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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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レミル、アデリアに報告する

レミルは、ためらうように一度だけ深呼吸をしてから──

コツ、コツと、控えめなノックをした。


返事を待たず、そっと扉を開ける。

薄い魔封灯に照らされた仮設ラボの空気は、夜の外気よりも冷たい。


アデリアは、壁一面に展開した結界異常の速報スクリーンを睨みつけていた。

数字と波形が怒涛のように走り、黒銀のノイズがかすかに画面を揺らしている。


レミルが入ってきた音に、アデリアは顔だけを上げた。


ほんの一瞬だけ、目が合う。


その瞬間、アデリアの表情がわずかに変わる。

驚きではなく──

**「ああ、やっぱり」**とでも言うような、冷静で鋭い確信。


アデリア

「……何か、あったわね?」


レミルは唇を噛んで、小さく頷いた。

その仕草だけで、アデリアには十分だった。


“持って帰ってきた”──

第四層が刻む痕跡を。



レミルは、喉を震わせながら言葉を探した。

だが結局、説明よりも“見せた方が早い”と悟ったのだろう。


そっと上着の前をつまみ──

ためらいがちに、胸元を開いた。


薄い布の下から、

淡い光が呼吸するように脈動してあらわれる。


アデリアの表情が、一瞬だけ固まった。


胸の中央に浮かぶそれは、

印とも紋章ともつかぬ奇妙な図形だった。


円形ではない。

象徴体系のどれにも該当しない。


絡み合う曲線が、まるで一筆書きが途中で止められたように宙で千切れている。

端は閉じられておらず、未完成なのに、未完成のまま脈打っている。


しかも──


見る角度によって、線の重なりが別の形に“変わるように見えた”。


完全な紋ではない。

意味の定まらない“起点”そのもの。


レミル

「……さっき、またあの“囁き”がしたの。

 それに、気づいたら……ここが、光ってて……」


アデリアは、その言葉を聞き終えるより早く席を立った。

まるで反射のように。


その目には、警戒ではない。

――明確な危機の確信が宿っていた。



アデリアは、魔導計測器の起動に手を伸ばしかけ──

しかし直前でその動きを止めた。


こんなものに“測らせる”べきではない。

むしろ、機器を介した瞬間に向こう側へ観測情報が漏れる。


彼女はゆっくりと手を伸ばし、

光を遮らぬ距離でレミルの胸紋に掌をかざした。


熱はない。

痛みもない。

だがそこには、リズムがあった。


脈とも違う、呼吸とも違う。

外から押し寄せ、内側へ流れ込むような、奇妙な往復。


アデリア

「……やっぱり。

 “反応”してるわね。

 これはただの刻印じゃない。」


レミル

「消えないの……? 水でこすっても指で触っても……」


アデリアはためらいなく首を横に振った。

否定というより、“消そうと考えたこと自体が危険”だと言うように。


アデリア

「消すほうが危険よ。

 これは“場所”を指す記述……

 ――いいえ、**場所になる“一点目”**ね。」


レミル

「……一点目?」


アデリアは静かに息を吸った。

目の奥に、観測者特有の緊張と理解が同時に灯る。


アデリア

「地点じゃない。

 これは、“地図が描き始められる前の座標”。

 向こうがあなたに、最初の印を刻んだの。」


レミルの胸元に浮かぶ紋が、

アデリアの言葉に呼応するように、わずかに脈を打った。


アデリアは紋から目を離さず、静かに言葉を紡ぐ。


アデリア

「……これは、座標じゃないわ。」


レミル

「……違うの?」


アデリア

「座標というのはね、**既に描かれた地図の上に置く“後づけの数字”**よ。

 位置を示すための記号。

 人が作った枠の中で扱う、ただの点。」


レミルは飲み込みにくそうに眉を寄せる。

アデリアは続けた──容赦なく、しかし優しく。


アデリア

「でも、これは違う。

 地図が描かれる“もっと前”に打たれる、一点目。

 何もない空白に、最初に置かれる“始まり”の印よ。」


レミル

「……始まり……?」


アデリア

「そう。」

「向こう側は、地図を広げるつもりでいる。

 一枚まるごと。

 あなたを“起点”にして。」


レミルの呼吸が止まる。

胸の紋が、まるでそれを肯定するように淡い光を返す。


アデリアの声は静かだったが、その静けさは刃のようだった。


アデリア

「そしてその“起点”として、

 あなたの観測情報が刻まれてしまった。」


レミルの喉が小さく鳴った。

自分が“地図の最初の一筆目”になったという事実が、

ようやく身体に重く沈みはじめる。



レミルの問いかけは、部屋の空気をわずかに震わせた。


レミル

「じゃあ……向こうも、私を見てるの?」


アデリアはすぐに答えなかった。

胸紋の淡い光を見つめたまま、短く息を吸う。

軽く唇を結び、言葉を慎重に編んでいく。


アデリア

「……“観測”って、ただ視線を向けることじゃないの。」


レミル

「……?」


アデリア

「あなたを位置づけること。

 “どこに属させるか”を決める行為よ。」


レミルの肩が震える。


レミル

「……属させる……?」


アデリア

「向こうは、あなたを

 第四層の“地図の端”に置こうとしてる。」


レミル

「端……?」


アデリアは頷いた。その表情には曖昧な表現で包んでいても隠しきれない確信がにじむ。


アデリア

「端はね──地図が広がる方向を決める“始点”なの。

 “こちら側の存在”を、向こうの地図の一部として扱い始めた……

 つまり──」


彼女はそこで言葉を切った。

だが、レミルはもう続きを想像してしまう。


自分が、「含まれつつある」側だということを。


胸の紋が、心臓よりも一拍早いリズムで脈打つ。


レミル

「……向こうの世界に……入れられる、ってこと……?」


アデリアは言葉で肯定しなかった。

だが沈黙は、言葉以上に真実だった。


アデリアは、机端に置いていた端末を素早く操作し、

結界揺れのログをレミルの前にホログラム表示した。


黒銀の波形が脈打つたび、

レミルの胸紋がわずかに呼応して光る。


アデリア

「……見て。」


レミルは息をのむ。


・結界揺れのピーク

・胸紋の発光

・そしてあの“囁き”のリズム


三つが、まるで一つの心臓の鼓動のように完全同期していた。


アデリア

「これ以上放っておけば、

 あなたの“起点”は向こうで地図として展開するわ。」


レミル

「地図……になるって……どういう……?」


アデリアは静かに言う。

その声は焦りを押し隠しながらも、揺るぎない確信を帯びていた。


アデリア

「向こうに描かれる地図は、

 紙じゃなく“存在情報”よ。

 起点が広がれば広がるほど、

 あなたの“場所”は向こう側で固定される。

 そうなれば……」


短い沈黙。


アデリア

「……もう帰って来れない。」


レミル

「そんな……そんなの、聞いてない……!」


胸紋が不安と同調するように、灯りの届かない深部で淡く震える。


アデリアはレミルの肩に手を添えた。

その指には珍しく焦燥が滲んでいる。


アデリア

「だから、急ぐの。

 向こうに位置づけられる前に——

 あなた自身の“名の位置”を、こちら側で確定させるほうが早い。」


レミル

「“名の位置”……?」


アデリア

「ええ。

 あなたが“どこに属するか”を、

 あなた自身が決めるの。」


レミルは震える息を吐く。

胸紋は、あたかもその会話を聞いているかのように、静かに脈動した。


胸紋の脈動が、ゆっくりと沈静していく。

 さっきまで肌の下で暴れていた光は、嘘のように静まり返り――それでも、完全には消えなかった。

 薄灯りのような残滓が、レミルの胸元でときどき呼吸をする。


 アデリアは、レミルの顔をじっと見つめる。

 その眼差しは、厳しさよりも静けさに満ちていた。深い水底で、言葉が選ばれるまで待つような気配。


「レミル」


 名を呼ぶ声は、囁くようでいてはっきりしていた。


「今のあなたは、向こうから見て“消えかけた影”じゃない」


 レミルは息を呑む。

 その続きを、怖くて聞きたいような、聞きたくないような――そんな顔で。


「描き始められた線よ」


 胸の奥がひやりとする。

 まるで、自分の身体がどこか遠くで輪郭を描かれているのを、微かに感じるようだった。


「……それって、私……戻せるの?」


 震えた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。


 アデリアは短く息をつき、しかし即答した。


「戻すわ」


 ひと文字ごとに、結界の脈が微かに反応する。

 その言葉が誓いとして術式に触れたみたいに。


「でも――急がなきゃ」


 アデリアが指を伸ばすと、二人のあいだの空気がほんの少し揺れた。

 結界の余韻と同じ、静かで淡い脈動。

 大きな音はどこにもない。けれど、何かが確実に進んでいる気配だけが、寄り添うように存在していた。


 レミルは胸に手を当てる。

 微弱な光が指先に応え、まるで「急いで」と促してくるようだった。


 二人のあいだには、波形のような静かさだけが残っていた。




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