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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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アデリアの観測室にて — 異常値の波

観測室は夜の名残を引きずったまま、光だけが無駄に点滅していた。

 壁一面の観測盤が放つ淡い青白さが、薄闇に筋のような影を刻む。

 室内の空気は妙に重い。気圧が下がったときの圧迫感とも違う――

 “もっと奥の層”から、何かが目に見えない指でこちらを押し返しているような、

 そんな微細な抵抗が肌を撫で続けていた。


 アデリアは徹夜のまま椅子に沈み込み、半分冷えたカップを押しやる。

 観測盤に流れ続けるログは、途切れる気配を見せない。

 彼女は片手に挟んだ手書きメモをめくり、もう片方の指先で画面の波形を追った。

 指先がほんのわずか震えているのに気づき、深く息を吸う。


「……この周波。境界帯の典型揺れじゃない」

 独り言が、誰もいない観測室に吸い込まれていく。


 画面上の波形は、周期や振幅では説明がつかない“意志めいた偏り”を帯びていた。

 揺れは波ではなく、何かが——“進む方向”を示している。

 ただのノイズに、ベクトルがあるはずがない。


「こんな“方向性”……今まで、一度も……」


 言葉の後半は、疲労ではなく、純粋な緊張で掠れた。

 アデリアはログを巻き戻し、もう一度確認する。

 そして、深夜を越えた観測室の空気の重さが、

 これから始まる事態を静かに告げているように思えた。



観測盤の波形が、唐突に“折れた”。

 まるで誰かが外側から指で押し込んだように、滑らかな線がひと呼吸だけ歪み、

 そこに細い裂け目のような位相ズレが刻まれる。


 アデリアは即座に身を乗り出した。


「……今の、折れ目?」


 波形を戻して拡大する。

 見間違いではない。

 本来なら感知されるはずのない“第四層由来”の位相ズレ――

 観測機の仕様で完全に除外される領域のはずの揺れが、

 ほんの一瞬、ログに傷跡のように残っている。


 さらに数秒後。

 波形が再びゆらぎ、今度は角度を伴った異常値が出現した。

 その角度は、昨夜レミルの胸紋に刻まれた“線”とまったく同じ傾きだった。


「……揺れの角度まで一致? あり得ない……」

 声が震えた。


 アデリアは別モニタを起動し、解析プログラムへ手早く補正をかける。

 揺れの座標を回転させ、合成し、再反転させる。

 通常のノイズなら散って消えるはずのデータが、むしろ収束していく。


 そして――。


 画面上に、一本の細い“線”が浮かび上がった。


「……線……!」

 息を呑む。


 それは波形ではなく、“方向”だった。

 第四層から抽出された何かが、

 レミルの胸紋と同質の座標線として観測盤に刻まれている。


「第四層からの……“方向抽出”……?」


 アデリアは手のひらが汗ばんでいることに気づき、

 それでも視線を画面から外せなかった。



アデリアは震えの余韻が残る手つきで、観測データをさらに深く解析へかけた。

 ノイズと思われた揺れを、時間軸で細かく切り分け、

 それぞれの波形を個別に反転、圧縮、拡張して並べていく。


 その途中で――異常が、はっきりと浮かび上がった。


「……ずれてる。わざと……?」


 波形の山と谷が、ほんのわずかに“観測の直前で姿を変えて”いる。

 不規則揺れとは似て非なる現象。

 これは外乱ではない。

 外側の層の“意志”が、観測されることを避けるように自ら形を歪めている。


 アデリアは眉を寄せ、身を強張らせた。


「……第三層じゃない。」

 声は無意識に低くなる。

「この自己隠蔽……“観測される前に消える”仕草。第四層の特徴そのもの……」


 観測室の空気が、急に冷たく感じられた。


 彼女はモニタに映る揺れを凝視しながら、

 背筋をゆっくりと這い上がる戦慄を抑えきれない。


(第四層が……こちらに“触れてきた”?

 でも、誰に……?)


 その問いが胸の奥で広がった瞬間、

 アデリアは思わずレミルの名を思い浮かべた。



 観測盤に覆いかぶさるように解析を続けていたアデリアの前で、

 通信端末が コトン と控えめな振動を立てた。

 室内の静寂に、その音だけが不自然なほど際立つ。


 アデリアは反射的に端末へ手を伸ばす。

 表示された報告は、たった一行。


《接触班レミル・ユラ帰還。状態:軽度の異常反応あり》



「……レミル?」


 声がわずかに掠れた。

 重ねて点滅する報告時刻を見た瞬間、

 アデリアの呼吸が短く止まる。


 彼女はすぐさま観測盤のログへ視線を戻し、

 揺れの刻印が記録された時刻と照合した。


 ――一致。


 誤差ゼロ。

 まるで、レミルの帰還そのものがトリガーになったかのように。


「……嘘でしょ……」

 震えた声が漏れる。


 だが次の瞬間には、震えもためらいも、確信へ変わっていた。


「レミル……帰還。

 そしてこの観測値……」


 アデリアの青磁色の瞳が、鋭く細まる。


「……やはり、触れたのね。

 第四層の“外側”に。」


 言葉にした途端、

 観測室の空気が、まるで応えるように微かに沈んだ。



アデリアが観測盤の前で固く息を呑んだその瞬間だった。


 壁際に設置された補助観測盤のひとつが――

 パチッ と、針の先で空気を弾くような微音を立てた。


 何の操作もしていないのに、波形が逆方向へ“巻き戻る”。


 ノイズではない。

 データ欠損でもない。


 ――これは逆流だ。


 あたかも、観測していた先の“向こう側”から

 誰かが指先で波形をなぞり、こちらへ押し返してきたような。


「……なに、これ……?」


 アデリアは思わず背筋を震わせた。

 脳裏に、さっきまで読み解いていた第四層の自己隠蔽挙動がよぎる。


 ゆっくりと、無意識のうちに背後へ振り返った。


 薄闇の観測室。

 誰もいない。

 ただ、静寂だけが張り詰めている。


「……戻ってきたのはレミルだけじゃない、ってこと?」


 震えを抑えきれず、吐息のように小さく呟いた。


 が――次の瞬間。


 逆流していた波形は、

 最初から存在しなかったかのように

 完全に“消えた”。


 ログにも、痕跡は一つも残らない。

 ただの錯覚だったと言われても反論できない完璧な消失。


 けれどアデリアだけは知っていた。


 これは誤作動ではない。

 こちらを見た“何か”が、確かにいた。


 そしてこれは後に訪れる

 「最初の返答」への、たった一度の呼吸だった。



アデリアは、胸の奥に沈んでいく冷たい直感を振り払うように、

 勢いよく椅子を押しのけて立ち上がった。

 金属脚が床を擦り、観測室の静寂に鋭い音が走る。


 彼女の視線は、先ほど浮かび上がった“線”へと吸い寄せられる。

 薄闇の中で、観測盤の表示はまだ微かに震え、

 まるで存在理由を主張するかのように明滅していた。


「私も……準備しないと。

 これは、ただの帰還じゃ終わらないわ。」


 その言葉は、自分に言い聞かせる呟きというより、

 迫り来る“何か”に対する宣言に近かった。


 次の瞬間――

 観測室の天井灯が、ノイズを拾ったようにふっと歪む。

 一瞬の光の揺らぎ。

 だがアデリアは、逃すまいと反射的に顔を上げた。


 ただの照明の不調。

 そう片づけられるほど安い症状ではない。

 空間の膜を撫でるような、薄い位相のたわみ。

 第四層が得意とする“触れ方”。


 アデリアは奥歯を噛みしめる。


(……第四層が、もうこちらを測り始めている。)


 観測盤の淡い光が、彼女の瞳に線を描く。

 その光を振り返るように、アデリアは静かに息を吸った。


 避けられない波が来る。

 レミルの帰還は、その“最初の揺れ”に過ぎない。

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