ダブスタというやつ
正直、理解できない、と思った。
口には出さないけど。
出した瞬間に、たぶん俺が悪者になるから。
彼女は鏡の前でまつ毛を整えている。
さっきから何度も角度を変えて、光の当たり方を確認している。
「別に誰のためとかじゃないから」
その言い方は強い。
自立していて、凛としていて、正しい感じがする。
俺は「うん」とだけ返す。
それ以上踏み込むと、面倒なことになるのを知っている。
でもその三十分後。
「今日のお店ちょっと高いんでしょ?」
「ちゃんと払ってよ?」
「こっちだって準備にお金も時間もかけてるんだから」
そう言われたとき、頭の奥がじわっと熱くなった。
あれ、さっきまで“自分のため”って言ってなかったっけ。
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
俺は財布の中身を思い出す。
今月は車検もあったし、保険も引き落とされたし、思ったより余裕はない。
でもここで「割り勘にしよう」なんて言ったら、
たぶん空気は凍る。
「ケチ」
「余裕がない」
「甲斐性がない」
そういうラベルが一瞬で貼られる未来が見える。
俺は彼女のことが好きだ。
少なくとも、好きだったはずだ。
努力しているのも知ってる。
毎日ジムに通って、
食事も気をつけて、
新しいコスメを研究して。
その時間もお金も、本当に大変だと思う。
でもそれは、俺への請求書になるものなんだろうか。
好きな人に会うために整えるのは素敵だと思う。
でもそれは“好意”であって、
“債権”じゃないはずだ。
なのにいつの間にか、俺は債務者みたいな顔をしている。
払う前提で話が進んでいる。
俺が断るという選択肢は、最初から存在していないみたいに。
たぶん彼女は悪気がない。
本気でそう思っているんだろう。
「男なんだから」
「リードする側なんだから」
そういう空気を、疑ったことすらないのかもしれない。
俺は考える。
もし俺が、
「筋トレしてるのは君のためなんだから、今日は全部出してよ」
なんて言ったらどうなるんだろう。
たぶん笑われるか、引かれる。
自分の努力は自分のもの。
でも相手の努力は、自分への投資。
その都合の良さに、少しだけ冷める。
怒りじゃない。
失望でもない。
もっと静かなものだ。
ああ、この人は“対等”って感覚を持っていないのかもしれない、という理解。
好きな人と一緒にいるはずなのに、
どこか試験を受けている気分になる。
金額で測られる好意。
支払いで証明する愛情。
俺はレジ前でカードを差し出す自分を想像する。
彼女はきっと笑顔で「ありがとう」と言う。
その笑顔はきれいだろう。
でもその裏で、
払わなかった場合の未来を想像してしまう自分がいる。
それってもう、少し壊れてないか。
好きって、こんな駆け引きみたいなものだったっけ。
俺はまだ何も言っていない。
言えないまま、たぶん今日も払う。
でも、心のどこかに小さなメモが残る。
この違和感は、忘れない。
積み重なったら、たぶん俺は静かにいなくなる。
怒鳴りもせず、
責めもせず、
ただ、フェードアウトみたいに。
彼女はきっと言う。
「急に冷たくなった」って。
でも急じゃない。
ずっと前から、
俺の中では、少しずつ温度が下がっていた。




