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二つの出会い

進学校を舞台にした、切ないラブストーリーです。ボーイズラブの要素をほんの少し含みますが、どなたにも読んで頂ける内容だと思いますので、ぜひ読んでみてください!

 何処からか、甘い花の香りが流れてきた。立ち止まって辺りを見回しても、それらしき花は見つからず、再び傘の柄を握り直す。季節が過ぎると忘れてしまうが、この香りに毎年、懐かしさのような、胸騒ぎのような、不思議な感情が生まれるのは何故だろう。そんなことを思いながら、水たまりに映った灰色の空を飛び越えた。まだ梅雨には早いのにハッキリしない天気が続き、湿気を含んだ生温い風が、半袖になったばかりの腕にまとわりつく。時折足元から渦巻いては、細かい雨を霧吹きのように浴びせた。大した雨でもないのに大袈裟なほど濡れて、こんなことなら自転車で来れば良かったと後悔した。坂の多い地形で、雨の日に限らず自転車を敬遠してしまうけれど、やはり歩くよりは楽だ。無意味な傘を畳んだ未来みきは、見えているのに遠い高台の高校まで走った。

 半開きの門を抜け、ようやく下駄箱に辿り着くと、未来は犬のように体についた水滴を振るった。上履きに替え、いくらか後ろめたさを覚えながら、足音をたてないように薄暗い廊下を走る。別に悪いことをしているわけではなくても、放課後の学校はなぜか、来訪者を拒むような空気に包まれているからだ。しかも、普段ならまだ部活などで残っている生徒も多いが、明日から試験週間が始まるため、人の気配は全くない。二年生になって少し遠くなった教室に着いた未来は、廊下に設置されたロッカーから物理の教科書を取り出した。第一日目は、物理、現代文、世界史。他の教科は全く手つかずで、唯一点数の取れそうな物理だけを頑張ろうと思ったのに、その教科書を置き忘れてしまったのだ。未来は普段から教科書は全てこのロッカーに置いてあって、自宅で勉強する時だけ持ち帰る。どこから広まったのか、それをあてにして、顔も知らない他のクラスの生徒がしょっちゅう未来を尋ねてきては、忘れた教科書を借りていった。

 せっかく来たのだから、他に忘れ物がないか教室の机を確認しようと中に入ると、そこに英語教師の城戸きどの姿があった。一瞬、開ける扉を間違えたかと不安になる。

「……忘れ物?」

 授業の時以外、関わりを持ったことはない。去年の春、未来たちが入学するのと同時に新任教師として赴任してきた彼は、その整った容姿で飛び抜けて人気が高い。物腰も穏やかで、女子生徒の間では下の名前でゆい様と、とても教師のあだ名とは思えない呼び名で呼ばれていた。男子である未来には全くどうでも良いことだったが、今のクラスは彼の授業がなく、嘆いている女子は多い。それにしても、こんな時間にこの教室で、何をしていたのかが気になる。担任でもなければ、授業を受け持ってもいないクラスだ。未来が訝し気に見ていると、窓辺に佇んでいた城戸は、開けていたカーテンを閉めた。

「すごく濡れてるけど、風邪ひかないようにね」

 それだけ言って、彼は教室を出て行った。フワリ、と花のような香りがして、一瞬でも安らいだ自分に嫌悪感を覚える。何をしていたのか解らなくなり、しばらく立ち尽くしていたが、その香りが消えるとともに記憶を取り戻し、教科書を脇に抱えて来た道を戻った。


 未来の通う高校は、この辺りでは有名な進学校で、運の良いことに自宅から歩いて行ける場所にある。忘れ物をしてもすぐ取りに帰れるのは近所に住む者の特権なのだが、無い物ねだりで、他の友人たちが電車の定期券をケースに入れて持ち歩くのが羨ましい。電車通学をしたことのない未来には当然、満員電車に押し込められる苦痛が解るはずもなく、二両目と三両目の間に乗ると決めて待ち合わせる暗黙の了解や、同じ車両に他校の可愛い女子が乗っていた話を聞くと、無性に悔しくなるのだった。

 部屋に戻った未来は、置いていった携帯にメールが届いていることに気付いた。菜々子からだ。一緒に勉強をしようと言われていたのを思い出し、濡れた頭を拭きながら、内容を確認せずに電話をかける。

「ねえ、数学、教えてよ。今から行ってもいい?」

 いきなり用件から始まった。数学の試験はまだ先なのに、と思いながらも、

「いいけど。今更やったって無駄じゃない?」

「何よそれ。バカにしないでよね。じゃあ、すぐ行くから」

 切れた携帯を机に置き、溜め息をついた。菜々子とは小学校から同じで、中学の時に吹奏楽部で一緒になり、仲良くなった。勝ち気で何事も妥協しない、自分にも他人にも厳しい性格の彼女と、どちらかというと諦めが早く、いつも肝心なところで退いてしまう未来とは、共通点がないようにも思える。ところが偶然入った高校が同じで、また吹奏楽部に入った二人は、好きだとか付き合おうとか、どちらも言わないまま、そういう関係になっていた。未来はそのきっかけが何だったのか考えたこともなかったが、今ふと気になった。

「こんにちはー!」

 菜々子の声がして、母親と話すのが聞こえる。自転車で五分とかからない場所に住んでいるのだ。母親同士も仲がよく、いつもスーパーで会っては、我が子をけなし合っているようだった。何事もオープンな未来の家庭では二人の関係をとうに知っていたが、菜々子の家ではどうなのか、そういえば聞いたことがない。

 進学校と言えど、普段の試験は教科書程度の問題が出るだけだ。授業を真面目に聞いてさえいれば、際になって慌てなくてもそこそこの点数は取れるはずなのに、未来にはそれすら難しかった。注意を受けるほど不真面目ではないが、授業に集中しているようでそうでなく、試験の前日はしょっちゅう徹夜している。

「未来はいいよね、数学できるから」

「……菜々子はそれ以外、全部できるからいいだろ?」

 言いながら、未来は自分が情けなくなった。本当に、数学しかできないから。数学だけでは将来仕事にできるものが少ないから他も頑張りなさい、と一年の時から担任に言われ続けているが、できないものは仕方がない。中学までは他の教科も全て満点に近かったはずなのに、やはり進学校ともなると教科書からしてレベルが高く、片手間の勉強量ではついていくのがやっとだった。

「未来は、将来何になるの?」

 菜々子の計算の遅さに、苛立ちながら見ていた未来は、今考えていたことと被るその質問に驚く。

「数学者になれたらすごいよね。大学に残って、博士課程、だっけ?」

 まだ、現実味を帯びない会話だった。未来自身、将来自分がどんな仕事に就くのか、見当もつかない。大学すら、決めていないのだ。

「そこ、違うよ。計算してるときは、よそ事考えるなって言ってるだろ」

「何そんなに怒ってんの? 自分が試験勉強やってないからって、私に当たらないでよ」

 言われて、未来はハッとした。いつになく些細なことに苛立つ理由に、心当たりがない。謝ろうとするより早く、

「まあ、集中してない私も悪いけど、」

 菜々子はそう言って、再びノートに向かう。

「……ごめん」

 未来も、黙って物理の教科書を開いた。


 翌日、午前中の試験が終わる頃、未来は寒気がして、風邪をひいてしまったことを認めざるを得なくなった。朝起きたときから喉が腫れているような気がしていたが、病は気から、と自分に言い聞かせたのに。昨日、教科書を取りに行って濡れたのが良くなかったのかも知れない。未来は大きく溜め息をついた。試験週間は始まったばかりで、あと四日もある。

「未来、元気ないじゃん。どうしたんだよ?」

「風邪ひいたみたいでさ、喉痛いし、」

「保健室行って、風邪薬もらったほうがいいんじゃない?」

 川田俊介は、高校に入ってから知り合った未来の親友だ。裏表がなく、明るくて大らかな性格が好きだ。一緒にいて楽しいし、ホッとする。話しやすくてつい忘れてしまいがちだが、俊介は未来とは比べ物にならないほど頭がいい、いわゆるエリート高校生。しかし、それを全く感じさせないところも好感が持てた。

 昼食を終えた未来は、俊介に言われた通り、保健室に向かった。去年、体育の走り高跳びで着地に失敗して足首を捻挫したときに一度お世話になったきりだが、保健室の先生が優しくて、すごく癒されたことを思い出したから。未来は、意外にも自分が癒しを求めていたことに気付き、その浅ましさの理由を探しながら保健室のドアを開けた。

「どうしたの?」

 未来が体調を説明すると、彼女は食事の手を止め、簡単に未来を診察した。体温計を確認し、

「熱があるじゃない。扁桃腺も腫れてるし、無理しないで帰ったほうがいいよ」

「午後からも試験があるから、」

「あとで追試が受けられるように、私から先生に言ってあげる。担任の先生、誰だっけ」

 有無を言わせず、内線で職員室に連絡を始めた。その会話を聞いていると、なんだか自分が急に病人に思えてきて、余計に体がだるくなってくる。

「食事が終わったら、教室の荷物を持って来てくれるって。それまで休んでなさい」

 未来は言われるまま、ベッドに横になった。

「お家の人に、迎えにきてもらう?」

 そう言われて、小学校の時、よく熱を出して母親に迎えにきてもらったことを思い出した。何だか恥ずかしくなり、ただ首を横に振ると、

「無理すると、高熱が出るよ?」

「……大丈夫です。家、すぐそこだから」

「それならいいけど、」

 彼女は、おやすみ、と未来の求めていた優しい笑顔でベッドの横の白いカーテンを引いた。ちょっと薬をもらいにきただけのはずが、こんなところに寝かされるなんて。未来は溜め息をつきながら布団に潜った。追試なんて、初めてだ。今日と同じ問題が出るのか、それとも追試は追試で別なのか。できれば今日と同じにしてもらいたいところだ。それなら俊介に聞いて、対策が出来る。


 誰かの話し声が遠くに聞こえ、目を覚ました未来は、そこが何処なのか把握するのに手間取った。見慣れない天井と、自宅のものとは肌触りの違う布団、それに消毒薬の匂いで徐々に記憶を取り戻してきた時、白いカーテンがゆっくりと開いた。

「具合、どう?」

 首から下げた名札で、この先生が木村幸という名前だと初めて解った。みゆきと読むのか、さちと読むのか考えていると、予想外の人物が木村の後ろから現れた。

「担任の野口先生、試験監督で抜けられないから、代わりに城戸先生が荷物持ってきてくれたよ」

「……、」

 起き上がってお礼を言おうとした未来は、喉の痛みに顔をしかめた。それに、熱のせいで体中が痛い。回復するどころか急激に酷くなっていることに不安を覚える。

「家まで送ってあげるから、心配しなくていいよ」

 未来は、城戸の腕に支えられて歩くことを不本意に思いながら、時々その腕に寄りかかってしまう自分をどうすることもできなかった。思ったより重症なようで、帰ったら病院へ連れて行かれるであろうことを想像すると、憂鬱になる。下駄箱まで辿り着き、やっとのことで靴を履き替えて城戸の白い車に乗った。個人的な会話を交わしたことのない教師との二人きりの空間に多少の緊張はあるものの、彼の香水に、今日は何だか心も体も癒されるのを感じた。熱のせいだろうか。城戸は未来の自宅の場所を確認する以外は何も喋らず、それが未来の喉の痛みを気遣ってのことだとは知らずに、未来も窓の外に目を向けて黙っていた。

 あっという間に自宅に着き、城戸は未来を助手席で待たせ、インターホンを鳴らした。間もなく母親が顔を出し、大袈裟に驚いた声を出す。

「わざわざすみません。今朝は何ともなかったんですけどね」

 母親に急かされ、未来は車を降りた。再び城戸が手を添えて、ふらついている未来を玄関の框に座らせる。

「かなり熱が高いようなので、病院へ連れて行ってあげて下さい」

 中でお茶でも、と母親が申し出るのを城戸は丁寧に断り、森下くん、お大事に、と学校へ戻っていった。


「お友達、お見舞いにきてくれたわよ」

 母親の声で目が覚め、重い瞼を開けた未来は、そこに俊介と菜々子の姿を見つけた。

「大丈夫か? 薬もらってくるって保健室に行ったきり戻ってこないし、二日も休むから、さすがに心配になってさ」

 二日も? 未来は耳を疑った。城戸に家まで送ってもらってから、すぐに母親の車で病院へ連れて行かれたところまではハッキリと覚えているが、その後、何度か薬を飲むために起こされたような気がするだけで、そんなに時間が経ったとは思えない。

「昨日電話しても出なかったから、どうしたのかと思ってたのよ? そしたら今日、川田くんが教えてくれて」

 菜々子はよっぽど心を許した相手しか、名前で呼ばない。未来を通して知り合ったにしても、もう随分慣れたはずの俊介すら、川田くん、と呼ぶのは何だかよそよそしくて、逆に失礼な気がする。

「熱も下がってきたし、もう大丈夫だと思うんだけど。試験の時に風邪ひくなんて、ダメな子の典型ね」

 母親が余計なことを言いながら二人にお茶とお菓子を出し、ごゆっくり、と部屋を出て行った。その背中を睨みながら、久々に体を起こす。

「ね、城戸先生に送ってもらったってホント?」

 菜々子が唐突に、そんなことを尋ねた。

「なんで知ってんの、」

「今、お母さんが言ってたから。それにしてもひどい声ね」

 そう言って、未来の額に手を当てようとする。未来はそれを無意識に避けた。

「城戸が教室に入ってきたときの女子の喜びかたは凄かったよ。唯様だ、って小声で言ってたけど、あれ聞こえてるよ、絶対」

 俊介の言い方が可笑しくて、思わず吹き出した。その時の女子たちの様子が目に浮かぶ。

「あいつさ、いつもあんな感じなのかな。なんかちょっと、他の先生と違わない?」

 未来もそれは感じていた。香水の匂いがするとか、そういう表面的なことではなくて、何か不思議な空気を持っている。

「女とフツーにSexとかするのかな。何か想像つかねーよな」

「ちょっと、そういう下ネタ、やめてよね!」

 菜々子が怒って先に帰っていった。俊介はそれを横目で見送りながら、

「おまえ、あいつと付き合ってんの?」

「……なんとなく、」

「なんとなくでヤッちゃったパターン?」

「うん、」

 躊躇いながらの未来の返事に、やっぱりな、と俊介は笑った。言ってしまって、未来は胸の奥がスッキリするのを感じた。今まで親友にも菜々子とのことを黙っていたのは、何処か後ろめたさがあったからだと、ようやく理解していた。


 土日を返上して休んだ分の試験の追試を終え、未来は久々に音楽室にいた。この、古い楽器や譜面、ピアノ、床のワックス、様々な存在の入り交じった匂いが好きだ。学校が変わっても、音楽室の独特の匂いは変わらない。ここ数日、気温も湿度も高かったせいか、閉め切っていた準備室の空気は温室のように澱んでいて、窓を開けると止まっていた時間が風とともに何処かへ流れて行く。もう何日も見たことのないような青空が、心の中まで爽やかにしてくれる気がした。

 未来は自分の黒い楽器ケースを棚からおろし、留め具を外した。この高校に合格したら、という約束で買ってもらったシルバーのトランペット。今、一番大切なものは、と聞かれたら、間違いなくこの楽器と答える。まだ一年ちょっとの付き合いだが、もうなくてはならない存在だ。臙脂色のビロードが貼られたそのケースからトランペットを取り出し、ピストンの動きを確認した未来は、いつものようにB♭の音を出してみた。触れると、安心する。感情の起伏をあまり表面に出さないタイプだが、それでも悲しい時や悩んでいる時もあるわけで、そんな時も、いつも変わらず側にいてくれる。未来にとってこの楽器は、まさしく理想のコイビトだった。

「早いね、追試どうだったの?」

 いつの間にか菜々子の姿があった。

「いつもよりは良かったような気がするけど」

「良かったじゃん。風邪はどう?」

「もう治ったよ」

 まだ少し咳が出るが、軽い練習くらいはできるはずだ。何より、未来はこの楽器に早く会いたくてここに来た。

「その子と、私と、どっちが好きなの?」

 突然聞かれて、答えに困った。それを察知したのか、菜々子は少なからずショックを受けたような顔で、

「未来に、好きって言われたことないよ。もしかしたら、私のこと好きじゃないのかもって思ってたけど、ホントにそうみたいだね」

 否定しようと思えばできたのに、未来は黙っていた。菜々子だって、未来に好きだと言ったことはないはずだが、それは敢えて口にはしなかった。菜々子もそれ以上は何も言わず、自分の楽器であるクラリネットを組み立て始める。やがて他の部員たちが続々とやってきて、二人のわだかまりは残ったまま練習が始まった。


「そういえば未来、城戸先生にちゃんとお礼を言ったんでしょうね」

 帰宅して食卓につくなり、母親が言った。

「……あれから会ってないし、」

「職員室に行けばいいじゃないの。明日、必ず行くのよ」

「解ったよ」

 未来が仕方なく返事をすると、一つ上の姉の瑠未るみが口を挟む。

「城戸先生って、すっごいイケメンなんでしょ? お母さん、こないだからそればっかり」

 瑠未は未来とは別の、私立の進学校に通っている。瑠未はあまり苦にしていないが、中高一貫で、厳しいという噂だ。

「だってホントに素敵だったのよ。今まであんな綺麗な男の人、見たことないくらい。スラッとしてて、声も優しくて。未来が熱出して良かったわ」

「……サイテーだな」

 こういうことに歳は関係ないのか、と半ば呆れながら食事を終え、未来は自分のベッドに仰向けになった。しばらく天井を見ていたが、思い切って携帯を手に取り、菜々子に電話をかける。今から会う約束をして、未来は家を出た。

 歩いて近くの公園に着くと、やがて菜々子も歩いてやって来た。側まで来た菜々子を抱き寄せ、キスをする。

「……ちょっと、近所の人に見られたらどうするのよ」

 その菜々子の反応に、言おうと思っていた台詞は何処かへ行ってしまった。代わりに、

「別れようか、もう」

「え?」

「そのほうがいいよ、多分」

 意外にも泣きそうな顔で黙っている菜々子に、改めて愛情を感じない自分を確認してしまった。

「ごめん、急に。じゃあ、また明日」

 未来はそう言うと、菜々子に背を向けて歩き出した。決して嫌いなわけではない。しかし、未来の求めているものとは何かが違った。最初から、それは解っていた。それなのに、ある日キスして、そのまま最後までいってしまったことを、未来はずっと後悔してきたのかも知れない。

「あーあ……」

 再びベッドに仰向けになった未来は、思わずそう声を上げていた。


 全く気が進まなかったが、翌日の放課後、未来は職員室の扉の前に立っていた。日頃から、解らなかった問題の質問をしに自ら職員室へ行くクラスメイトを物好きな連中だと思っていただけに、余計に入りづらい。もうすぐ部活が始まるし、いつまでもこうしていても仕方ない、と意を決してノックしようとした時、中から扉が開いた。

「あ、」

 出てきたのは、城戸だった。ぶつかりそうになり、慌てて避ける。城戸は未来の顔を見るなり、

「もう風邪は治った?」

「……はい、あの、送って頂いてありがとうございました」

「空き時間だったし、気にしなくていいよ。……誰かに用事?」

 そう聞かれて、あなたに会いに来たとも言えず、

「いえ、大丈夫です。失礼します」

 未来は逃げるようにその場から立ち去った。柔らかい花の香りが追いかけてくるように香るのを気にしながら、その足で部活に行き、急いでトランペットを手に取る。未来はしばらく楽器を胸に抱いていたが、ようやく落ち着き、軽く深呼吸して半音階を逆に吹いてみた。が、間違えるはずのない音階で運指を間違えてしまい、思わず溜め息をつく。

 ……どうも、城戸は苦手だ。理由は解らないが、未来は最近、そう感じていた。



 六月も末になり、雨が続いている。毎年のことだが、明らかに梅雨入りしたと誰もが解るようになってから、気象庁はようやく梅雨入り宣言をした。暑かったと思ったら急に気温が下がったり、雨が降っていても蒸し暑かったりするこの時期、何を着ればいいのか困ってしまう。未来の通う高校は制服がなく、皆自由な服装で登校するのだが、生徒側からこんなに寛大でいいのか、と心配の声が上がるほど、校則らしい校則がなかった。地域で一、二を争う進学校ともなれば、それなりに分別のある生徒が集まり、滅多なことはしないだろうという学校側の期待は解るし、最初は私服で登校できる自由が嬉しかったのも事実だけれど、今の時期のように、制服なら選ぶ手間もいらず楽だっただろうに、と思うこともよくある。

 昼休み、食事を終えるのを見計らって、俊介が未来を廊下に連れ出した。

「ちょっと、話があるんだ」

「何だよ? 教室じゃできない話?」

「そういうこと」

 廊下ならひっきりなしに生徒は通っても、その分、騒がしさで会話を聞かれる心配がない。俊介は自分のロッカーから何か取り出し、未来に渡した。手紙のようだ。

「何、これ」

「部活の後輩から頼まれてさ。おまえに渡してくれ、って」

「……」

「大丈夫、可愛い子だよ」

 そういうことを言っているんじゃない、と思いながら、森下先輩へ、と書かれたその手紙の封を切った。本当に自分宛かと疑うようなその内容は、彼女がいないなら付き合って下さい、というもので、手紙の最後には、中野 沙耶さやという名前と携帯番号、アドレスが書いてある。見知らぬ人からこんな手紙をもらうのは初めてだった未来は、嬉しさより戸惑いのほうが大きいことを意外に思いながら、

「なんで俺のこと知ってるんだろう」

「さあ、そこまでは聞かなかったけど。何なら、今から教室まで見に行く? それか、部活見に来る?」

「やだよ。気があるみたいじゃん」

 確かに、と俊介は笑う。彼は弓道部で、練習は男女混合。俊介の彼女も弓道部の同級生だ。俊介は未来が菜々子と別れたことを知っているから、この手の手紙を渡しても支障はないと思ったのだろう。唯一打ち明けていなかった菜々子とのことを話してから、未来は俊介に、文字通り何でも話すようになっていた。隠し事のない身軽さが、何だか嬉しい。

「そういえば、俊介は彼女とうまくいってんの?」

 俊介は、彼女のいない未来に気を遣ってか、自分の彼女のことを殆ど話さない。

「まあ、フツーにね。なんで?」

「……彼女のこと、好き?」

 当たり前のことを聞くな、というような表情で頷く。

「そうだよな。好きでもないのに付き合わないよな」

 言いながら、何だか羨ましくなってきて、未来は溜め息をついた。

「どうしたんだよ、珍しく反省?」

「そういうわけじゃないけどさ……」

 未来は自分の気持ちを上手く表現できず、また溜め息をついてしまった。菜々子とはあれっきり、部活で会ってもお互い話しかけることはなく、ギクシャクしているのを周りに悟られるのではないかと心配になる。何も、別れることはなかったのかも知れない。お互いの気持ちや関係を、一度確認すればよかっただけなのかも知れない。後悔ばかりが浮かんで、いつも心の中で渦巻いていた。

「俺、あいつのこと、好きだったのかな……」

 口にしてみたものの何も解決せず、後輩のこと考えてやってくれよ、と言う俊介の言葉に曖昧に頷き、ちょうど鳴ったチャイムとともに教室に戻った。


 降り続く雨の音が閉め切った窓越しにも聞こえる。湿度は何処も飽和状態で、それは教室の中まで侵入してきていた。床も机もベタベタして、それだけで憂鬱になる。一年生の時は教室が一階で広い中庭に面していたため、授業中、色とりどりの紫陽花を眺めて気を紛らしたものだが、二階の教室に変わり、見えるのはベランダの壁ばかり。遠くに見える空も灰色で、余計に気持ちが滅入る。

 放課後、同じトランペットで未来を弟のように可愛がってくれている三年生の南 和人と二人で、パート練習をすることになった。南はパートリーダーと部長を兼ねている。人間の大きさと言うか、包容力に溢れていて、まさに適任だと誰もが認める人材だ。未来も絶対の信頼をよせている。

 パート練習では、他の楽器の音ができるだけ混じらないように、楽器ごとに固まって練習をする。当然音楽室だけではスペースが足りず、廊下やベランダに椅子を移動させるのだが、トランペットの音は飛び抜けて大きく、こういった練習の時は邪魔者扱いだ。

「一番端まで行くか」

 南がそう言ったので、未来は二人分のパイプ椅子を腕にかけ、廊下の端まで移動させた。他のメンバーがいないこの機会に、菜々子とのことを相談しようかと悩んでいた未来はふと、南が指輪をしていることに気付いた。

「先輩、指輪、前からしてましたっけ」

「いや、……目敏いな」

 聞くと、先週の彼女の誕生日にペアで買ったらしい。南の彼女は、塾で知り合った他校の三年生、というところまでしか知らなかったが、あまりペラペラと自分のことを喋らないところも好感が持てる。

「先輩、彼女のこと、好きですか?」

 未来の問いに少しの間もなく、好きだよ、と答える。

「おまえは? 菜々子と付き合ってんだろ?」

「……、」

 未来は思わず言葉に詰まった。誰にも菜々子とのことは言っていなかったし、だから当然別れたことも、言っていない。驚いている未来に南は、見てりゃ解るよ、と呆れたように笑った。

「別れました、最近」

「……そっか。やっぱりな。おまえも菜々子も、最近元気ないから」

 南はそれ以上は聞かず、元気出せよ、すぐ次が見つかるよ、と未来の背中を叩いた。自分はどうしたかったのだろう。菜々子と、別れたくなかった? それとも、別れて友達に戻りたかった? 問いかけても、答えられる自分は何処にもいなかった。


 週末は十日ぶりの晴天で、湿度は高いものの、未来は傘を持たなくていい身軽さを噛みしめていた。俊介たち弓道部の試合を見るため、久々に車庫から出したマウンテンバイクで、五キロほど離れた体育館に向かっている。全身で風を切って走るのは、いつも最高に気持ちがいい。ブレーキをかけたくなくて、信号が切り替わる頃合いを見計らって、スピードを加減した。

 会場に着くと、さすがに知らない顔ばかりで、人見知りをする未来は急に不安になり、誰かを誘えば良かったと後悔しはじめる。小さい頃からあまり大勢で行動するのが得意ではなく、どちらかというと一人か、気の知れた友人の二、三人でいることが多い。特に休みの日は、そうだった。……いつもなら、菜々子を誘っていた。間違いなく。

 試合は時間ピッタリに始まり、余計な私語は一切ない。水を打ったように静まり返る中、弓道衣に身を包んだ生徒たちが並んで一斉に矢を射る。それは吹奏楽コンクールの演奏が始まる前の会場の静寂と、指揮者の最初の一振りで、皆が一斉に息をする瞬間に似ていた。空間を切り裂くような矢の音が、聞いていて心地良い。その音を実際の音階に当てはめて聞いている自分に苦笑しながら、未来は俊介の出番を待った。普段は大雑把な性格に思える俊介も、この時だけは違う。一点に集中して弓を引く表情や構えは、羨ましくなるほど綺麗だった。ふと、自分にそんな瞬間があるのだろうか、と考えてみる。全てを忘れて一つのことに集中する瞬間に、身にまとう美しさ。そんなものに、憧れてしまう。

「未来」

 物思いに耽っているあいだに試合が終わり、着替えを済ませた俊介が、わざと後ろから忍び寄って声をかけた。驚いて振り返ると、俊介の他に三人、お揃いのジャージを着た女子の姿がある。一人は俊介の彼女だと解ったが……。

「ほら、この前、渡したろ? この子だよ」

 そう言われて、例の手紙のことを思い出した。

「沙耶、チャンスだよ」

 小柄でサイズがなかったのか、借り物のようなジャージ姿だ。どうやら沙耶は未来と同じく人見知りか、それほど積極的ではないようで、連れに引っ張られるようにして未来の前に立った。それでも俯いて恥ずかしそうにしている沙耶に、俊介が声をかける。

「大丈夫だよ。未来は優しいから。好きなんだろ?」

 未来は当事者ながら、この沙耶という子に同情した。寄ってたかって告白のようなことをさせられるなんて、未来なら絶対にイヤだ。

「俊介、」

 咎めるように言うと、俊介も、解ってる、というように頷き、

「ごめんごめん。じゃあ、俺たち先に行くから」

 と、彼女ともう一人の連れに手招きして、未来に背を向けた。本当に帰るの、と言いかけて、慌ててその台詞を飲み込む。残された未来は、明らかに予定外の事態に戸惑っていた。今までは、会話にしても遊びにしても、いつも相手にリードしてもらっていた。自分から発信することなど、数えるほどもしたことがない。しかし今、目の前にいるのは、年下の大人しい女子だ。必然的に未来にリード権が発生することに気付いたものの、この初対面の後輩をどう扱ったらいいのか見出せず、散々悩んだ挙げ句、

「……俺も、人見知りでさ、……解るよ、」

 すると沙耶は恐る恐る顔を上げ、困り果てた顔をした未来を見て、初めて笑った。可愛い、と純粋に思ってしまう。幼い顔立ちで、それを際立たせるかのように耳の下で切りそろえた髪が、相槌を打つたびにフワフワと揺れた。

 聞くと、驚いたことに、同じ中学の出身だった。慣れてくると会話のテンポが合っているのか、話しやすいと感じる。

「中学のときから、森下先輩のこと、好きでした」

「話したこともないのに、」

 未来が笑うと、沙耶は真剣な顔で、

「話したことなくても、先輩が優しい人だって、解ります! 台風の日、学校の前に捨てられてた犬を助けてあげてるの、見てからずっと……」

 沙耶は言いながら泣き出してしまった。あの時の子犬は成長し、今も自宅の庭で元気にしている。

「……そうだ、今から、ヒマ?」

 未来はなんとか泣き止ませようと、そう切り出した。こういう状況に慣れていなくて、未来のほうが泣きたい気分だ。

「家においでよ。あの犬、いるから」

 そういうわけで、未来は弓道衣の入った大きな鞄と沙耶を連れて、自宅に戻った。荷物を母親の車のボンネットに置き、車庫から庭に入ると、犬が飛んで来て短い尻尾を振る。鎖でつないで自由を奪うのは可哀想だと家族の意見が一致し、庭を自由に走り回れるようにしてあるのだが、当の本人は走り回るより寝ることのほうが好きらしく、いつも同じ場所で転がっていた。

「ただいま」

 犬に向かって声をかけたはずが、リビングの窓が開いていて、姉の瑠未がおかえり、と答えた。受験生の瑠未は、自分の部屋で勉強すればいいのに、しょっちゅう食卓でやっている。

「ミミだよ。耳が大きいから」

 聞かれる前に、名前を教えた。ミミの種類は解らないが、体全体がキツネ色で足が短く、お腹と足が白い。体の大きさと釣り合わない耳のサイズや、まるで靴下を履いているようなところがいつ見ても可笑しかった。沙耶は犬好きのようで、ミミを胸に抱いて撫でている。

「あら、お客さん?」

 リビングから母親が顔を出した。

「高校の後輩。中学も一緒だったんだって」

「中野沙耶です。はじめまして」

「こんにちは。可愛らしい子ね」

 来るもの拒まず、の家風で、うちの家族はミミも含め、誰にでも愛想がいい。言ってくれたらケーキでも買っておいたのにね、と中から瑠未の声が聞こえた。

「自分が食べたいだけだろ」

 未来のつぶやきに、沙耶が笑った。菜々子やその他の部活仲間以外の女子と、あまり親しく話したことのなかった未来には、この幼い後輩の可愛らしさが新鮮だった。

 しばらくして、塾へ行く時間だから、と沙耶は母親の淹れた紅茶のお礼を言って帰って行った。その後、母親と瑠未の攻撃が始まる。

「可愛い子見つけちゃって」

「菜々ちゃん最近来ないけど、そういうことだったの」

「違うよ、今日初めて会ったんだよ」

「その割にはデレデレしちゃってさ」

「塾へ行くなんて、一年生なのに偉いわ。未来も見習いなさい」

 未来は朝からゴルフに出掛けたまま帰ってこない父親を恨んだ。この女たちの相手は、未来一人では手に負えない。

「塾は行かない。何回も言わせるなよ」

 そう言い放って、未来は自分の部屋に逃げた。未来は同級生の殆どが塾へ通う中、自分だけは絶対に行かないと決めていた。学校の授業もろくに聞いていないのに、塾へ行ったところで何の足しにもならないことくらい、自分が一番良く解っているからだ。それに、学校の勉強だけでは受験戦争に勝ち残れない、というふうな考えが気に入らない。中には塾を最優先にして、学校はただ内申書のためだけに通うような生徒もいるが、学校を無駄だといわんばかりの態度も嫌いだった。未来は、せっかく入ったこの高校生活を、楽しみたい。進学校に入った時点で、大学に行くことは前提だったとしても、もともと価値観が違うのだ。志望校と偏差値がいつしか同義語のように扱われ、偏差値が上がれば志望校も変わっていくことに、疑問すら抱いた。部活もせずに塾に通い、偏差値で決められた志望校に合格することに、未来は何の魅力も感じなかった。


 それにしても、知らない人と話すと、疲れる。未来は大きく息を吐きながら、ベッドに寝転がった。いくら話しやすくても、やっぱり勝手が違うのか、ひどく体力を消耗した気がする。このまま眠ってしまおうか、と思った瞬間、携帯が鳴った。

「なんだ、俊介か」

「なんだよ、誰だったら良かったんだよ?」

 からかうような口調にホッとして、

「今から何処か行かない? 家から出たいんだけど」

 その誘いに乗ってくれた俊介と、駅前のファストフード店で落ち合った。適当に注文して、窓際の席に座る。

「で、どうだった? 中野と少しは話したんだろ?」

 やっぱり、その話題か。未来は軽く溜め息をついた。

「話したよ。中学の後輩だった」

「……それで?」

「それで、って、それだけ」

 俊介は、なんだ、つまらないな、と椅子に凭れ掛かる。

「一回話しただけで、何かあるわけないだろ」

「……菜々子とはあったくせに」

「だから、あいつとはずっと前からの付き合いなの、」

 そう言ってから、未来はふと、少し気が晴れていることに気付いた。菜々子と別れてから、ずっと胸の中に分厚い雲がかかっていたから。

「でも、何か、いい感じだったのかも」

「そうだろ? 付き合えよ。あいつ、胸デカいしさ」

「マジで?」

 そんなふうには見えなかったな、と言いながら、顔しか見ていなかったことを後悔してみる。

「でも、まだ別れたばっかだし」

「いいじゃん、そんなの。気にしてたらやってらんないよ」

 俊介がどうしてここまで沙耶を勧めるのかは解らなかったが、未来はもう一度会ってみたい気がしていた。沙耶は、今どきの女子高生という派手で騒がしい感じはまるでなく、大人しくて控えめだった。あまり身長が高くない未来にとって、沙耶が小柄であることも好感が持てる。菜々子も派手ではないが、性格のきつさが目立って、損をしているように思えた。自分が先頭に立って、有無を言わさず周りを引っ張っていくタイプで、未来が何も言わなければ、菜々子の独断でどんどん話が進んで行く。楽だけど、そのスピードに時々、疲れる。そう感じるようになった頃から、未来は菜々子との関係に疑問を抱くようになったのかも知れなかった。

 色々考えるところはあるものの、俊介と話していると、悩んでいるのがバカバカしくなってくる。未来は大きく伸びをしながら、

「今日、俊介に会えて良かったよ。ありがと」

「なんだよ、急に。俺より中野を褒めろって」

「今度、もう一回会ってみるよ」

「よし!」

 俊介は自分のことのように喜び、早く連絡してやれよ、と未来の肩を叩いた。


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