眼差し。城戸は穏やかな口調で語った。

「ドアが開いたとき、智が帰って来たのかと思ったよ。あの瞬間から、未来のことを、智に結びつけてしまうようになってた」

 出逢った日のこと。それは今も、昨日のことのように思い出せる。未来はただ、その綺麗な瞳を見つめた。

「狡い僕は、未来と智は違うんだって気付いてからも、未来のために一生懸命尽くすことで、自分を慰めてた。……でもあの日、未来のおかげで智に会えて、やっと解った。智と未来は、全然似てない。そんなことも解らなくなったのかって、智は言いたかったんだろうね」

 ジッと見つめられて、未来は暗示にかかりそうな揺らぎを感じていた。常に過去を見ていた瞳。だからつかみ所のない印象を受けたのだと解る。しかし、今は違う。真っ直ぐに、未来を見つめていた。

「長い間、胸の中に突き刺さっていた棘が、最後に智と話したことで、やっと消えた。そしたらあの香りも、フッと何処かに消えたんだ。信じられないかも知れないけど、今はもう、思い出すこともできない」

 それは未来も同じだった。城戸と会うたびに未来を癒したあの香りは、もう何処にも見つからなかった。

「今僕の前にいるのは、未来だって、ちゃんと解ってるよ。智はもう、この学校にはいないから。……それに、未来は智より、僕に似てる」

 思いがけないことを言って、城戸はポケットから、何かを取り出し、未来に差し出す。それは、想像していたよりもずっと小さい、透明な液体の入った硝子瓶だった。顔に近づけても全くの無臭で、未来は何だか可笑しくなり、つい吹き出した。

「あの日、未来が帰った後、野口先生に、めちゃくちゃ叱られたんだ。森下を利用するなんて最低だ、って。自分でも解ってたことだけど、眠れないくらい、落ち込んだよ。でも、それまですごく怖かった暗闇が、何でもなくなってた。不思議でしょ?」

 そう言って、未来に微笑みかける。思わずつられてしまいそうな笑顔に、未来はハッとした。城戸はあの日、長年の呪縛から解き放たれ、ようやく本当の笑顔を取り戻したのだ。それなのに今度は未来のほうが、いつまでも智に勝てないことに拗ねて、もうそこにはいない智のことばかり意識していた。智と、俺と、どっちが好きなの、という馬鹿げた質問が心に浮かび、答えられないであろう城戸の困った顔を想像した未来は、大きく息を吐いた。

「やっぱり、細かいこと気にしてちゃ、やってられないよね」

 未来が言うと、城戸もようやく、ホッとしたように息を吐いた。

「智のところに行きたい。それでも、連れて行ってくれるの?」

 困らせようと思って言ったのに、城戸はすぐに、いいよ、と答える。逆に驚いている未来を見て、

「僕も、同じことを考えてた。……一度も、お墓参りに行ってなかったから」

 行かなかったのではなく、行けなかったのだろう。いつまでも癒えぬ心を抱えて、どんなに辛い思いをしてきたのか、未来には計り知れなかった。今の未来と同じ歳の頃に、親友が自殺するだなんて。想像もつかない深い悲しみと、暗闇。その真っ暗な世界で怯えながら、それでも二度と同じ過ちを繰り返すまいとして、必死に生きてきたのだ。そしてまた、この場所に戻ってくることが出来た城戸の強さは、今の未来とは比べ物にならない。それなのに、感情に任せて責めてしまったことを、今、心から反省していた。


 夜、暗い部屋のベッドで、未来はずっと城戸のことを考えていた。皆が持っている、彼の印象、それは未来も最初はそう思っていたように、容姿端麗で冷静で、理想的な大人だということ。どんな時も優しくて、生徒のことを一番に考えてくれる。しかし、本当は、彼もまだ大人にはなっていないのかも知れない。何度も会話をして、未来はそう感じていた。それは、智が死んだときに彼の時間もまた、止まってしまったから。壊れているかのように心の奥底に沈んでいた時計を、止めていたのは彼自身。戻ることも、進むことも出来ず、ずっと同じ場所をさまよっていた。そして、誰にも見せることのなかったその時計を、ふとした拍子に、未来は覗いてしまった。二年五組という、彼の想い出の教室で。

 城戸は、智が元気に笑っていたこの部屋で、親友の笑顔を絶やしてしまったのが、まるで自分のせいであるかのように自分を責め続けた。そんな彼を、智はずっと、見守ってきた。そんなことを知りもせず、突然間に入り込んだ未来の存在は、きっと二人を戸惑わせただろう。未来はそれに気付いて、思わず苦笑した。

 未来はふいに起き上がり、コンクール以来封印したトランペットのケースを開けた。トランペットを持っている高校生の男子なんて、他に幾らでもいる。城戸がもし、他の高校の教師になっていたら、そこで同じような生徒に出会って、その生徒を智に重ねたのだろう。しかし、城戸は今、他の誰でもなく未来の側にいる。その偶然だけは、誰の意志でもない。そして、彼の時計はもう、動き始めている。

『きっとうまくいくよ』

 その声にハッとして顔を上げた未来は、思わず胸に抱いたトランペットを見つめた。いつも側で未来を見守ってくれる、コイビト。今は少しだけ離れているけれど、来年になったらまた、同じように吹いてあげるから。未来は心でそう言って、そっとケースにしまった。



 遠くを走る電車の音が、澄んだ上空の風に乗って心地良く響いてくる。いつになく温かい陽射しに、心も温かくなるような日だった。雀のさえずりがあちこちから聞こえ、時折その小さな体で砂利を踏む音を立てては、見つけた餌をついばんでいる。さっきからずっと目を閉じてひざまずいたまま、智の墓前から動こうとしない城戸は、カナダで週末になると連れて行かれたというミサでの癖なのか、両手を合わせるのではなく、胸の前で組んでいるが、それが何とも絵になる。黒いショート丈のトレンチコートが良く似合っていて、未来は場所もわきまえずに見とれてしまっていた。

 未来は智の墓前で、一言、唯のことは俺に任せて、と心の中で言った。暗に、智には負けない、という意味を含めておいたが、智には伝わっただろうか。城戸が用意してきたフリージアの香りに、今が真冬だということを忘れそうになりながら、待ちくたびれた未来は墓前から離れ、墓地を囲むフェンスの向こうに広がる景色を眺めた。今頃気付いたが、城戸の香水は、フリージアに似ている。智は子供の頃から通学路にこの香りがすると、美味しそうな匂い、と犬のように鼻を動かしてそのありかを探していたらしいが、春先の庭でこの香りがすると同じことをしている未来にはその気持ちがよく解り、思わず笑みを零した。

 もし、自分が先に死んだら、どんな花を手向けてくれるんだろう。ふとそんなことが浮かび、言いようのない寂しさに襲われた未来は、走って城戸のいる所に戻った。ちょうど立ち上がって未来を探していた城戸は、何事かと驚く。

「どうしたの? 何かあった?」

「……、」

 黙って首を横に振る。

「ならいいけど、」

 まだ心配そうな城戸は、待たせてごめんね、と謝った。駐車場までの砂利道を並んで歩き、城戸の側にいるという安心でようやく落ち着いてきた未来は、

「もう、いいの?」

 と尋ねてみる。頷いた横顔には、涙が光っていた。探すほどに見つからない言葉を、無理に口にする必要などない。城戸がこれで本当に、智を想い出の友達にすることができたはずだと、未来は信じていた。

 城戸はここに向かう車の中で、智が自殺した直接的な原因が、三年生になってすぐの二者懇談だったことを話した。城戸と同じ、教師になって三年目の女性教師は、初めて受け持つクラスで意気込んでいたのだろう。生徒に馬鹿にされまいと、厳しい教師を演じていたのかも知れない。彼女は、成績とはかけ離れた志望校を述べた智に、途方もない夢は捨てろと言った。それともふざけているのかと。子供の頃から智を知っている者になら、智の今の成績が本当の実力でないことは、容易に解ったはずだ。しかし、その教師に解るはずもなく、高校に入ってから伸び悩んでいた智に、過去にどれだけ成績が良かったか知らないが、そんな生徒はいくらでもいる、自分だけが特別だと思うのはもう卒業して現実を見なさいと、智を突き放した。言われた内容の正しさを、一番良く解っていたのは智自身だったし、それを乗り越えてもう一度頑張ろうとしていた矢先だったのに、ことごとく否定されてしまったのだ。

「智はね、僕から見ても、何か突拍子もないことを簡単にやってのけそうな、そんな力を持っていた。学校の成績とかじゃない、何か特別な力だよ。だから将来、きっと大物になる、っていつもからかってた」

 能力が高い者ほど、越えなければならない壁は高くなる。よほど悔しかったのか、智はその日に教師から言われた言葉を、そのまま日記に綴っていた。女性教師は、智の両親から見せられたその日記の内容にショックを受けて学校に来なくなり、今どうしているかは解らないという。智は遺書の最後に、どんなに高い壁も、乗り越えようという気持ちがあれば、越えていけるはずだ。すぐには無理でも、時間をかければ必ず自分の力で越えられるはずだから、側で見ている大人は決して否定せずに、見守ってやってほしい、と書いた。

『僕はもう壁を越えようという気持ちをなくしてしまった。誰の手も借りたくない僕には、これしか道はありませんでした』

 城戸から、教師を目指したわけを聞いたことはなかったが、恐らくそのことがあったからだろう。どんな時も優しく手を差し伸べ、誰にも分け隔てなく接する城戸の姿を思い浮かべ、未来は胸が熱くなるのを感じた。

 遺書の中には城戸個人に宛てた手紙もあったと言うが、その内容だけは絶対に教えてくれなかった。城戸が智を想い出にしても、未来がこだわっていたのでは意味がないような気がして、問いつめたい気持ちを押し込める。わざと気にさせるように言ったのかも知れないと、城戸を横目でうかがってみたが、慣れてきたはずの綺麗な横顔に思わずドキッとして、慌てて前を向いた。……それはともかく、自分に比べて、遥かに大人びた智に、また嫉妬してしまう情けなさ。まだおまえなんかには負けないぞ、という声が聞こえた気がして、未来は何度も墓地を振り返った。


 車に乗り、行き先を聞かず黙ったままの未来に、

「今日は、帰りたくない、って言わないんだね」

 城戸はそんなことを言ってからかう。未来は思わず赤面して、窓の外を見た。ドライブには、ミミを連れてくるんだったのに。自宅からそれほど離れていないであろう場所に、こんなに自然があったことに驚きながら、知らない場所に向かう車に、少しの期待と不安を覚える。そんな未来の気持ちを察してか、城戸はラジオのスイッチを入れた。休日の昼間に相応しい懐メロが聞こえ、知らない曲ばかりなのに、懐かしいと感じる根拠は何なのかと、気にする必要のないことを考えていた。

 何となく、次にかかる曲のタイトルが浮かび、耳を澄ませて待っていると、ラジオは本当に、その大好きなメロディを聴かせてくれた。驚いていると城戸が、

「懐かしい曲」

 そう言って、ボリュームを上げる。中学の時の合唱コンクールで歌った曲だと言った。未来も同じように、この曲を中学の合唱コンクールで歌った想い出がある。追憶の中、というにはまだ幼すぎる未来だったが、その頃の一生懸命な自分と懐かしい風景を思い出して、少し瞳が潤んだ。今、もしひとつだけ、願いが叶うなら……。

「ねえ、唯、って呼んでいい?」

「いいよ」

「学校でも?」

「それはダメ」

 懐かしいメロディをBGMに、二人の他愛のない会話は続いた。いとも簡単に叶ってしまった願いは、些細なことだが何より嬉しく、未来はその名を呼ぶたびに、心が満たされていくのを感じていた。


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