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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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過去記録の変質 ― レミルの存在が書き換えを起こす

レミルの胸の奥で、胸紋が――ドン、とひときわ強く脈打った。


 その瞬間、アーカイブ棟の薄闇に沈む封印ファイルの紙面が、わずかに震えた。風はない。機器の振動もない。それでも古びた紙は、レミルの鼓動に呼応するように、呼吸を始めた。


 行間が柔らかく“膨らむ”。

 まるで紙そのものが肺を持ち、息を吸い込んだかのように。


 次いで、文字列が微細に揺らぐ。

 熱気のすぐ上を漂う空気の歪み――あの、陽炎にも似た波が、インクの縁を撫でていく。黒々とした文字はその揺らぎの中で、ところどころが薄い蒼へと淡く変色した。


 アデリアは思わず息を呑んだ。

 その変化は、劣化ではない。化学反応でもない。

 もっと別の――“外側”からの圧力だ。


 レミルは胸に手を押し当て、肩を震わせる。

 脈動のたびに、紙面も共鳴し、繊維が逆方向から押し広げられるように波打った。


 「……っ、なんで……紙が……」


 自分の鼓動が、世界の固定情報を揺らしている。

 その恐怖を理解する前に、レミルはひたすら胸紋の熱に翻弄されるしかなかった。


 アデリアは紙を凝視し、低く呟く。


 「……これは“閲覧”じゃない。

  向こうからの――返答。」


 リオが顔を強ばらせる。


 「返答……って、まさか、第四層が……?」


 アデリアはほんの一瞬、レミルを見つめる。

 彼女の胸に刻まれた紋様――その中心部が入口と出口、両方の構造を持つ異質な観測点だと、今なら分かる。


 「レミルの胸紋が……“戻り波”を許しているのよ。

  だから紙が揺れる。

  向こうが――こちらへ触れてきてる。」


 レミルは、震えた息のまま、紙面の揺らぎを見つめた。

 言いようのない寒気が、背骨を指でなぞるように這い上がった。


 それはもう、偶然ではない。

 紙が呼吸しているのではない――


 紙が、レミルの存在に“応答”しているのだ。


ページをめくりながら、アデリアは記録の一行を指でそっとなぞった。

 その瞬間――ぴくり、と紙が指先の下で脈打った。


 「……え?」


 反射的に手を止める。

 紙が湿っているわけでも、破れているわけでもない。

 だが、確かに――触れた指先を押し返すような微かな鼓動があった。


 アデリアは眉を寄せ、視線を紙面へ落とす。


 そこには、薄闇の中で静止しているはずの文字列が、

 レミルの胸紋と同じテンポで震えていた。


 黒インクの輪郭が、かすかに上下へ揺れ、

 行間が呼吸のようにゆっくり膨らみ、また閉じる。


 アデリア(ほとんど息で)

 「……紙が、反応してる……?

  違う……これは“同期”……?」


 室内の空気がひどく重く感じた。

 まるで紙一枚一枚の向こう側に、別の“視線”が滞在しているかのような。


 アデリアはゆっくり顔を上げ、レミルを見る。

 レミルの胸紋は、衣服越しでもわかるほど熱を帯び、規則性のない光脈を刻んでいた。


 アデリアの瞳が強張る。


 紙の変質は偶然でも、機械的反応でもない。

 原因はレミル。

 そして、その背後に――


 “向こう”がいる。



胸の奥が、じんと熱を帯びはじめた。

 衣服に触れる布の感触さえ遠のくほど、胸紋の位置だけが浮き上がっている。


 次の瞬間――

 皮下を細い糸で引かれたような痛みが、胸から喉へ向かってすうっと走った。


 レミルは思わず息を呑む。

 だが、ページから視線をそらすことができない。


 むしろ――

 **ページの側が、わずかに“寄ってきている”**ように見えた。


 印刷されたはずの文字が、紙面の上で静かに位置をずらし、

 レミルの視線を追うように動く。

 目を向けた部分が、吸い込まれるように濃くなり、

 紙の繊維がさざ波のように立ち上がる。


 内心

 (……まただ……

  今度は、ページが……動いてる……?

  これ……私の、せい?)


 視界の端で、線の粒がざわつく。

 散乱して漂っていたはずの粒たちが、

 今はまるで“嗅ぎつけた”かのように――


 変質した文字の上へと吸い寄せられていく。


 紙と、文字と、粒と、胸紋。

 四つの要素が、同じ拍動で縮んだり広がったりしている。


 レミルは気づく。


 これは、ページの変質に自分が反応しているのではない。

 自分の反応に、ページが従っているのだ。


 ――レミル自身が、

 “観測の起点”になり始めている。


リオが思わず身を乗り出す。

アデリアはその肩を軽く押さえ、紙面に走る微細なひずみを凝視した。


紙の上では、古いインクがにじむように――しかし決して“劣化”ではあり得ない方式で――語句が入れ替わり、行間が押し広がり、また閉じていく。

それらはレミルの胸紋の淡い脈動と、呼吸のリズムさえ真似るように、僅かなタイミングの遅れで反復していた。


アデリアは、冷えた指先で紙縁をすべりながら、低い声で呟く。


「……第四層が、記録を“通じて”応答してる……?」


リオの眉が跳ねた。


「応答……? 観測じゃなくて?」


アデリアは短く息を吸い、レミルと揺らぎの重なった紙面を交互に見つめた。

その目は、解析者特有の、確信と恐れが同時に立ち上がるときのものだった。


「観測だけなら、情報は一方向。

 こちらが“見ている”だけで、向こうは何もしない。

 でも――今起きてるのは記録書き換えよ。」


彼女の指先が、変質した語句に触れようとして思わず止まる。

紙の文字列は、あたかも触れられるのを待つ生き物のように、わずかに脈動していた。


「これは向こうがこちらに“触れようとしている”証拠よ。」


リオの喉がごくりと鳴る。


レミルの胸紋が、またひとつ熱を放った。

レミル自身の鼓動に、紙面の語が呼応する。


アデリアの言う“触れようとしている”は、まだ誰も知らない段階の名だ。

――やがて訪れる“名の呼びかけ”現象の、その最初の呼気であることを、

この時点では、まだ三人とも理解していなかった。


リストの束から一枚が、ひとりでに羽ばたくように震えた。

アデリアがそっと押さえると、紙面の中央――過去接触者の名前欄に置かれた一行が、かすかな光沢を帯びる。


〈ノル・アヴェル〉。


そこに刻まれていたはずの字のひとつが、蝋のように輪郭を失い、

“溶け落ちる”という常識外れの変化を始めた。


黒インクの滴が文字枠の下へ垂れ、紙の上で細い川を引く。

そしてその滲みが、勝手に形を寄せ合い、別の字形へと収束していく。


〈ノル・アルミ〉。


「……っ」

リオが息を呑んだ。顔から血の気が引き、肩が硬直する。


レミルも動けなかった。

胸紋が痛む。

その痛みの拍動に合わせるように、変質した文字が微かに脈を打つ。


アデリアは紙面とレミルの胸元を交互に見比べた。

視線の揺れは一度きり。次の瞬間には表情を固め、言葉を選ばぬ硬い声で告げる。


「……レミル。

 あなたの“存在情報”が、この記録に干渉している。」


レミルの喉に、かすれた音がひっかかった。

ページの文字は、確かに――自分の名の“欠片”を吸い込んで形作られていた。

ひとつの過去が、静かに書き換えられつつある。


それは、意図ではない。

けれど確かに、レミルを“起点”とした変化だった。



レミルの指先が震えた。

胸の奥で、胸紋が脈を打つたび、熱が刺すようにせり上がる。


「ご……めん……わ、たし……何を……」

声にならない。喉の形だけが震えて、音が切れた。


視界の端で、例の“線の粒”がざわつき始める。

最初は散らばっていたはずの光が、まるで呼吸を合わせるかのように一定のリズムで渦を巻き――

ゆっくりと、紙の上の“歪んだ名前”へ吸い込まれていく。


中心へ。

その“変わってしまった文字”の一点へ。


(……見ろ……?

 そこを……見せようとして……る?)


意図を持たないはずの粒子が、まるで導くようだった。

レミルの心拍が跳ね、胸が詰まる。

呼吸が浅くなり、視界の周囲が急速に暗く縁どられていく。


変質した名前だけが、不自然な明るさで浮かび上がる。


〈ノル・アルミ〉。

自分の名の音を含んだ“異物の記録”。


その中心が――鼓動している。


胸紋の熱がさらに強まり、レミルは耐えるように胸を押さえた。

足元が揺れ、視界が細い筒のように狭まっていく。


恐怖は理解よりも速く、

“何かが自分を通して見ている”という感触だけが、確かな現実だった。


アデリアの手が、ぱし、と鋭くリオの腕をつかんだ。

その力は、迷いの入り込む余地のない“止めだ”という一撃だった。


「触らないで。」

アデリアの声音は低く、しかし震えるほど真剣だった。

その目はページでもリオでもなく――レミルへと向いている。


「今は――記録そのものが、レミルと繋がってる。」


リオは息をのみ、半歩あとずさる。

視線の先で、歪んだ文字がレミルの胸紋の鼓動に合わせて、ほの青く瞬いていた。


「じゃあ、このまま放置したら……?」

リオの声は、乾いていた。

“ありえるのか?”という恐怖ではなく、“もう起きているのか?”という確信の色を帯びて。


アデリアは短く息を吸い、

すでに否定する余裕もない表情で答えを告げた。


「“過去”が変わるわ。」


その言葉が落ちた瞬間、

部屋の空気は音のないまま、さらに冷え込んだ。


レミルの胸紋が、再び強く脈打つ。

それは――過去そのものが、彼女を介して書き換えられつつある証のように。







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