キス オア ペナルティ
「私」の性別は、男です。
私はそれまで白無垢というものを見たことが無かった。ウエディングドレスならば、幾度かはある。親戚の結婚式、大学の友人の結婚式、弟の結婚式、まぁ、色々だ。困ったことに私自身の結婚式は、まだお目にかかれていない。世間で言う、孤独死、なんてのも、うっかり冗談では済まされない年になってきているのにも関わらず、である。ちょっと目を逸らしている隙に、直ぐ次の年、というのだから、年月というのは油断ならないものである。青春が永遠なら、いいのにねぇ。
ところで、これを読まれている読者諸氏は、白無垢のことをご存知だろうか?
白無垢は女性用の婚礼衣装である。真っ白い振袖であり、頭には角隠しと呼ばれる、これまた真っ白な被り物を付ける。もちろん、帯も、足袋も、履物も、全て白である。イメージの沸きにくい方は、頭のてっぺんから爪先まで、徹底的に白一色で統一された、和服だと思っていただければ結構だろう。ただ、現在でこそ、白無垢は白一色で構成されてはいるものの、昔はそうでもなかったようである。白無垢の起源は遠く、室町時代まで遡るのだそうだ。以前は祝いの色としての紅色が、振袖の下地など、普通あまり目に付かない部分に、所々散りばめていたということだ。では、白無垢の意味は、というと、純潔と、可変性である。白という色の印象に由来するらしいのだが、穢れを知らぬということ、そして、これから嫁ぐ家の色に染まる、ということを象徴する。こうした意味合いは、失礼だとは承知なのだが、昨今では、どうもこうも、皮肉なのかと思われてしまって、ついつい笑ってしまう。しかし、一方で、角隠しの方は別なようである。角隠しには時代を貫く普遍性が存在するように見受けられる。その由来は、角は怒りの象徴であり、その角を隠すことで、慎ましく従順な妻になるという無言の宣言にある。また、大昔は、嫉妬に狂った女は鬼になると考えられていた。角隠しには、この鬼への変身を防ぐまじないの意味もあるらしい。怒った女に、鬼を発見するのも、日本の伝統なのかもしれない。
話を、白無垢に戻そう。
私が白無垢を見たのは四月の終わり頃のことである。丁度ゴールデンウィークが始まるくらいの時期だ。
その日、私は、上野の近代西洋美術館に行き、印象派の絵画展を見て回った。私は散歩が好きである。春で、気持ちのいい晴れの休日である。せっかく上野まで来たのだから、周辺を散策して行こう。そして、散策の後には、コロナビールでも飲んで帰ろう。何と言っても、昼間のビールは最高なのである。殊に、散歩で疲れた体には良く沁みる。そう思って、行き先も決めず、人が流れる方向に足を向けた。
いつの間にか、秋葉原に着いた。秋葉原は、しかし、私には退屈だった。コロナを飲めるような店が見当たらないのである。ゲームと、アニメと、パソコン機器。どうでもいいと思えるものばかりである。おかしな話である。これだけ栄え、人が溢れているのに、酒を飲んで休める店が一軒も無いというのは。普通、あれくらい巨大な街ともなれば、昼間だって、裏通りの地下に、バーの一軒や二軒、ひっそり営業していてもおかしくはないはずである。人が集中すれば、それだけ需要は多様化するし、その需要に応えるように、街は多様に発展していく。そういうものだ。酒飲みは、秋葉原には来るな。そう言われたような気がして、私は少し寂しい気がした。
かと言って、酒は諦められない。それまでずっと歩き回っていた私は、その時には、もう大分疲れていた。乾いてもいた。それで、どこか、落ち着いて休める公園か何かを探して、またも歩き回った。
神社があった。神田明神という神社だった。神田明神は、多少ごてごてとしてはいるものの、朱色を基調に金の装飾を施した、雅な神社だった。平将門を祀ってあるとかで、他にも、もしかしたら祀る神仏はあったのかもしれないが、生憎忘れてしまった。だが、まぁ、ともかくようやくの休憩時間である。私は境内に入り、どこか座って休めるような場所を探し、見つけ、休んだ。
二十分ほど休み、帰ろうとしたときだ。私は、生まれて初めて、白無垢を見たのである。
彼女は本当に何もかも真っ白だった。嘘みたいな話だが、本当だ。顔も、身に付ける衣も、角隠しも、とにかく、全部真っ白だった。唇だけは、妙に赤かった。彼女は朱色の社を背に、陽光を浴びて立っていた。その姿は白い砂利が敷き詰められた境内の中で、太陽の光を反射し、一層強く輝いて見えた。眩しいほどだった。
綺麗だ、と私は思った。何度か見たことのあるウエディングドレスも、それはそれで見事で華やいだものではあった。しかし、この時見た白無垢は、ウエディングドレスとは、また違った印象を私に植えつけた。可愛いのである。白を基調としているから、どちらも美しいと思えるのだが、華やかな洋式のドレスに比べ、白無垢は、どこかいじらしく、可愛いらしさが感じられるのである。私は、その印象の不思議さ、面白さに、思わず息を飲んだ。そして、無遠慮に花嫁を見つめていた。彼女も私の視線に気付いたのか、こちらに視線を向けてくる。しまったと、思った。私は慌てて視線を逸らした。が、思い直して、もう一度彼女の方を見た。そして、そのまま、彼女の方に歩み寄り、声を掛けた。知り合いだったのである。
「驚いたよ。まさか、本当に君だったなんて」
私と彼女、佳澄と言うのだが、私と佳澄とは、高校時代の同級生だった。私が、もしかしたら佳澄はここに来ているのではないかと思ったのは、その日に行われる結婚式の家名の中に、彼女の苗字があるのを、境内に入るときに偶然発見していたからだ。彼女の苗字は、ここでは明かさないが、全国的にかなり珍しい部類のものだった。これは、もしかしたら佳澄なのでは、いや、まさか、だが、十分にあり得る、などと思っていたのである。私の予想は、果たして当たっていた。
丁度十年ぶりに見る彼女は、私の目に少し老けて見えた。だが、ここはあの頃より、若干、大人びて見えた、とでもしておこう。
私に声を掛けられた佳澄は、驚いた様子だった。私のことが分からなかったのだろう、過去の記憶を探るように、少し間、じっと私の顔を見ていた。私も、年を食ったのだ。
「えっ、まさかっ、山崎君? うそっ、久しぶり」
山崎、というのは私の名前である。
「久しぶり。高校の卒業式以来かな?」
「うん。だと……、思うけど……。えー、でも、驚いた。こんなところで会うなんて」
彼女の顔に改めて驚きの表情が浮かぶ。懐かしい顔だ。
「ねぇ。それも、こんな日に、だよ。僕にしてもびっくりだ」
私は笑いながら言った。彼女もホントだねと言って笑った。
「でも、本当に久しぶりね。元気にしてた?」
佳澄が聞いてくる。
「それなりには。君の方は? って、まぁ、聞くまでも無さそうだけど」
私はからかい半分で言う。
「ひどい。相変わらずね、あなたは。私だって、それなりに大変な思いをしてきたのよ。特に、あ・な・た、のせいでね」
佳澄もからかい半分で言ってくる。
「そりゃ済まなかったね」
私は佳澄の言葉を軽く聞き流した。一方で、私の心は高校時代の思い出に向かっていた。
私は、佳澄の言う「大変な思い」とやらに、確かに思い当たる節があった。
私は高校時代、彼女に二度告白され、二度とも振っていた。そんな過去が私たちの間にはあった。彼女が「大変な思い」と言うのは、おそらく、そのことを指して言っているのだろう。だが、私はあの時、彼女を振ったことに後悔を感じてはいなかった。彼女のためを思えばこそ、私はそうしたのだ。本心から彼女を気遣い、彼女の未来に心配り、その結果として、彼女にノーと言った。何にも間違っちゃいない。私は正しい選択をした。それが最良の選択だったろうと、大人になった現在でも思う。私もこれまで随分と愚行を重ね、罪悪とさえ呼べるような非情な失敗だって経験してきたが、この時ばかりは褒められても良いように思う。私は彼女に対して、最後まで誠実さを貫いた。嬉しいと、素直に思う。
あまり適切な言い方にはならないが、当時、高校生だった私には、好きな人がいた。同じ部活(陸上部)の先輩だ。適切とは言い切れない理由として、私は先輩が好きだとか、先輩と付き合いたいだとかの考えが、全くなかったことが挙げられる。むしろ逆に、絶対に付き合ったりなどしたくないとさえ思っていた。不思議な話に聞こえるかもしれないが、本当のことだ。私は先輩に恋などという、浮ついた感情を持ってはいなかった。私が先輩と付き合うなど、想像してみるでさえ、恐ろしいことだ。私と先輩はそれなりに仲が良かったとは思うが、それは先輩後輩の関係でいる間だけであって、それが、恋愛関係にでも発展すれば、きっとそうはいかない。必ず関係はこじれるし、会話の中に緊張や戸惑いも混じる。また、周囲の人も巻き込んで、面倒な事件も起こるかもしれない。私はそんな事態を避けたかった。是が非でも、避けたかった。私が先輩との関係に求めたのは、恋愛という両方向的な感情の共有ではない。私自身の中で完結された、一方的な憧れや陶酔だったのである。
もっと簡単に言ってしまえば、私にとって、先輩は純粋な憧れであり、辛い日々の癒しそのものだったのだ。恋愛ごときのために台無しにしてしまうには、あまりに貴重過ぎた。
詳しくは書かないが、高校時代、私はかなり参っていた。苦しくて苦しくて仕方の無い毎日を送っていた。この甘ったれが、と言われてしまえば、まぁ、確かにその通りで、後ろ頭を掻くしかないのだが、しかし、実際に苦しく、耐え難かった。だから、私には、どうしても一滴の潤いが必要だった。逃避と呼んでくれたって構わない。その通りだと思うから。ただ、当時の私は、やはり、弱かった。何の慰めも無く、日々の生活を、努力を、黙々と続けていくだけの強さを持ち合わせてはいなかった。何か、すがり付くものが必要だった。その点は、強調しておこう。もちろん、今ではそんな青さ、未熟さは残っていない。羨ましいとさえ、思える程だ。大人の方々なら、この気持ち、分かるだろう? ねぇ。本当に、羨ましいよ、少年は。
とまぁ、そんな訳で、私は先輩の虚像を追いかけた。だが、その前に立ち塞がる者がいた。佳澄である。
私と佳澄が高校時代の同級生だということは、既に述べた通りだが、実のところ、私たちの間には、ほとんど会話は無かった。彼女から告白を受ける前後を含めてもだ。
これを読まれている方は、薄々感付いていると思われるが、私は根暗だった。冗談は好むが、生真面目で、口が重く、人見知りが激しい。ついでに、妄想癖も申告しておこう。(残念なことに、現在もそれはあまり変わらない)そんなだから、当然、クラスの中では目立たず、友人も少なかった。特に、女子とは無縁だった。佳澄も、その一人だ。要するに、私と佳澄とは、必要最小限の事務的な会話を二度、三度したことがある程度の、赤の他人だった。
一方で、佳澄もあまり目立つ存在では無かった。明るくはあったが、真面目で、地味な子だった。何故だか、私の中では、いつも眉間に皺を寄せて困っているような印象が強い。彼女は女子バスケ部に所属していて、クラスでは、同じ部活の女子とよく話をしていた。男子バスケ部の中には、仲の良い人間も何人かいたようだが、基本的には気軽に男子と話をしない子だった。私は男であるから、女の世界の内情は良く知らないが、聞くところによると、女子の世界には、ヒエラルキーがあるのだという。そのヒエラルキーを四層と仮定すると、私見では、佳澄は第三層辺りの住人ではないかと思われる。私の目から見た佳澄は、そんな女子だった。
私も、佳澄も、そんなだったから、佳澄から告白を受けたとき、私は本当に驚いた。
一度目の告白は文化祭の日だった。
私はその時、学校の図書室で、本を読んでいた。室内には、他に誰もいなかった。司書の先生でさえ、司書室に引っ込んで、私のことなど知らぬ顔でお茶を啜っていた。文化祭の日に読書なんて勿体無いと、読者の方は言うかもしれないが、私にはそれが最も好ましい暇つぶしだった。私は文化祭だからって、猿みたいにはしゃぎ回るのが嫌だった。また、日の差さぬ狭い部室で、埃と砂を吸い込みながら、漫画を読んで一日過ごすのも御免だった。朝、昼、夕方と教室で点呼を取るから、学校を抜け出して出歩くこともできなかった。(見渡すは刈入れの終わった田園ばかり)それに比べれば、図書室は静かで、快適だった。開け放たれた窓からは、涼しい風が吹き込み、田舎高校の文化祭らしい細々とした歓声が聞こえてきた。時折、体育館から、吹奏楽部の演奏や、聞いたことの無いロックバンドの曲が漏れ聞こえてくることもあった。
そんな中で読書を続けていると、図書室のドアが音を立てた。佳澄が入ってきたのだ。佳澄は私の姿を確認すると、こちらに向かって歩いてきて、目の前の椅子に静かに腰を降ろした。
「サッチャンから、山崎君がここにいるって聞いて来たの」
佳澄は顔をこちらに寄せるようにして、小声で私に言った。ちなみにサッチャンというのは、石川佐智子といい、佳澄と仲が良い友達である。と同時に、私の数少ない女友達でもある。石川と私は、同じ中学出身なのだ。
「それで?」
石川がどうたらなんて話はどうでもいいと思いながら、私は彼女に続きを促した。
「それでって……。山崎君は文化祭、回らないの?」
「興味ない」
ぶっきら棒に私が答える。読んでいた本は、礼儀のため、閉じた。
「そうなんだ……。一人なの?」左右を確認しながら言う。
「友達少ないからね」
「そんなこと……」
佳澄が言葉に詰まる。私は、ないとは言えないよな、さすがに、と思いながら佳澄の言葉を待つ。
「あ、この曲知ってる? ほら、今聞こえているやつ」
佳澄は体育館からの音楽を指して、私に聞いてくる。
「知らない」この子は一体何が言いたいんだ?
「だよね。私も知らない……。図書室ってさ、静かだよね」
「まあね。図書室だからね」
「だよね。図書室だもんね……」
そう言って佳澄は黙ってしまう。二、三秒待ってみて、彼女に言葉が残っていないことを確認してから私は言う。
「あのねぇ、さっきから、何が言いたいのか、さっぱり分からないんだが。イギリス人じゃないんだからさ、今日は良い天気ですね、そうですね、本当に良い天気ですね、そうですね、なんて会話は止してくれ」
そう言って一呼吸を置く。そして棘々しい口調にならないよう注意して、さらに私は言葉を続けた。
「で、何なの? 何か、用があって来たんだろう?」
彼女は俯き、唇を噛んで、黙っていた。私は彼女を見つめたまま、辛抱強く待っていた。
あのね、とか細い声で言ってから、顔を上げ、彼女は続けた。
「今、付き合っている人、いる?」
「いない。いるわけないだろう?」
私は笑いながら言った。だが内心では、何を言い出だすんだ、こいつ、と思っていた。
「好きです。付き合ってください」
彼女は私の目を見ながら、はっきりとそう言った。私は硬直した。
「……なんだって?」
混乱で、そう聞き返すのが精一杯だった。
「好きなんです。山崎君の事が」
彼女はもう一度、しっかりと、言い切った。
「待て待て待て。なんだって。よく分からないぞ。これは、アレか? 愛の告白ってやつか?」
私はこめかみを指で抑えながら早口に言った。
「そうだよ。あ、愛の告白だよ」
彼女は顔を赤くしながら言った。私はその顔を見た。緊張からか、瞳は涙で潤み、顔全体が赤くなっていた。その顔を観察することで、私の頭は、少し冷静さを取り戻した。そして、小さく息を吐いた後で、多少熱を込めた調子で言った。
「あのねぇ、自分が何を言ってるのか、本当に分かってる? 愛の告白だよ? 愛の告白は、ちゃんと、自信を持って、こう、好きだ、って言える相手にするんだよ。分かってる? イタリア人みたいにハローの代わりに、アイラブユーって言うのとは、訳が違うんだよ」
「分かってるよ、そんなの」
彼女は少し拗ねた様子で言った。そして、応えを迫った。私は済まないんだけど、と前置きした後で、彼女の申し入れを断った。彼女は私の断わる理由を知りたいと言った。私はこう答えた。
「理由もクソもない。俺達、ほとんど話もしたことないじゃないか。それで『付き合って欲しい』なんて言われてもなぁ、っていうのが一つ。それと、俺には一応、好きな人がいる」
それから最後に、片思いだけど、と笑って付け足した。
好きな人がいる、というのは、ほとんど嘘だ。先ほども述べたが、私は先輩との恋愛を望んではいない。つまり、好きな人云々というのは、彼女に諦めてもらうための方便であって、私の真意ではない。まぁ、実は、身の内に抱える苦しみと疲労が酷くて、恋愛に割ける暇はない、という本音があったのだが、それは言わないことにした。
私の答えを聞いて、彼女は、そうなんだ、と呟いた。がっかりした様子だった。
「俺からも一つ、質問していいか?」
私が言った。なに? と彼女は言った。
「どうして、俺なんだ?」
ろくに話もしたことないのに、という言葉を、私は省略した。言わなくても分かっているはずだと思った。彼女は少し考えてから言った。
「山崎君、サッチャンと仲いいでしょう?」
私は肯定を返した。
「でね、私、サッチャンと山崎君が、教室で仲良さそうに話してるのを、いいなぁ、楽しそうだなぁ、って思って、ずっと見てたんだけど……。いつの間にだろう、分かんないんだけど、見てるうちに、なんか、好きになっちゃった」
彼女は少し恥ずかしそうに言った。
理解できなかった。私と他の女の子が仲良さそうに話す所からスタートして、どこをどうすれば、それが彼女自身の好意に辿り着くのか、私には理解不能だった。狂ってるんじゃないかとさえ、思った。だが、口にも出さず、表情にも出さず、なるほど、と言うに留めておいた。
「ね。友達から始めていいかな?」
彼女がおずおずと聞いてきた。それは交際を断わる方が言う台詞なんじゃ、と思いながら、私は了承した。彼女はそれを聞くと少し笑って、それじゃ、と言い、駆け足で図書室を出て行った。図書室のドアが開いた瞬間、どうだった? 駄目だった、えー、という会話が聞こえてきた。その声から、会話の主は、佳澄と石川であることは間違いなかった。
私は気分を変えて、本の続きを読もうとした。だが、栞を入れずに本を閉じてしまったせいで、さっきまで読んでいたページが分からない。思わず、口から溜息が漏れた。
その日の下校時、私は帰りのバスで石川と会った。
中学が同じこともあり、私と石川の帰る方向は同じだった。石川は、わざわざバス停で私を待っていたようだ。不機嫌そうな顔だった。そして、バスに乗り込むなり、ちょっと来てと言って、周囲に誰もいない席まで私を引っ張っていった。石川が前、私が後ろとなり、それぞれ別の席に座った。
「どうしてスミ(佳澄のこと)を振ったの?」
後ろを振り返り、石川が私に聞いてきた。彼女の口調には、しらばっくれることを許さない強さがあった。私は昼間、佳澄に言ったことを、そっくりそのまま石川に伝えた。それ以外にも、今回は最後に、次の一言を付け加えた。
「他に好きな人がいる状態で別の誰かと付き合うのは、不誠実なことだと、俺は思う」
しかし、石川は納得しなかった。
「スミは本当にいい子なんだよ? 山ちゃんには、もったいないくらい。なのに振っちゃうなんて……」彼女は言った。
「そりゃ、そうかも知らんが、しかし……」
私は反論しようとしたが、石川は私の話を遮って言った。
「スミはね、家族の人達に冷たくされてるの。スミのお姉さんが、すごい頭の良い人で、今はK大学に行っていてね、でも、私たちの学校って、到底そんなとこ行けるようなレベルの高校じゃないでしょ? スミは、だから、いっつもできの良いお姉さんと比べられちゃって、辛い目に遭ってるんだよ。お父さんにも、お母さんにも残念だって言われて、お姉さんには馬鹿にされて……。家にいるの、辛いんだって。スミがそう言ってた。なのに、いつも、あんなに明るく振舞って……。あぁ、もう! なんで、あんなに良い子のこと、振っちゃうかな!」
そう言いながら、石川は椅子を叩いた。
「そっか。大変なんだな、あの子も」
私は同情の言葉を言った。もちろん、それらしく聞こえるように言ったつもりだ。だが、私は、内心では、間逆のことを考えていた。それがどうした? そのくらいの苦悩なら、どこにだって転がっていると、そう思っていた。
「そう。大変なんだよ。なのに、なーんで振っちゃうかな、この男は。もう」
石川はがっくり肩を落としながら言った。
「まったくだ。ひどい男だねぇ」
私はおどけて言った。
「お前が言うな!」
それから後、バスが石川の降りるバス停に着くまで、話題は「どうやって佳澄を励ましたらいいか?」になった。ほとんど石川が一人で喋っていた。私は興味が無かったから、相槌役に徹した。が、結局結論が出ないまま、バスは着き、石川は帰っていった。
佳澄は自分で「友達から始める」と言っていたが、翌日以降も相変わらず私とは話さなかった。クラスでも、廊下ですれ違う時でも、席替えで席が近くになった時でさえも、やはり、私と佳澄の間に会話はなかった。以前と変わらず、事務的会話だけが、月に一度あるかないか、といった按配だった。
それでも、何かしらの変化はあった。何より、私の心境が変わった。悲しいかな、どう取り繕っても、私は男なんだな。あの告白以来、私は佳澄のことを良く考えるようになった。目で追うようにもなった。佳澄の方に、確実に心が傾いていた。うぶな男子が、突然の求愛を受けて、クラッと来ちゃったってことだよ、君。まぁ、要するにね。
だが、佳澄のことを考えているうちに、私はある仮説を思いついていた。それは、彼女が私に向ける好意の質についての仮説だ。
彼女は私に幻想を抱いているんじゃないかと、私は考えた。また、私との関係に、恋愛ではなく癒しを、逃避を、求めているんじゃないか。そう、丁度、私が先輩を思うのと同じように。そう考えた。彼女は私と同じなんだと。
佳澄は私に言った。私が石川と楽しそうに会話しているから、私を好きになったと。私の姿に、私の振る舞いに、いつの間にか心引かれたのだと。また、石川は言った。佳澄は家族の人間とうまくいっていないのだと。そしてそれは、彼女にとって、とても辛いことなのだと。
冗談じゃない、と私は思った。彼女が求めるのは、私そのものではなく、彼女の頭の中にいる、彼女にとって都合のいい私なのだ。幻の私なのだ。
彼女が好きになったのは、私ではなく、彼女に一時の癒しを与える、慰めへの期待なのだ。彼女の求める、苦悩からの逃避であり、癒しへの憧れなのだ。
そして、私は、その代用品に過ぎない。
下らないと、私は思った。佳澄がそのことに自覚的であれ、無自覚的であれ、私自身が今の状況に巻き込まれていることが馬鹿馬鹿しかった。何度も言うが、私はその当時、非常に参っていた。だから、最初は、自分はそんな風に、無礼に扱われても良い人間ではないと頭に来ていた。だが、直ぐに怒りは納まった。そんなことで佳澄に一々腹を立てることが、すごく面倒臭かった。佳澄に報復するなんて考えはおろか、彼女を嫌ったり、軽蔑したりすることも、また、面倒だった。
私は佳澄を放っておくことにした。「友達宣言」をしたにも関わらず、相変わらず彼女と接点を持つことはなかったから、まぁ、彼女も、いつかは、飽きるだろうと考えた。そうでなくても、彼女は彼女自身の幻想に恋焦がれ、そして満足しているんだから、それは言ってみれば、自慰行為に近い。私には関係ない。お好きにどうぞ、心行くまでな、と言ったところだ。
とはいいつつも、明確な理由のない好意というものは、もはや習慣に近いものであって、頭では気にしないようにしていても、心の向く先まで急変更できない。私の心は、依然として佳澄の方向を向いたままだった。私は、この後数ヶ月、佳澄への好意と無関心の狭間で、ゆらゆらと揺れ動いていた。
そうしている内に冬になり、年が明け、高校二年もあと僅かというところまで来ていた。
私が佳澄から二度目の告白を受けたのは、そんな時だった。
二月十四日、バレンタインデーのことだ。
朝から恐ろしい程寒く、家の中でも吐く息は白くて、昼になっても気温は零度を超えない。外では雪が降っていた。体育館の雨どいから長いつららが伸び、松の枝は積もった雪の重みでしな垂れていた。駐車場に停めてある教員の車は、既にすっぽり雪に包まれていた。そんな日の夕方のことだ。
私はその日の部活を終え、へとへとになりながら、狭い部室で着替えを済ませ、丁度帰る準備が整ったところだった。女子部員が私を呼んでいるとのことだった。私が、同じく着替えをしていた部の仲間達から冷やかしを受けながら部室を出ると、確かに部活仲間の女子がいた。彼女は校門の裏で、石川が私を呼んでいると言った。そして私を冷やかした。私は指示された通り、校門の裏に行った。
石川ではなく佳澄が傘を差して待っていた。私は驚かなかった。
「ごめんね、呼び出しちゃったりして」
「いや、別に」
「時間、大丈夫だった?」
「平気」
「山崎君、甘いものとか、好きな人?」
「割と嫌い」
「よかった」
佳澄はそう言って、鞄からビニール袋入りのチョコを取り出した。そしておずおずと私の前に差し出した。
「これ、受取ってくれないかな?」
「いいけど……」
私はその袋を受取った。
「サッチャンからね、山崎君は甘い物、あまり好きじゃないよって、聞いてたの。だから、ビターチョコレート。うんと、苦くしておいたから」
彼女はそう言って笑った。
「じゃ、私帰るね」
彼女は小走りに駆けていった。私は、彼女の後姿に、滑るのによく走れるな、と思っていた。また、佳澄の言葉の「うんと苦くしておいた」って、どういう意味だろうと思った。
帰りのバスで石川と一緒になったが、石川は何も言っては来なかった。
家に帰り、夕食を手早く済ませた後、私は自室に戻り、佳澄から貰ったチョコレートを鞄から出してみた。二つ折りの小さな手紙が付いていた。私は机でチョコレートを齧りながら手紙を読んだ。なにやらツラツラと書いてあったが、要は、あなたのことが好きだから付き合って欲しいということだった。ひたすら、つまらないラブレターだった。
「それにしても、苦いな、このチョコ」
私は呟いた。いくらなんでも苦すぎるだろ、これ、と思った。そして、やはりチョコを齧りながら、佳澄のこと、自分の取るべき行動について、あれこれ考えを巡らせた。
その夜のうちに、私は佳澄への回答を決めた。色々考えはしたが、結局、断わるという結論に至った。彼女のためを思えば、それが一番だと考えたのだ。
私は佳澄と付き合っても良いと思っていた。佳澄のことは気になっていたし、彼女も私を好きだという。問題はないと言える。それに、私はずっと塞ぎこんで生きてきたから、異性との特別な親しさを示す称号、つまり、恋人という存在に対して、憧れもあった。(もっと人生の後に分かる事だが、恋人だからって、真に親しいわけではない)恋愛というのは、それまでの自分が、絶対に近づけ得なかった新世界だ。その世界は、経験値の宝庫である。だから、人生の経験値を得るためだけに、佳澄の好意を利用する打算的な考えも、頭には浮かんだ。彼女だって、知ってか知らずか、私を媒介に自分の平和を望んでいるのだから、おあいこなのである。新世界への扉の鍵として、私が彼女を用いたって、別に責められる云われはない。
それでも、私が彼女の好意を拒否する判断をしたのは、私達二人が並ぶ姿が、私には余りにも虚しく感じられたからである。私達は、お互いが、お互いを見ていなかった。相手の事を、何も知らなかった。過去のことだけでなく、現在のことですらだ。そうした二人が、さも親しい者同士であるかのように、並び、会話し、義務的に多くの時間を過ごすのである。私と佳澄が並んでいる姿を思い浮かべてみると、その虚しさに、私は悲しくてならなかった。例え、振られることで彼女が悲しむのだとしても、それは必ず一時的なものであり、本当の意味で、彼女を傷つけるものではない。それよりも、私が利己に走り、それが彼女に伝わってしまう方が、よほど傷を深くするのである。不実な肯定は、誠実な否定より、よほど鋭利なのである。是が非でも、避けなければならない。
振ってやろう。私はそう思った。
翌日の昼休み、私は佳澄を地学教室の前に呼び出し(そこは人気が全く無い教室だった)、交際への断わりの旨を伝えた。彼女は一瞬、残念そうな顔をしたが、すぐに機嫌の良さそうな表情を浮かべた。そして、一度目の時と同様、私が彼女の申し出を断わる理由についても聞いてきた。私は答えた。ただ、先に述べたことは、何一つ言わなかった。その代わり、三年になれば受験で忙しくなるし、まだ先輩が忘れられないと、嘘を言った。
私の考えは、言葉にしてしまえば、それだけで彼女を傷つける可能性があった。真実というのは、時に、心を貫く鋭い刃となる。彼女に余計な傷を負わせるのは、私の本意ではない。真実を言うのは、だから、気が引けた。それに、彼女も嘘の理由で納得したようだった。まぁ、要するに、君の事が好きじゃないんだよってことが伝われば、それで事は足りる。
彼女はやはり、駆け足で去っていった。
その日の帰り道、またもバス停に石川がいた。そして、前回同様、バスに乗り込むなり、ちょっと来てと言って、私を離れた席まで引っ張っていき、私が佳澄を振った理由を聞いてきた。私は佳澄に対しては伏せておいた本当の理由を、石川に言った。随分長い時間かかったが、幸い丁度雪の日で、路面が凍結していたこともあり、普段の三倍近くの時間を確保することができた。
私が全てを話した後、石川は、分かったと言った。それから少し黙った後で、じゃあ、しょうがないかと、溜息交じりに言った。消沈した様子が見て取れるが、反論してこない点を考えると、今度ばかりは納得してくれたようだ。私はうな垂れる石川に対して言った。
「そこで一つ、お願いなんだが。彼女がさ、俺を諦めるように、それとなく事を運んでもらえないだろうか。彼女が俺に固執するのも、石川が横で煽っているからってのが、一理あると思う。それを止めてさ、『あんな奴、やめちゃいなよ』とか、『もっといい男、一杯いるって』とか言ってくれると、俺は助かるんだが」
「じゃあね……、中学の時、男子達の間で、マットに包まった人をジャイアントスイングで放り投げて、誰が一番遠くまで飛ばせるかっていうゲーム、流行ってたじゃない? あれ、やってたときにさ、山ちゃんが飛ばされる番で、たまたま力が凄い不良の先輩が通りかかっちゃって、俺にもやらせろ、みたいに言われて。で、結局、ものすごい勢いで回されて、かなり遠くまで飛んだこと、あったじゃない? あの話とか、していい?」
石川は可笑しそうに言った。
「それはダメ」
私はきっぱりと言った。あの時、私は十メートルは飛んだのだ。沽券に関わる。
「なんでよー。いーじゃない。早くスミに忘れられたいんでしょ?」
石川はからかい半分で言ってくる。
「タデ食う虫も、スキズキ、という諺もある。もしかしたら、彼女はジャイアントスイングで、遠くまで飛ばされるような男が好きかもしれない。だから、ダメ」
私は尤もな顔をして言ってやった。彼女は、ないない、と首を振った。
石川がバスを降りるまで、そうした下らない話は続いた。何にせよ、石川から佳澄への扇動はこれで無くなったと、私は安心していた。
それが功を奏したのか、佳澄が私に三度目の告白をしてくることは無かった。
高校三年になり、佳澄とは別々のクラスになった。大学受験の勉強もそれなりに忙しく、私の中の佳澄への淡い感情もすっかり消えていた。姿を見かけることすら少なくなった。
次に、私が佳澄と話をしたのは、高校の卒業式のことだった。
卒業式が終わり、最後のホームルームを済ますと、私は部室に向かった。卒業式の後、卒業生は部室の前に集まり、集合写真を撮るのが、陸上部の慣わしだったのである。その途中、私は石川に呼び止められた。少し、時間が欲しいのだという。私は、長くなければ、と答えた。石川は頷き、佳澄が地学室で待っていると私に教えた。最後に話があるのだと。それだけ言って、石川は帰っていった。私は地学室に足を向けた。
佳澄は地学室のドアに背をもたれさせて待っていた。携帯電話を操作していた。おそらく、石川と連絡を取っていたのだろう。私がそっちに向かった、といった様な連絡だ。
私に気付いた佳澄は、携帯電話をしまい、私の方に体を向けた。
「ごめんね、色々忙しいときに呼び出しちゃって」
佳澄が申し訳なさそうに言う。
「本当だよ、全く」
私は冗談半分で答える。
「あ、用事あるなら、そっち優先して。私の方は大丈夫だから」
「冗談だ。特に用事なんてない」
用事は無いこともないけれどと、思いながらも私は言う。そして、友達少ないからさ、と付け加える。
「あのね、お願いがあるんだ」
一呼吸置いて、佳澄が言う。私は頷き、しかし、何も言わず、視線だけで話の先を促す。
「キスして欲しい」
ハァ? と思った。何言い出すんだ、こいつはと。だが、それだけだった。体は反応しなかった。
「それが無理なら、顔を、一回叩かせて欲しい」
佳澄は私が呆気に取られている間に、さらに言葉を続けた。
「……どちらも嫌なんだが」
私は率直に言った。
「いいじゃない。人のこと、二回も振っておいて。私はもう、傷物よ。責任取ってよ」
無茶苦茶な理屈だと思いながら、私はまた別のことを考えていた。
高校の卒業式の日、過去に二度振った女子から、キスか、ビンタをせがまれる。これは凄いことなんじゃないか。そう滅多にお目にかかれない状況なんじゃないか。そう考えていた。逃すには惜しいと。
私は選んだ。
「よし。一発、殴られてやる」
こちらの方が、キスなどより、余程珍しいと思ったのだ。……そういうことにしておいて欲しい。
「分かった。じゃ、行くよ」
佳澄はそう言うと、私の手の届く距離まで近づいてきた。私は後ろに手を回して胸を張り、「休め」の姿勢になった。頬を叩かれるときは、やはり、この姿勢に限る。
「ちゃんと頬を張ってくれよ。耳とかだと、鼓膜が破れるかもしれないから」
私は注文した。分かった、と佳澄は答えた。
「じゃ、ホントに行くよ。避けないでね」
「ああ。思いっきりこい」
私は歯を食いしばった。そして、佳澄の右手が伸び、見事に私の左頬を打ち鳴らしていった。びっくりする位、いい音だった。痛みは、不思議と、そんなに強くなかった。
叩かれた後、佳澄に平気だと示すために、私は笑った。それを見て、佳澄も安心したように微笑んだ。
「左の頬を叩かれたら、右の頬を差し出せ、と言った、昔の人がいたな。誰だったかな」
私は呟いた。
「キリストさんでしょ。……もしかして、もう一発、欲しいの?」
佳澄が少し驚いた表情で聞く。
「まさか。……それにしても、すごい力だ。首がもげるかと思ったよ」
私はからかって言った。
「でしょう? 本当は、捻じれて三回転させるくらいが、目標だったんだ」
佳澄も陽気に返してきた。私は頬をさすり、どうかなってないか、確かめた。
「でも、良かった。実は、キスの方を選ばれたら、どうしようかと思ってたの。……ねぇねぇ、今、もったいないこと、したと思ってるでしょ?」
佳澄はからかうように言った。
「もちろんだよ。大失敗だ。大損こいた」
私もそれに応えた。
「エッチだよね、男の子って」
佳澄は言って笑った。
「種の繁栄のためには、必要なことだよ」
私は何気なく言った。それから、一つ疑問に思ったことを聞いてみた。
「でもさ、もし、俺がキスしたいって言ったら、君は本当に、キスさせてくれた?」
佳澄は少し考えた後で、笑いながら言った。
「そんな訳ないでしょ。その時は、『この変態!』って言って、キスされる前に叩いていたかな。多分ね」
なるほど、と私は言った。そういうことにしておこうと思った。
「じゃ、もう用は済んだから、私、行くね。じゃあ、さようなら」
佳澄はそう言って行ってしまおうとした。佳澄、と私は呼び止めた。思えば、これが彼女の名前を呼んだ初めてのことだった。佳澄は怪訝な顔して振り返った。私は言った。
「卒業おめでとう」
佳澄は笑った。そして、そっちもね、と言って走って行った。
それ以来、私は彼女とは会っていない。
「でも、本当に、大変だったのよ」
佳澄は言った。角隠しの下の眉間に少し皺がよっている。
「そんなこと、言われてもなぁ」
私には心当たりが無かった。
「ウソよ、ウソ。ううん、大変だったのは本当だけど、でもそれは、別に山崎君のせいじゃない」
佳澄は穏やかに言った。私は頷いた。この子も、色々あったんだろうと思った。
「ところで、角隠しだとか、白無垢とかの意味に、『私は従順な大人しい妻になります』っていうのがあるの、知ってるか?」
「知ってるけど?」
佳澄は、それがどうしたの? と言いたげな口調で言う。
「君にピッタリじゃないか。卒業式の日、力いっぱい俺を殴り飛ばした君にさ」
私は、からかい半分で言う。だが、佳澄はニヤニヤするだけで、何も言わない。
「……どうした? 怒らないのか? 言葉を、忘れちゃったのかな?」
私はさらに佳澄をからかう。
「やっぱり、相変わらずね、あなたは。……そうね。私は今、角隠しをして、鬼を封じているのよ。だから、許してあげる。山崎君のこと」
佳澄は穏やかに言った。私はそんな佳澄を見て、ああ、こいつも大人になったんだな、としみじみ思った。自分だけ、置き去りにされた気分だった。
「もう行かなきゃ。色々大変なのよ、結婚式って」
佳澄が社を振り返りながら言う。
「だろうね」
私が同意する。そして、まぁ、これも祝い事だ、お決まりの台詞を言っておくことにした。
「佳澄さん。ご結婚、おめでとうございます」
佳澄は笑い、ありがとうございます、山崎さんと言うと、社の方にゆっくり歩いていった。佳澄の遠ざかっていく背中を私は眺めた。眩しかった。本当に、眩しかった。
私は神社を出た。その途中、そういえば、コロナビールが飲めるような店があるかどうか、聞くの忘れたな、と思った。
イギリスの方、イタリアの方、ごめんなさい。




