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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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夜明け前の都市・揺らぐ胸紋

夜がほどけきる前の外縁区は、いつも以上に静かだった。

 空はまだ群青の底に沈んだままで、都市三区の灯りだけが、遠くで水面のように揺れている。風は弱く、しかし向きだけがおかしかった。都市へ向かう三人の背後、外縁の闇のほうから、そっと押し返してくるように吹いてくる。


 レミルは胸元を押さえたまま歩いていた。布越しに伝わる鼓動とは別の、もっと深いところで脈を打つ気配がある。

 ――まだ、見られている。

 そんな感覚が、皮膚の内側でじわりと息を潜めている。


 足音を最小限に抑えて進む三人の呼吸さえ、空気に溶けずに停滞するようだった。ミレイアが前方を鋭く見据え、アデリアは何度も振り返り、そのたびに外縁の暗がりを探る。


「レミル、胸紋は……まだ?」

 アデリアの声はほとんど囁きだった。


 レミルは呻くように息を吐き、小さく頷く。

「止まらない。さっきより……強くはないけど……どこかで“視て”くる気配が、まだ残ってる」


 微かな風が三人の間を通り抜ける。だが冷たさよりも、その風向きの不自然さが神経を逆なでする。都市から外縁へ吹くはずの気流は、なぜか逆流し、外縁の闇から都市へ押し寄せていた。


「……嫌な感じね」

 ミレイアが短く言う。手は剣に触れはしないが、いつでも動ける姿勢を崩さない。


 明かりの乏しい路面に三人の影が寄り添うように伸び、揺れ、そして途切れる。

 夜明け前の群青は次第に薄まりつつあるはずなのに、背後の闇だけは深さを増していくように思えた。


 レミルは胸紋に触れた手をそっと離し、深呼吸を一つ。

「……大丈夫。歩ける。だけど、ちょっと急ごう。あの視線が、完全に途切れる前に」


 ミレイアとアデリアがそれぞれ頷き、三人は都市三区へ向けて再び歩き始めた。

 それでも、誰も口にはしなかったが――


 振り返れば、何かがそこに立っている。

 そんな錯覚を、誰も拭えずにいた。


レミルの胸紋は、歩くたび微かに揺れた。

 しかしその揺れは彼自身の鼓動とは一致していない。まるで別の生き物が皮膚の下で、独自のリズムで呼吸しているように――弱い光が、伸びたり縮んだりを繰り返していた。


 指先で触れれば、脈ではない“動き”が返ってくる。

 そのたびに、胸の奥で冷たい波がざわついた。


(……まだ、終わってない)

 レミルは心の中だけで呟く。


 胸紋の脈動は、第9節で刻まれた“観測点”の余韻が抜けきっていない証拠だった。一度きりのものなら、とうに消えている。だが今も続くこの反応は、観測が一瞬で途切れる種類のものではないことを示していた。


(さっきの“観測”は、一度で済むはずがない……)


 視線を感じる。

 それも、真正面からではなく――横合い、ほんの数歩離れた位置から覗き込まれているような、妙な角度の視線。


 首筋にふっと冷たい気流が触れた。

 身をすくめるほどの温度ではないのに、肌の上だけを逆向きに撫でていくような感触が、全身をざわつかせる。


 都市へ向かう空気の流れとは真逆。この場の理屈に反した、逆行の風。

 それが、まるで“誰かの吐息”のようにレミルへ届く。


 歩調だけは崩すまいと意地で保っていたが、時折、肩がかすかに震えた。

 アデリアやミレイアに気づかれないほどの小さな震え――しかし、自分自身には誤魔化せない。


 胸紋がまた、ぽたり、と光をこぼすように脈動する。

 そのテンポは、やはりレミル自身の心臓とは無関係だった。


(……見られてる。まだ、ずっと)

(終わったように見せて、終わらせる気なんて……最初からなかった)


 胸の奥に沈む、不気味な確信だけが、歩くたびに静かに膨らんでいった。


ふいに、三人の髪が同じ方向へ揺れた。

 それは都市へ向かう風ではない――まるで境界のほうから、見えない手が押し寄せてくるような、逆向きの流れだった。


 アデリアが一歩だけ足を止め、わずかに眉を寄せる。

 声は低く、しかし確信に満ちていた。


「……この風、逆だわ。」


 普段なら、外縁区から都市内部へ向かって吹く安定した風。

 領域圧の差によって起きる自然な流れ。

 それが今は、真逆に押し返されている――外圧の傾斜が、意図的に反転させられたかのように。


 レミルの足元で、落ちていた紙片がすい、と動いた。

 都市側へ吹き飛ばされるのではなく、境界の方向へ“引かれていく”。

 細かな砂埃までもが、地表を這いながら同じ方向へ吸い寄せられ、揃って流れていった。


 ミレイアが息を呑むのがわかる。


「……外壁フィールド、揺れてる」


 遠く、都市の外壁を囲む透明の結界フィールドに、薄い波紋が走っていた。

 音もなく、ただ光だけが水面のようにたゆたっている。


 通常、あの層理は外部からの干渉で微動だにしない。

 それが“向こう”から押されるように、静かに揺れている。


 アデリアは唇を引き結び、レミルへ目を向けた。

 胸紋の脈動と、この風の逆流――

 どちらも偶然では済まない事象だった。


 空気そのものが、境界のほうを“正しい上位”として扱おうとするかのように、世界のバランスがわずかに傾いている。


 レミルの胸紋が、また淡く明滅した。



レミルは胸に手を当てた。

 脈動と呼吸を合わせようとするが、胸紋の鼓動は人の拍動とは別の律動で鳴り続けている。

 その不協和が、胸の奥でかすかな寒気となって広がった。


 彼女はふと後ろを振り返る。

 何もない。

 ただ、濃い群青の空気が沈んでいるだけ――それでも、“視られている”感覚は去らない。


 気づけば歩く速度が自然と落ち、足音が他の二人より半拍遅れる。

 前を向き直っても、背筋をなぞるような悪寒は消えなかった。


 アデリアは黙ってレミルの横に寄り添う。

 レミルがわずかでも呼吸を乱せば、その変化を見逃すまいとするかのように、一瞬ごとに横顔を確かめていた。


 彼女の指は無意識に腰のスキャナーのホルスターへ伸びていた。

 今、声を出せば、何かが“応答してしまう”。

 そんな予感が喉に絡みついて、あえて口を閉ざし続ける。


 リオは二人の少し後ろを歩いていた。

 一見すると落ち着いているようで、しかしその手元では携行計測器の針が激しく揺れている。

 通常の反応値を軽く越えた波形が乱れ、予測線が何度も跳ね上がる。


 彼は眉をわずかに寄せ、画面を角度を変えながら見つめた。

 恐怖よりも――分析したい、理解したい、という衝動が勝っている。

 レミルの胸紋と、この逆流する風、外壁フィールドの波紋。

 それらすべてが一つの式にまとまりかけている気がして、思考が引き戻せない。


 三人の足音は揃わなくなり、そのわずかな乱れが、夜明け前の沈んだ空気に深く溶け込んでいった。


歩みを進めるたび――レミルの視界の端に、かすかな“白い擦れ”が走った。


 影でも光でもない。

 ただ、名の輪郭だけを細く削り取ったような、白痕の粒。


 振り向けば消える。

 正面を向いていても、焦点を外した瞬間だけ浮かんではほどけていく。

 第九節で見た「歩み跡」の名残に似ているが、形にはならず“視線の残滓”だけが残っている。


 その白痕が現れるたび、胸紋が一拍だけ、強く脈打った。

 コン、と骨の奥を叩かれるような衝撃。


 レミルは喉の奥が固くなるのを感じ、短く息を呑む。


(……まだ、触れてくる……

 完全に引いたわけじゃない……)


 心の声が胸の光に吸い込まれていくようで、足元の冷気が一段と深く感じられた。



歩みを進めるたび――レミルの視界の端に、かすかな“白い擦れ”が走った。


 影でも光でもない。

 ただ、名の輪郭だけを細く削り取ったような、白痕の粒。


 振り向けば消える。

 正面を向いていても、焦点を外した瞬間だけ浮かんではほどけていく。

 第九節で見た「歩み跡」の名残に似ているが、形にはならず“視線の残滓”だけが残っている。


 その白痕が現れるたび、胸紋が一拍だけ、強く脈打った。

 コン、と骨の奥を叩かれるような衝撃。


 レミルは喉の奥が固くなるのを感じ、短く息を呑む。


(……まだ、触れてくる……

 完全に引いたわけじゃない……)


 心の声が胸の光に吸い込まれていくようで、足元の冷気が一段と深く感じられた。







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