亀裂に落ちて
《時の亀裂》――――。
それは世界と時の狭間に生じた歪み。遥か昔から存在し、現在も在って、未来へと繋ぐもの。その世界の全てであり、生を動かし刻むもの……。真実の時の大時計――。
それは時の亀裂に存在し、人々を、動物を……。はたまた世界の全ての時間を動かしてきた、唯一無二の機械時計。
そんな大時計に、遥か昔から住み着いている住人たちがいた。ジョブは『クロノメーカー』。その名の通り“時を造る”ジョブ。
何の前触れもなく、たまたま時の亀裂へと落ちた人間がなるという特殊ジョブに、数年前、ひょんなことから亀裂に落ちジョブチェンジしてしまった少年がいる。
名はラムダ=クライツェル。ここへ来る以前、元々は『テグルス』と言う、北方の国の田舎町に住んでいた。
そんな彼がここへ来たのは6年前、12歳の時だった――。
ある寒い日に、家で暖をとるために使っていた暖炉に焼べる薪がなくなり、母のお使いで枯木を拾いに、近隣に広がる森へと出かけた時だ。
辺りは既に薄暗く、森の中へ入ると広がる景色はまさに黒闇。森を吹き抜ける冷たい風が樹葉を揺らし、まるで呻き声を上げるかのように不気味にざわめく。
ラムダはあまり奥へは立ち入らないよう、入口から近場の距離で枯木を拾い始める。
地面の一箇所に枝を集め、それらを規則正しく纏め終えると紐で縛り、それを背負って森を後にした。
少年は普段通りの道順を歩き、そのまま家へと帰るつもりだった。だがしかし、周囲を見渡しながら歩く彼の目が、普段見ることのない輝きをした“何か”を見つける。それは雑草も枯れて萎れる、少しの緑を残す草原にあった。
「なんだろう、これ」
不思議に思ったラムダはその輝きに導かれるまま、吸い寄せられるように近づいて行く。見つけた“それ”は七色に輝き、細かな粒子が宙に舞い上がっては霧散している。
切れるはずもないが――――例えるならば、ナイフで空間を切り裂いたような形をした“それ”は、徐々に輝きを失い小さくなっているようにも見えた。
好奇心旺盛な子供だったラムダは、後先も考えずに、本能の赴くまま、その空間に出来た歪みに手を伸ばす。
すると刹那、一際明るく輝き、霧散する七色の光の粒がラムダの身体を包み込むと、亀裂は大きく口を開け、ラムダは吸い込まれるようにしてその中へと消えていった――。
眠るように気絶していたラムダが意識を取り戻したのは、鐘の音が鼓膜に響いたからだった。荘厳な教会で鳴らされるような、神聖でいて厳格なその反響に、起こされたと言うよりは起きなければという自主的な意識が働いたのだ。
「うるさいなあ、これじゃ寝られな――――っ?」
目を覚ましたラムダは上体を起こす。そして、くりくりに巻かれた天然パーマの茶髪を掻きながら周囲の様子を窺った。
板を何枚も連ねた木製の壁が四囲を囲う小部屋には、所々に歯車が顔を覗かせる。床から生えるようにして半分出る歯数の多い歯車を、歯数の少ない歯車が廻し、回転軸を通して、壁の向こう側にある歯車をまた回転させているのだろう。小部屋の中には、外と中、両方から聞こえるそれらの噛み合う音が響いている。
しばらくの間呆然として眺めていた少年は、ふと自分の周囲に視線を落とした瞬間に目を見開いた。
辺りには、先程まで拾い集めていた木の枝が散乱している。
そうだ――――自分はあのおかしな光に触れた途端、何かに包まれ、少しの浮遊感を感じた後に気を失ったんだ。
ラムダはここへ来るまでの経緯を改めて思い起こす。しかし次の瞬間、気付いたように顔を上げた少年は、徐に自らの右頬を抓った。
「……痛い」
そう呟き手を離し、抓った頬を労わるように摩る。涙目になりながらも、頬に残る鈍痛、抓った部分がほんの少しの熱を帯びていると感じた事実から、これは夢ではないのだと認識した。
いつの間にやら、鐘の音が聞こえなくなっていることに気付いた少年は、その場で立ち上がると、この部屋から唯一出るために設けられた扉へと近づいていく。
小さな歯車の形をした覗き穴から、外の様子を窺うと――――何人かの人と……動物? そして床は完全に木で作られており、巨大な歯車があちらこちらで回転している光景が目に映った。
恐る恐る扉の取っ手を握り締め、そして捻り、外へと出て行くラムダ。
外へ出てみて初めて気付いたことがある。それは音。まるで工事現場にでもいるかのような騒音。歯車が噛み合い、動く時のガタンッという音や、カタカタと連続して鳴る機械の音。
そして光。明らかに太陽の光じゃない。微かな温かさは感じられるが――――上を見上げた少年の目に映ったのは、人工的な明かり、照明だった。
先程覗き穴から見えた人々の姿はすでになく、騒々しい機械の動作音を聞きながら、ラムダは目の前の小広場らしき場所まで歩いていく。
中央には何かの碑石のようなものが建っており、ラムダはそれに刻まれた文字に目を通す。
『時を刻む大時計。真理の時計塔ゴート・クロノダウゼン――』
「真理の時計塔?」
首を傾げ疑問視しながら碑文に目を通す。――――と、突然そんな彼の遥か頭上から、年老いた男の声が聞こえた。
「おう、お前さんは新人かー?」
「え?」
その声に気付き上を見上げる。上空――――空が見当たらない為、言葉として合っているのかは分からないが――――どこからか聞こえるその声の主を探そうと、ラムダは首を左右に廻して遠望する。
すると老人は、
「今から行くぞい、待っておれ」
と言って、奇声を上げた。
その声は徐々に地上――――大地があるわけではない為、その表現で合っているかは分からないが――――ラムダとの距離を縮めているように感じられる。
そして、見上げる首を真上に向けた少年の目が、ある一点に人影らしき物を見つけた。それはどうやら声の主のようで、「アーアアァァーー」という声を発しながら、空から降ってくるではないか。
ラムダはギョッとしながら狼狽え、その場で右往左往していると、老人が声をかけた。
「何しとる、そんなとこに居ったら踏ん付けちまうぞいぃーーーー」
そんなことを言われても、平和な田舎育ちのラムダには、条件反射的に避けるという危機回避能力など、まったくと言っていいほど備わってはいない。
あたふたしている間にも、少年と空から降ってくる老人との距離は、もの凄い速さで縮まっていく。
――――ふと見上げたその時、老人は直ぐそこまで迫っており、ぶつかると思った次の瞬間――。
「な~んての」
そう言うと老人は、まるでムササビのように両の手を広げ、バッ! という音と共に空中で静止した。そしてゆっくりと、ワックスが塗られ艶々になっている手入れの行き届いた床に足を降ろすと、腰に手を当てて笑いながら言った。
「ほっほっ、驚いたかの? 悪かったー悪かったー」
老人は得意げな表情をし、他人を驚かせておいてまるで反省の色がない。そればかりか大口を開け、ぶつかると思った寸前に身構えた目の前のラムダを見て爆笑している。
そんな笑いこける老人を腕の隙間からちらりと見やる少年。安心したようにホッと溜息をつき胸を撫で下ろすと、身なりを整えながら立ち上がる。
見下ろす老人は身長が低く、12歳のラムダよりも10cm以上は低く見えるが、しかし筋骨隆々とした体躯をしていた。腕が異様に太く、子供の胴体ほどはあろうかと言うほど逞しい。
顔には数々の傷があり、片目に縦に走る裂傷痕が痛々しく目に映るが、何よりも目を引くのが髭だ。豊かに蓄えられたたっぷりとした白髭は手入れされており、その先端は薄れた赤色のリボンで蝶結びされ、綺麗に纏められていた。
顔に似合わない少女趣味の老人に噴出しそうになりながらも、ラムダは平常を装いながら目の前の小さなお爺さんを注意深く観察する。
身長は140cmほど。ずんぐりとした体系でありながら、まるで筋肉の鎧を纏っているかのような逞しい体つき。膝丈のパンツにノースリーブ姿。頭にはバンダナを巻き、長く立派な顎髭を豊かに蓄える。
しかし少年は老人のその容姿に見覚えがあった。――――見覚えがあったといっても、実際に見たわけではない。テグルス、いや、北方の国に広く伝わる伝承――――それを噛み砕いて纏めた童話に描かれていた挿絵によく似ているのだ。
「ドワーフ……」
呟くように発したその声に、老人は耳をピクリと反応させて笑いを止める。そして目を爛々と輝かせながら、ラムダに向かって嬉しそうな声を上げた。
「ほっほっ。お前さん、ワシのことを知っておるのか?」
「えっ? うん、北国には伝承があるから――」
「北国?! そうかーそうかー。北国とな? お前さん、何処から来た?」
「テグルスだけど――」
「テグルス!? そうかー、テグルスかー」
するとドワーフの老人(のように見える男)は、頷きながら少年へ近づく。そして徐に右の拳を差し出した。
ラムダが不思議そうな顔をし拳を眺めていると、ドワーフは焦れたようにその左手を掴み、そして無理やり拳を作らせる。
怪訝な表情をする少年にお構いなしに、ドワーフは作らせた拳と自分の拳を合わせ、顔を見上げると白い歯をこぼす。
「これはワシらの挨拶じゃ」
「挨拶?」
「そうじゃ。ああ、申し遅れたの。ワシはダラス。ドワーフ族のダラスじゃ、よろしくの」
「あ、よ、よろしく。僕はラムダって言います。ラムダ=クライツェル」
「クライツェル?! そうかーそうかー」
ラムダの姓を聞いたダラスは驚くと共に感心するように大きく頷くと、その顔を見上げて微笑する。
何故自分の名で驚いたのか。この時のラムダは他に気がかりがあり、それほどまでの興味はそちらには向いていなかった。
「ダラスさん、ここは一体どこなんですか?」
問いかけに、ダラスは眉間に皺を寄せて少し困ったような表情をした。自分でもなんと答えていいのか分からない、そんな顔をしているが――――小さく咳払いをすると、「憶測ではあるが」そう言って話を切り出した。
「ここは恐らく、時の狭間じゃな」
「時の狭間?」
「そう。世界と時間に生じた歪み、だと思うがの。ワシも詳しくは知らん」
「……ダラスさんはここへ来て長いんですか?」
そう訊ねる少年に、男は一度溜息をつくと、ここへ来た経緯を親切に教えてくれた。
ドワーフ族であるダラスは基本的に地中で生活をしている。地を掘り、岩穴に居を構え、そして地中に眠る様々な鉱石を採掘し、それらで鍛冶をし装備を造っては、上の世界の物品と交換したりして楽しく暮らしていた。
そんなある日。とある坑道を拡大しようと、掘削作業に勤しんでいた時だった。ピッケルを岩壁に振り下ろしている最中、見たこともない輝きを放つ光が突如、ダラスの目の前に現れた。
伝説の鉱物の1つ『オリハルコン』でも見つけたかと有頂天になった男は、上機嫌なままその輝きに手を伸ばす。
すると七色の粒子がその体を包み、空間に生じた亀裂が自分を飲み込んだと思ったら――――目を覚ました時、ラムダが寝ていたあの小部屋にいたと言う。
「そうだったんですね」
「あの日確認した時間から考えると、恐らく80年以上はここにおるの」
「は、80年?!」
ラムダは驚きのあまり、開いた口が塞がらない様子。男は顎鬚に結われた蝶々結びの赤いリボンを、左右に引っ張りながら俯く。
その様子を、沈痛な面持ちで見ていたラムダだったが、気になったことがあり再度問いかけた。
「ここって、もしかして出られないんですか?」
「……ワシも80年、出口を探したがの、よく分からんかった。出られることには出られそうなんじゃが……」
歯切れの悪い返答に訝しんで見ていると、ダラスはホッとひと息ついて、普段の調子に戻ると話題を切り替えた。
「そうじゃラムダ。お前さんは新人じゃろ。この中を案内せんといかんの」
そう言うと、毛筆の筆先のようになっている顎鬚先端を弄りながら、分厚い筋肉を纏った丸太のような腕を振り、ラムダについて来いと合図するダラス。
少年はとりあえず、自分の置かれている状況を把握しようと、男に『ゴート・クロノダウゼン』内を案内してもらうことにした。
これから自分が、ここに住み着くようになるとは、この時のラムダには、想像だに出来なかったことだろう――。




