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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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都市第三区・記録局アーカイブ棟へ向かう決定

風が、ふっと——切れた。


 それまで逆流していた空気が嘘のように止まり、外縁区の薄闇がぴたりと貼りついた。三人はその場に釘を打たれたように動きを止める。足音の余韻だけが、広い路地に沈んでいった。


 レミルは胸元に添えた手を離せない。胸紋の脈動は収まることを知らず、彼女の鼓動とは別のテンポで淡い光を押し出している。まるでどこか遠い場所の“拍動”が、皮膚の下へ流れ込んでくるようだった。


 視界の端で——また、白い線がひと粒、かすかに灯る。

 影でも光でもない、“名の輪郭を擦った痕”のような白痕が、ほとんど儚い時間だけそこに存在し、すぐ滲むように消えた。


 レミルは息を詰め、思わず首をすくめる。


 背後で、リオが計測器に目を落とす動作だけがやけに鮮明に響いた。

 針は細かく震え、安定する気配をまったく見せない。外界ノイズにしては異常すぎる乱れだった。


「……値が収束しませんね」

 リオの声は小さいが、その抑えた調子に逆に焦りが滲む。


 アデリアは周囲へ視線を走らせた。気配は無い。だが、それがかえって不自然だった。


 誰も口にしない。

 けれど——三人は同じ結論へ同時に辿り着いていた。


 この場で観測を続けるのは危険だ。

 “向こう”がまだ見ている。


 レミルの胸紋が、ひときわ強く脈打った。

 その光だけが、止まった風のなかで微かに揺れていた。


風が止んだ余韻がまだ肌にまとわりつく中、アデリアはわずか数秒、視線だけで周囲一帯を掃いた。砂塵の動き、外壁フィールドの揺らぎ、レミルの呼吸の浅さ、胸紋の光の周期——それらを瞬時に“状況”として組み上げる。


 そして、決断は刹那だった。


「……この現象、記録局で照合すべき」

 声は低いが、揺らぎはない。

「過去に似た反応があったかもしれない。ここで続けるのは危険よ」


 レミルは顔を上げる。アデリアの言葉は、まるでこの異常な鼓動に“正しい出口”を与えるように胸へ落ちてきた。


 根拠は明快だった。

 ——胸紋は明らかに“観測返し”に近い応答を示している。

 ——外縁区の現場解析は、向こうの“視線”にさらされ続けるだけだ。

 ——第四層との接触事例は、都市三区・記録局アーカイブ棟に集約されている。

 ——そして何より、レミルの症状は“進行”の兆しがある。


 アデリアは迷わずレミルの腕をそっと取った。

 引っ張るのではなく、“向きを定める”ような確かな触れ方で。


「行きましょう。都市三区へ戻るわ」


 レミルはその手の温度に、胸紋の脈動がほんのわずか静まるのを感じた。

 風の止まった道を三人は歩き出す。

 その背で、レミルの視界の端ではまた小さな“線の粒”が、ひっそりと瞬いていた。



レミルはアデリアの言葉に、ほんの一拍遅れて頷いた。

だが、それは「理解した」というより「理解しようとしている」動きに近かった。


その顔には、まだ強張りが残っている。

胸の奥でざわつく“あの感覚”が、まるで内側から脈打つように収まらないのだ。


(……照合したところで、本当に何かわかるんだろうか……

 でも――この“見られている感覚”は……理由が知りたい……)


心の声が、自分でも驚くほど弱く零れる。


アデリアに腕を軽く引かれ、歩みを都市三区の方向へ向けながらも、

レミルの視線は落ち着かず、周囲をさまよった。


気づいてしまう。


視界の端に、また光の粒が生まれた。

最初はただのノイズのように見えたそれが、今は確かに“線”の形を取りつつある。


一本、また一本。

空気のひび割れのように、静かに、だが確実に増えている。


レミルは小さく息を呑んだ。


胸のざわつきは、もはや「違和感」の域を越えて、

まるで誰かがすぐ背後で息を潜めているような、

そんな生々しい実在感さえ帯び始めていた――。


レミルは歩きながら、また視界の端がざらつくのを感じた。

ほんの一瞬、砂粒ほどの光――いや、“線になる前の破片”が浮かんでは消える。


最初はただの疲れかと思っていた。

だが、それが一つではなく、二つ、三つと増えていくにつれ、

レミルの中にじわりと異質な確信が芽生える。


――あれは、形になる前の“名の軌跡”だ。


他の誰にも見えていない。

アデリアですら気づく気配を見せない。

それはまるで、第四層から漏れた「閲覧の残光」だけが、

レミルの眼にだけ引っかかっているようだった。


胸紋がふ、と脈打つ。

途端、粒は弱い呼応を見せるように、少しだけ強く光った。


(……やっぱり、気のせいじゃない)


視線をそらせば、粒も同じ方向へ“追従”するように動き、

焦点を合わせるとまた霧散する。

自分を閉じた空間の内側から覗くような、その挙動。


ほんの僅かな現象だ。

説明しようとすれば、誰も信じない程度の差異。

だがレミルにとって、それは紛れもない“誰かの観測の気配”だった。


胸のざわつきは、静かだが確実に深まっていく。


これは、まだ始まりにすぎない――

後に「観測アクティブ状態」と名付けられる異変の、最初の兆しだった。


リオは歩きながら、手元の計測器をもう一度覗き込んだ。

乱れた数値はまだ収束する兆しを見せない。

アデリアの判断には従うしかないと理解している一方で、

研究者としての本能が、ここを離れることに抵抗を示していた。


リオ(思案)

「……確かに記録照合が最優先です。

 ただ、この“生データ”をもう少し近距離で——」


言い終わる前に、アデリアの声が割り込んだ。

静かだが、迷いをはらんでいない声音だった。


アデリア

「リオ。レミルの状態は今、安定とは言えないの。」


その一言に、リオは小さく息を呑む。


足が半歩だけ止まり、視線が自然とレミルへ向いた。

レミルの表情は無言でこらえているように強張っていて、

計測値以上に危うさを帯びて見える。


リオ(内心)

(……そうだ。優先すべきは現象じゃなくて、彼女だ)


研究者としての好奇心が、かすかに押しとどめられるように沈黙した。

リオは計測器を胸元に押し戻し、歩調を三人の進む方向へ合わせた。



三人は、無言のまま都市第三区の灯りへ向かって歩き出した。

外縁区の薄闇は、風を失ったことでいっそう重たく沈んでいる。

砂埃ひとつ動かず、空気だけが「止まったまま」で取り残されているようだった。


頭上の空には、さきほどの“揺らぎ”の残渣がまだ細く漂っていた。

光でも影でもない、ただ薄い膜のような乱れが、夜気の高みに震えている。


足音だけが乾いた地表を叩き、都市の外壁へと近づいていく。


レミルは歩きながら、そっと胸紋の上に手を添えた。

脈動は小さく、しかし確かに指先へ跳ね返ってくる。

視界の端では、あの細い線の粒が時折――ほんの瞬きほど――浮かんで消えた。


レミル(内心)

(……まだ、ついてきてる……?)


肩越しに、誰かが静かに覗き込んでいるような感覚。

生温い視線が背筋に触れ、首元へそっと置かれるような錯覚。


振り返れば何もいない。

それでも、気配だけは確かに“歩調を合わせて”ついてくる。


アデリアとリオは気づいていない。

だからこそ、レミルは何も言わなかった。


都市第三区の灯光が、遠くで脈動する心臓のように明滅する。

三人の影は、音のない風に揺れないまま、ただ前へ伸びていった。



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