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私と彼が出会ってそして 1

 ナターシャは、主の部屋のフローリングの床をモップでふき続けていた。

 この部屋を含め、どこの部屋の床も、覗きこめば顔が映るほどピカピカに磨いている。重労働に見えるが、他の部屋は部分的にでも絨毯や敷物が敷いてあるので、モップをかける範囲はそれほど多くない。

 ナターシャの仕事といえば、掃除だけだった。

 毎日、屋敷の部屋を掃除して月に10枚の金貨という賃金。

 掃除だけで10枚の金貨、というのは破格の待遇だ。なんだか申し訳ないような気がして、仕事を増やしてほしいと申し出たが、雇ってくれた主人は、気にするなと言った。

 驚いたのはそれだけではない。住み込み用の部屋として与えられたのがとてもメイド用の部屋とは思えないほど綺麗で、食事もこれまでナターシャが食べたことがないほど豪華なものだった。

 孤児として生きてきて、今が一番幸せだった。

 こんなに大切にしてくれる雇用主がいるなんて、とナターシャは嬉しさを噛みしめながら、モップを持つ手に力をこめた。

「そろそろお昼にしましょうか、ナターシャ」

 耳慣れた女性の声に、ナターシャは笑顔で振り返った。

「はい、奥様!」

 日に焼けたところのある自分の肌とは段違いな、白い肌。ひどいくせっ毛の自分とは違う、腰まで届くほどの艶やかな黒髪。黒い瞳は微笑みとともに細められている。ほっそりとしたその人は、茶色のシンプルなドレスを着てそこに立っていた。

「すぐに行きます。これを片付けてきますので」

 バケツとモップを持とうとしていたナターシャを、奥様はほっそりとした指を上げることで止めた。

「そこへ置いておけばいいわ。また掃除をするのでしょう?片づけをしていれば、温かいのが冷めてしまうわ」

「わかりました」

 バケツとモップを床に置くと、ナターシャは奥様のところへ歩み寄った。

「今日は、野菜のスープとパンを焼いたの」

 奥様は、歩きながらいつも食事のメニューを教えてくれる。それを聞きながら隣を歩くのが日課のようになっていた。

 奥様も、旦那様も優しい。同じテーブルで食事をしてくれるほど。そのときだけは、メイドであることを忘れる。二人の会話に耳を傾け、冗談に笑って過ごす。

 まるで、家族のように。

 「あら、いけないわ」

 ダイニングルームに入ろうとしたところで、奥様が右手を頬に当てて止まった。

「どうしました?」

「コーヒーが切れていたことを思い出したの。倉庫へ行ってくるわ」

 言った通り、倉庫へ足を向けようとした奥様の正面へ、ナターシャはくるりと回りこんだ。奥様のほうが背が高いので、見上げながらお腹のところでぎゅうと両手を握りしめて口を開く。

「私が行ってきます。どれくらい持ってくればいいですか?」

 奥様は、きょとんとした表情を笑顔に変えて言った。

「一袋よ。お願いしてもいいかしら?」

 そういいながら首を傾げた奥様に、ナターシャは勢いよく頷いた。

「当たり前です!すぐに取ってきますから」

「そう、お願いね」

 奥様の声を背中越しに聞きながら、ナターシャは、急ぎ足で倉庫へ向かう。倉庫まではそう遠くはない。突き当たりのドアを開けた先にある小さな部屋がそう。

 ドアを開けると、真っ暗だった。電気をつけようと、壁にあるスイッチを手探りで探す。すぐになじみのプラスチックのスイッチを見つけ、押すと拳ほどの大きさの明かりがついた。それほど広くはないから、コーヒー豆を探すのは難しくない。見回して、隅のほう、棚の一番上に茶色の袋が置いてあるのが目に入り、ナターシャは迷うことなく手を伸ばした。

 袋に手が触れた――――それがまるで合図であったかのように、周りが暗闇になった。





 奥様、と呼ばれる彼女は、実に楽しそうな様子で鼻歌を口ずさんでいた。

 食事を作るコックなどは雇っていないため、彼女自ら食事を作る。

 料理が大好きなため、苦だと思ったことは一度もない。

「今度のお茶会では、リンゴのパイを出そうかしらね」

 歌を止めて呟きながら、籠に盛っておいたリンゴに手を伸ばす。

 選んだのは、小ぶりなものだった。

 滑らかな表面にナイフを滑らせて薄く皮をむいていく。

 鼻歌をまた口ずさみながら。

 皿に、切ったリンゴを並べてテーブルに置き、次にコーヒーメーカーに湯を注ぐ。コーヒーはさっきセットしておいたので、後はコーヒーができるのをわずかな時間、待つだけだ。

 椅子を引いて座る。はしたない、と思いつつも頬杖をついてテーブルの中央に飾った白い花を眺める。

「退屈ね・・・」

 ほう、と息をもらしながら、コーヒーメーカーに手を伸ばす。

 真っ白なカップに注ぎ、簡単な祈りの言葉を呟いてから彼女は食事を始めた。

 しん、と静かな部屋のテーブルの上にあるのは、一人分の食事だけだった。












「仕事は・・・探していますけど、それがこの格好とどう関係があるんでしょう?その前に何で知っているんですか?私が仕事を探してること」

 私とシェリスカさんは、あれから場所を移して「黒猫亭」に来ていた。どこに行くかで名前を出したときに共通で出た唯一の店が「黒猫亭」だったのだ。

「黒猫亭」は、私が生まれるよりずっとずっと昔からここにあるらしい。外観も内装も流行りのカフェとは違って古びている。カフェに比べるとメニューも少ないけど、私はここのコーヒーが好きだ。

 今も、私とシェリスカさんの目の前にはマスターが入れたコーヒーが置かれていた。

「ああ、この辺りはよく出歩くんですよ。職業案内所から毎日出てくるあなたもよく見かけてて。様子を見る限り、きっと大変な状態なんじゃないかなぁなんて」

「なんか、怪しい職業への勧誘のように聞こえます」

 思ったことを正直に口に出したのにも関わらず、シェリスカさんは、眉尻を下げるとへらりと笑った。

「まあ、いきなりでしたからね。怪しまれるのも当然です。服も押し付けてしまったようなものだし。うーん・・・どうしたらいいかな」

 どうしたらいいかな、と言った割にはあまり困ってなさそうなシェリスカさんの青い瞳を見ながら、私はテーブルの下で拳を握りしめる。

「仕事は欲しいんです。シェリスカさんの言った通り。でも」

 シェリスカさんがコーヒーカップを取り上げて軽く揺らす。おそらくカップの中を見ているであろうその表情は穏やかだ。

「まだ、信用はできないんですよね」

「ええ、ごめんなさい」

 ぺこり、と頭を下げる。

 本当は謝る必要なんてないのだけど。

 シェリスカさんはコーヒーを飲むと、青い瞳に柔らかな光を浮かべた。

「会ってみる、というのはどうでしょう?」

「ランヴェール家の当主様に、ですか?」

 シェリスカさんによって提示された仕事先は、ランヴェール家。古くからある、由緒正しい名家のひとつだ。貴族制度というものは、随分と昔に形式上無くなったが、実は今でも密かに社会の中に残っている部分がある。『様』をつけてしまうのは、その名残といえた。

「だから、この服を?」

 この服なら、少しは見映え良くみせてくれるだろう。シェリスカさんは、それを考えて買ってくれたのかもしれない。

「ちゃんと、謝罪の意味もありますよ」

 シェリスカさんは否定しなかった。

「断ったら?」

「ただの提案ですよ」

 私は、服を見下ろして、顔を上げた。コーヒーをぐい、と飲み干す。まだ一口も飲んでいないコーヒーはぬるくなっていた。

「ランヴェール家へ直接伺えばいいんですか?それとも別の場所で?」

「ここへ来るように伝えましょう。僕も立ち会います」

 シェリスカさんが立ちあがる。背を向けてローブのポケットを探っている様子を見ながら、ふと浮かんだ疑問を私は口にしていた。

「来るように、って・・・シェリスカさんはランヴェール家の当主様と知り合いなんですか?」

 シェリスカさんは、振り返ると微かに笑った。

「ちょっとした、ね」







 

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