クロノメーカー
朝――――。
いや、時の狭間に時間の定義が存在するかは知らないが――――定時に鳴らされる時計塔の鐘の音、そして針は5時を示している。
ラムダは1人1人に与えられた個室に横になっていた。
初めてここへ来た時のような小部屋だ。内装は質素……というか、はっきり言って何もない。ベッドもなければクローゼットもない。机もない。あるのは回転を止めない歯車だけ。
ゆっくりと身体を起こして、彼は伸びをしながら大きく欠伸をした。しかしその容姿には変化がある。茶色の地味なパンツは裾が20cm程も短くなっていて、来ていたファー付の黒のジャケットも袖の長さが足りない。くりくりの栗色天然パーマは肩口まで伸び、どこぞの音楽家のような髪型になっていた。
それもそのはず。ラムダが『ゴート・クロノダウゼン』へやって来てから、もう既に6年も経っているのだ。身長も伸びるはずである。
青年はぼさぼさの髪をかき上げながらその場で立ち上がると、寝ている間に凝り固まった筋肉をほぐす様にストレッチを始めた。そしてふと、この6年間を回想するように目を閉じる。
6年――――。ゴート・クロノダウゼンという名の、この時計塔しか存在しない空間に閉じ込められてからの月日は、長いようで短かった。
時に流されるまま、日々を時計塔で過ごした。来るんじゃなかったと後悔した事も、もちろん初めのうちはあった。だが、あのまま刺激のない退屈な毎日を送るよりは、幾分かマシだとも、ここで過ごす内にだんだんと思えてきたのだ。
理由としては、第一に田舎であること。旅が出来ればいいが、辺鄙な片田舎じゃろくな装備は手に入らない。それにラムダは平民だった。特別何かのジョブに就いていたわけではない。そんな田舎育ちの、凡庸なステータスの少年に長旅など出来るわけがなかった。
第二に、親との関係だ。両親はラムダが7歳の頃に離婚しており、ラムダは母についたのだが。10歳の時に、母が再婚したのだ。正直、ラムダはその事をあまり快くは思っていなかった。その後も新しい父親と上手くいかず、母の言うことしか聞かない。
町の小さな学校から帰ってきても、家事の手伝いばかり。友達ともろくに遊べない。再婚相手の男性は、大酒を飲み、仕事での愚痴をラムダにぶちまける始末。それに対し適当な返事をしようものなら、拳が飛んでくることもあった。
それは次第にエスカレートし、仕舞いには母へと飛び火したのだ。結果2人は離婚することになった。母は働き、ラムダも働き――――。新聞の配達から薪割り、煙突掃除に皿洗い。色々な仕事をやってきた。
ズボンが敗れても、その上から布を被せて縫うだけで、新しい服を買うなど、とても贅沢なんて出来る家庭じゃない。
今着ているパンツとジャケットは、お金を貯めて自分で購入した物だ。母に見つからないように、裏庭に穴を掘って、硬貨だけをへそくりにし貯蓄して……。購入した当日は、母にこっ酷く叱られた。ラムダはそれに反抗もしなかった。何もかもが面倒臭かったから。
そんな時だ。草原で見つけた光。それは、ラムダにとって希望の光のように見えた。手を触れれば、何か救いが訪れるんじゃないか、と。
産み育ててくれた母には感謝の気持ちも、後ろめたい思いもある。だが……好奇心。その一言に尽きるだろう。田舎育ちのラムダなら尚更だった。
それに何より、ドワーフのダラスは親切で面白く、いろいろな話をしてくれた。ドワーフ族のこと、自分のことに家族のこと、鍛冶や細工が得意なこと……。そんなことも手伝ってか、最初の頃に抱いていた疑問や後悔の念は、いつの間にか薄れ霧が晴れるように忘れていった――――。
一通りのストレッチを終えたラムダは、いつものように扉を開け、小部屋を出て行く。
そして時計塔内で割り振られた、自分の管理区画である1階から10階の点検を始めようと、まず1階へと下りる。上級のものは上の階。新人は下の階を担当するのだが、この6年、彼の後に来た人間がいないため、ラムダが最下階を担当しているのだ。
青年の部屋は17階にあるので、16階分も下降しなければならない。時計塔の胴回りに沿わせるようにして作られた、幅の広い螺旋階段を長いこと下り、目的である1階に着いたラムダ。
時の亀裂へ落ちた時最初にいた小部屋の隣に、掃除道具入れ専用の部屋が設けられている。
その部屋へ歩いていくと、中へと入り、箒とちりとり、そしてはたきを手にして小広間へ戻る。
彼は現在『クロノメーカー』というジョブに就いている。時の亀裂に落ちた者がなるということは、初めて会った時ダラスから聞かされたが。その仕事内容がなんとも面白い。
クロノメーカーは時を造り、そして時間を動かし運用するというものだ。そしてそれを可能にしているのが、この大時計塔ゴート・クロノダウゼン。元いた世界の『時』を動かしている。
碑文に書かれている事だが、ゴート・クロノダウゼンはこの時計塔の設計者の名前らしい。一体何者なのかは謎である。
そして驚くべきことに、ダラスは、現在の時計塔の管理者『クロノマスター』というクラスをしているそうだ。
80年もいれば、今までいた人間はほとんどが死んでしまうだろう。後から後からやってくる人々を、彼は育て協力し、時を刻み動かしてきた。ダラスが来るもっと以前、遥か昔からそうして、時の管理者たちが世界を、時間を動かしてきたのだ。
とりあえず広間の掃除でもしようと中央の碑石へ近づくラムダに、いつものように上空から声がかかる。
「ラムダーーアァーーーー」
ダラスだ。相変わらず、空から降ってくるのが楽しくてしょうがないのだろう。空気抵抗を受け、ブルブルと音が聞こえてきそうなほど、細かく激しく振動する顔の肉。
赤いリボンで綺麗に纏められた自慢の髭は、風を受けて真ん中で割り開かれていた。ドワーフ族の男性特有の濃い顔は、醜悪……とまではいかないものの、大変みっともないものへと変貌している。
ダラスはスピードが足りないと思ったのか、腹部で空気を受ける形から、足を抱え込むようにして身体を丸めて回すと、顔を下降方向に向けて真っ逆様の体勢をとった。
するとぐんぐん速度を上げていき、200階もある時計塔をもの凄いスピードで落下していく。
その様子を見ていた青年は、呆れたように小さく息を吐いた。
大音声を上げながら1階へ向かって落ちてくるダラスは、器用に身体を3回転半捻り、1階へと無事着地した。巨大な鉄球でも落としたのかと思うほどの轟音と振動が、床を大きく揺らしたが、なんと板張りの床は無傷だった。
いつもは空中で静止するダラスだったが、今回はスリルを楽しみたかったのか、使わなかったようだ。
ちなみにその静止術(とでも言うのだろうか)――――は、クロノマスターのみに与えられた特技らしい。昔ダラスがメーカーだった頃、一度試しに100階から飛び降り実践してみたが、敢え無く失敗に終わったそうだ。頑強さが取り柄のドワーフでよかったと、その時のことを懐かしみながら、照れ臭そうにラムダに話したことがある。
「じいちゃん、いい年なんだから無理しないほうがいいよ」
この6年でジョブが変わったこと以外に、変化したことが1つある。それはラムダのダラスに対する呼称だ。初めは名前にさん付けで呼んでいたものが「じいちゃん」という愛称になっている。
ダラスは青年を孫のように可愛がった。クロノメーカーの中でも一番年下で、自分に懐く人間の子供を、自分の孫だと思い接し、面倒を見た。自分にも孫がいる、そんな話をラムダにしたところ、「じゃあじいちゃんって呼んでもいい?」。そう言われ、ダラスは微笑みそれを快く許可したのだ。
「確かにワシはじいちゃんじゃ。今年で241歳じゃからの。孫もおるし」
「だから無理はしちゃだめだよ」
「無理じゃないの、無茶じゃな」
「う~ん、まあ、どっちでもいいけどさ」
ラムダは頭を掻きながらダラスを見下ろす。10cm程だった身長差は、30cmくらい開き、月日の経過を感じさせる。そしてその服装にも変化があった。最初着ていたノースリーブに膝丈のパンツという貧相な格好ではなく、頭にはゴーグル付きのヘッドギア、ぶかぶかだが袖のない黒の作業着を纏い、胸には鉄で出来た胸当てを身に着けている。
背中には身の丈ほどもある金属製の大鎚を背負い、以前と比べるとよりドワーフらしい外見をしていた。
ラムダが最初にいた小部屋には、人以外に色々な物が落ちてくる。動物や衣服、道具に装備、食べ物などだ。そのことからも、時の亀裂は時と場所を選ばず発生することが、なんとなくだが理解できた。
その為、服がボロボロになっても、そうして落ちてきた物を分け合いながら、ここの住民は譲り合いの精神で暮らしている。しかし青年はまだ新人扱いなため、特に衣服類の分配は後回しにされているのだ。それほどの頻度で落ちてくるわけではないから、ラムダの服がボロボロなのは仕方のないこと。
「ところでじいちゃん、僕になにか用?」
「いんや。ただ、ラムダの仕事振りが板に付いてきたか、確認しに来ただけじゃ」
「そう? でもなんだか嬉しそうだけど」
自分を見上げる男の表情が、いつも以上に穏やかな気がしているラムダは、首を傾げて不思議そうな顔をした。
見上げながら、何度も頷くダラス。やはりその表情からは温容を感じさせる。
「僕は今から手入れするんだけど……じいちゃんは?」
「ん? ワシならもう大時計の大ネジを巻いてきたぞい。……たぶん、最後のな……」
「えっ?」
ダラスが小さく呟くように言った言葉、「最後の」。ラムダは驚きの表情と共にダラスを見る。しかし男は表情を崩さず、変わった様子もなく青年を見上げている。
訝しみながらダラスを見続けているが、変わらず温和な微笑を自分に向けているため、青年は気のせいではないかとも思えてきた。
薄赤のリボンの位置を気にするように触るダラスから、一度小首を傾げ目線を外したラムダは、温かい視線を背に感じながら、碑石の周りの掃除を始める。
小広間はそこまで広くはなく、20分もしない内に掃除を終える。その間、ダラスは青年の行く場所行く場所を目で追い、微笑みながら仕事振りを観察していた。
「じいちゃん、そんな所でじっと見ていられると気が散るんだけど」
「ん? ワシの事は気にせんでよいぞ。ほれ続けて続けて」
作業を続行するように、ダラスは自慢の髭を振ってそれを促すと、青年は顔をしかめて難色を示す。肩を落とし鼻から小さく息を吐いたラムダは、次は1階の時計塔内部の整備に移る。
ラムダが移動を始めると、男もその後をついて歩いた。青年の背を見上げるダラスの口元は、まるで孫を可愛がる祖父のように綻んでいる。
時計塔1階。扉を開けた先に広がっていたのは、小部屋なんかとは比べ物にならないほどの大きな歯車たちが、互いに噛み合い、廻り、そしていくつもの歯車を回転させ動力を上に伝えている光景だった。
その音響は凄まじく、ガコシャンコン、ガコシャンコンと、重い金属同士が連続して重なり奏で合う、耳を聾する程の音が部屋内を充たしている。
ラムダは部屋の隅に置かれた、長方形の箱型をした整備道具入れまで歩いていくと、扉を開けて中から長いノズルのついた瓶を取り出した。これは歯車の円滑油。円盤に刻まれた歯に流し込み、歯車の回転を利用して、噛み合う他の歯車にも円滑油を塗っていく。
青年が担当する1階から10階には、平歯車しか使われていない為、正に初心者向けの区画だと言える。
下の歯車から上の歯車へ、順次油を注いでいくラムダ。上の歯車は高所に設置されている為、さすがに脚立に上らなければ届かない。
脚立によじ登り油を注いでいく青年の様子を、ダラスは心配そうな顔をして見守っている。
1階の整備及び点検を終えたラムダは、次は2階、そして3階と、手際よく手入れをこなしていった。
数年前まではダラスに注意されながらの作業だったが、手に職がつく、とはこういう事を言うのだろうか。ラムダの仕事に男が口出しすることもなく、それどころかダラスは、青年の成長が喜ばしい。そんな面持ちで作業をジッと見つめていた――。
整備点検すること6時間弱。作業を終えた2人は、小広間の碑石の前で座っていた。虹色のヴェールが揺れるだけの、空の見えない上空を見上げ、ボーっとしているラムダ。髭を櫛で梳き、赤いリボンを結び直すダラス。
遠めに見るならば大人と子供のような2人。近付くと、その明らかに違う体躯の差から種族が違う事は分かるのだが、やはり老人の容姿に違和感を感じずにはいられない。
足を投げ出して子供のように座っているダラスに青年は目をやると、リボンを結び終えた男が見返してきた。
にこりと歯を見せて笑ったダラスに、ラムダはずっと気になっていたことを訊ねる。
「ねえじいちゃん。そのリボン、随分古そうだけど、大事な物?」
「ん? これかの? ……そうじゃな、大事……と言うよりかは、大切、じゃな」
所々解れて煤けたリボン。色は6年経ち、朱に近かったその色を更に薄紅へと退色させていた。しょっちゅう弄っているのも、その要因になっているとは思うが……。
目を細め、髭に結われたリボンを愛でる様な手つきで撫でるダラスを、青年がジッと見ていると、「ラムダ、覚えておるかの」と言って男は静かに口を開き、遠い日を思い出すように語りだした――――。




