望遠鏡
望遠鏡を覗くと、そこは漆黒の世界が広がっている。
光や熱もその闇に吸い込まれていく。
(人間の欲も闇にのみ込まれてしまえばいいのに……)
天文学者、ティマ・ブラ―ニは思う。
ブラ―ニがまだ小さい頃、宇宙はまだ遠かった。
望遠鏡もない時代。
肉眼で見える宇宙が、そのころの宇宙だった。
星たちがひしめく輝きと光の世界。
悲しいことがあるたび、ブラ―ニは天空に手を伸ばした。
瞬く星に手が届く気がしたからだ。
ガリレオによって望遠鏡が発明され、宇宙は変化した。
もちろん、それは言葉の綾で、変わったのは私たち人間の方だ。
望遠鏡で覗きこむ宇宙には、これまで人間が見ていた光の側面ではなく、闇の側面がより強調されていた。
あんなに狭かった宇宙は永遠とも思えるほど拡大され、光より闇の方が多いことをブラーニは知った。
ひときわ大きく宇宙の台座に佇む月は、そのでこぼことした歪で残酷な姿を我々人間に見せた。
宇宙の真の姿を垣間見た時、ブラ―ニは驚愕し、そこにえも言われぬ興奮を感じた。
神を冒涜する背徳感と言おうか。
今までは夢や希望でしかなかったものが、今、眼前に宇宙は真の姿を見せている。
完全であったはずのものが、実はこんなにも醜くいやしい。
あこがれの存在が、自分の前で弱みをさらけ出しひざまずいているのだ。
ブラ―ニは猟奇的な喜びをそこに感じた。
ブラ―ニは苦悩する。
自らの喜びの為に、神なる宇宙を自らの手で汚してしまうことに。
望遠鏡を覗くたび、罪悪感を覚えた。
そして、夢を見ていた自分と、現実を知ってしまった自分のギャップに苦しむ。
今まで自分が見ていた世界、教会の諭してきた教えが嘘であることは、目の前の宇宙が教えてくれた。
確かに今、目の前の望遠鏡を破壊し、捨ててしまえば、ブラ―ニは“神”の教えを忠実に守る子羊の一匹になれる。
しかし……。
ブラーニの信じた神は偽物だったのだ。
“教会の見せていた幻影”。
望遠鏡という科学の武器が、いとも簡単にその霧を取り払ってしまった。
過去のように“神”を妄信することはできない。
五センチほどの真鍮でできた丸い筒の中に、新しい神を見つけてしまった今となっては。
二十五歳になったブラ―ニは天体研究施設ウラニボリの研究員になる。
――海に囲まれたこの天体施設は、まるで島のようだ。
(誰に文句を言われることなく好きなだけ宇宙が見れる。)
ブラーニは期待に胸躍らせる。
しかし、現実はブラーニの目論見に反し、ウラニボリでの生活はブラーニの理想と180度違うものだった。
愛憎渦巻き、見栄と金が全てを支配する欲望の世界。
宇宙という神秘的なものを扱うには、ここはあまりに穢れ過ぎていた。
教会の毒牙にかかったウラニボリでは、まともな研究など一つも行われず、研究員は日々、酒と女に溺れる体たらくである。
研究員がやることと言えば、研究費として貴族から金を巻き上げ、でたらめの資料を彼らに渡すことだけ。
資料を手にした貴族は晩餐会に出かけ、その上品な知識を自慢げに貴婦人たちに話す。
――その情報がでたらめとは知らずに。
嘘をつくのが巧くなり、自らの手を汚すことに慣れるにつれ、ブラーニはこの地球を抜け出して、あの清廉な闇の世界に溶け込んでしまいたいと考えるようになった。
気球のようにこのウラニボリがぷかぷかと宇宙に浮かぶ姿を、日々夢想する。
ウラニボリは浮かぶ。
人間の穢れ無き精神によって。
ウラニボリは沈む。
人の欲と傲慢さの分だけ。
だから現実、ウラニボリは地に足が生えたように、その場所を一歩も動かない。
またあの、臆病で悲しみに満ちた地球へとウラニボリは堕ちていく。
心ない重力がブラーニを地面に縛り付けるのだ。
ウラニボリの研究所長が死んだ。
表向きは自殺。
だが、職員はそれが他殺であることを皆知っていた。
所長は自殺するようなタマではない。
強欲にまみれたあの卑しい人間が、自ら命を落とすなど考えられないことなのだ。
犯人は所長の愛人ケプリだった。
若く、持てあますほどの美貌を持つ女性。
口論の末、ケプリはウラニボリの屋上から所長を突き落とした。
――それを知る者は、ブラーニ以外いない。
望遠鏡なしで宇宙を見るため、ブラーニはふらっと屋上に行く癖があった。
その日、そこに所長とケプリがいた。
所長はその浅ましい精神によって地に落ちる。
業深きものは、地球の重力に引き寄せられ、永遠の地獄を味わう運命なのだ。
その日、ブラーニはケプリに導かれるようにして、女を覚えた。
今までとはまるで違う世界。
しかし、あまりにも甘美で、そして切ない世界。
ブラーニは、泳ぎ方を忘れてしまった魚のように一時の快楽に溺れる。
浮かんでは沈み、そして、また浮かんでは沈む。
何度も湧きあがる欲望を御しきれずに。
そして、また、浮かぶ。
ブラーニは女の中に宇宙を感じる。
そのあまりに狭い体の中に、ブラーニは深淵なる未来を見つける。
――やっと、手が届いた。
天空の城ウラニボリは地球の重力を離れて、段々と浮かぶ。
もう何もいらない。
欲望の重りを解き放ち、ウラニボリは故郷である天空を目指す。
ぷかぷかと漂うように。
――さようなら、地球。
ただいま、宇宙。