第1話 黒い追手
初投稿です。なるべく続けます。
深い森で焚き火もなく夜を過ごすのは危険なことである。
熟練の猟夫や屈強なる兵士たちさえも、一人でそれも火を焚かずにこのクレラットの森で夜を明かそうとする者はない。
彼、ラジルもそのことをよく知っていた。寝物語にこの恐ろしい森の怪についてよくよく聞かされてきたものだ。水運びや畑仕事をせずに怠けている子どものもとには、夜に森から不潔な屍食鬼どもがやってきて頭から齧られてしまうぞ、と。
ラジルは木々の間、茂みの奥の暗闇に怯えながら己のしたことの愚かさを悔いていた。いくら黒騎士たちから逃れるためとはいえ、忌わしいクレラットに入るなんてかえって自身の命を縮めるようなものではないか。たった一人で怪物のいる森に隠れ潜むより、皆と焼け死んでいたほうがいくらか幸せだったのではないか。
彼の指は、爪先は、感覚がなくなるほど凍えていた。雪の降るにはまだ早いが、既に吐いた息が白くなるような季節であった。大きな木の根元で膝を抱え込み、身体を包む冷気にカチカチと歯を鳴らしながら少しでも身を小さくしようと努めていた。空を見上げると月はなく、星もない。不吉に蠢いている雲は、ラジルの行く末を暗示しているように思える。
ドドム。
不意に、蹄が湿った土を叩く音が遠くに響いたような気がした。途端にラジルの身体はビクリと震える。息は浅く荒くなり、冷え切っていた身体は背骨に氷の塊を突き込まれたように固まった。それきりまた森は夜の静けさを取り戻したが、彼の耳はこれまでにないほど鋭敏になり、おそらくすぐそこに迫っているだろう追手の、次の音を聞き漏らすまいと必死になっていた。松明もランタンもない、真っ暗闇。黒騎士たちは月も星もない夜でも、灯りひとつつけず獲物を追いつめるという。暗い森の中も同じことだろう。
ザム、ザム、パキリ、ザム、ザム……。
近い!と、ラジルは頭の中で叫んだ。獣道を外れ、木々の間をゆっくり、じっくり注意を払って探しているのだろう。音はますます近付いてくる。騎馬の震えるような息遣いだけでなく、恐ろしい乗り手の静かな息も聞こえそうなほどに。
彼が身を寄せている木の真後ろで、蹄の音は止まった。見つかったのだろうか。寒さか恐怖か、それとも両方なのか、針で刺すような痛みが頭から止まない。虫の羽音も、鳥の声も聞こえない静寂。しかし、この木の後ろに恐ろしいものがいる。それだけは確信できた。
一瞬のような、永遠のような時間が流れた。ラジルは息を潜め、鼓動を鎮め、倒れ込むように一歩目を踏み出して走り出す。直後につんざくような嘶きが静けさを裂いた。続いて蹄が地を揺らした。
ラジルの頭は恐怖と寒さに狂いそうになっていたが、それでも彼なりに生き残る道を探すことを
やめてはいなかった。平坦な地面を避け、ぬかるんだ道を進み、細い木々の立ち並ぶ狭い隙間を通り、倒木の下に滑り込む。転んでもすぐさま立ち上がった。鋭い石を踏んで皮が裂けた感触があった。硬い枝に頬や腕を切り裂かれた。だがどのような怪我や痛みも、彼の死に物狂いの逃走を止めるには足りなかった。がむしゃらに森を走っていれば、いつ何時ほかの恐ろしい怪物たちに出くわさないとも限らない。
だが足を止めれば確実に死ぬ!殺される!それは絶対に嫌だ!
ラジルは決して振り返らなかった。振り返らずとも絶えず止まない蹄の音が、時折聞こえる馬の息遣いが、恐ろしい狩人が追跡を諦めていないことを雄弁に物語っていたからだ。息は乱れ、口の中に鉄の味がし始める。臓腑が鉛のように重くなり、脚がもつれる。当たり前の話だ。永遠に全力で走り続けられる人間など存在しない。ましてや騎馬と凍えた子どもの追いかけっこなど、結果は火を見るより明らかだ。
ひゅおおお、ゾブッ。
不吉な風切り音がした後、ラジルの太腿に火かき棒を押し付けられたような、はじけるような熱さが生まれた。瞬間身体は痺れ、脚がもつれた拍子につんのめり、平たい石に額を打った。倒れたことで、自分の太腿に深々と突き刺さった黒く長いものが見えた。村にやってきた恐ろしい兵隊たちが、武器をとった村の男たちに逃げる女と老人たちに雨あられと射掛けていた黒い矢だ。
汗が噴き出る。痛い。熱さが鈍痛に変わる。先ほどまで肺も喉も火がついたように熱かったのに、今は芯から冷たくなっている。涙が吹き出したが、すぐにその熱も冷たい空気に奪われた。
「あ、はっ、ゔぅ」
口から勝手に漏れた息が、咳とも叫びともとれないような音になった。
黒騎士は獲物が倒れたのを見ると、馬から下り、ヌルリと幅の広い曲刀を抜いた。その刃は滑らかで、黒曜石のように黒い。うずくまるラジルの元に歩み寄ると、片膝をついて彼の顔をまじまじと見つめた。皮のない歪んだ手が彼の首を掴み、大柄な黒騎士の顔の前に届くよう高々と持ち上げる。
一切の体温を感じない、冷たい手。出来損ないの干し肉のような、不快な弾力がラジルの首を絞めた。彼の鼻がつきそうなほど近くに、黒騎士の髑髏を模した兜が近付いた。兜の奥に、黄色く濁った目がぼうっと光っている。その目は奇妙なほどに真ん丸で、瞳はピクリとも揺れず彼の表情を覗き込んでいる。
「こんぺきの、かみ……」
黒騎士は絞り出すような息遣いで言葉を発した。黒い曲刀はいつの間にかその手から滑り落ち、ラジルの黒みを帯びた青の髪を、指先で弄んでいる。
黒騎士は不意にラジルの首を離し、どさりと泥濘んだ地面に落とした。どういうわけかその黒い外套の端を裂き、鏃の食い込んだ彼の太腿をきつく締めた。手当てをしているのか。ラジルは信じられないものを見る目で、傷の処置をする黒騎士を見つめていた。
その手の動きは操り人形のようにぎこちなく、まともな人間のものではない。だがその手は確実にラジルの命を延ばす行いのため、動いていた。黒い兵隊を率い、村を焼き払った恐ろしい騎士がラジルの命を救おうとしているのだ。
黒騎士はラジルを軽々と担ぎ上げ、黒い馬の鞍の後ろに縛り付けた。既にラジルの身体には一滴の気力すらなく、手足は水を吸った縄のように重く、垂れ下がるのみである。
どこかに連れて行かれるのだろう。僕は一体どうなるのか。爺様や村の皆のように焼かれるよりもなお惨たらしい方法で殺されるのかもしれない。それこそ、生きたまま食べられるように。ラジルは血の気の引いた、ぼんやりした頭でそう考えていた。
荷物を馬に縛り付けた黒騎士は、轡に足をかけた途端にピタリと固まった。そのままそっと足を下ろし、眼前に広がる木々とその間の闇に向かって居直った。その手には先ほども手にしていた、滑らかな黒い曲刀が握られている。辺りに、鼻をつく腐臭が立ち込めた。
ペキリ、ザム、ザム、ザム。
息を殺し、こちらを伺いながら近付いてくる何者か。いや、何かの群れ。ラジルが頭をもたげ、闇に目をこらすと段々とその形が浮かび上がってきた。歪んだ人影、灰色と濁った土色の肌の怪物。瞳が融けた白く濁った目をらんらんと光らせ、曲がりくねった長い爪を振り乱している。まるで人間の死体の悪趣味な戯画だ。開かれた口には柵のようにビッシリと乱杭歯が並び、濁った唾液を滴らせていた。
げぼ、げひ、げっ。
奇妙な笑い声のような、病人の咳のような詰まった唸りを上げ、その怪物たち──屍食鬼どもは追い詰めるように黒騎士とラジルを包囲していた。
グールでなくゴールなのには深いワケはないです。食人鬼ゴールに引っ張られてます。




