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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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沈黙の都 ― The City of Silent Echoes   沈黙の都への到達 ― 中立世界の誕生

境界層を抜けた瞬間だった。


レミルの足先が空気を踏んだ感覚と同時に、

世界から音が消えた。


上昇流はもう天へ伸びない。

落下流は地へ落ちない。

ただ、中空で幾重にも重なり、

液体の層のようにゆるやかに揺れていた。


ひと呼吸分の停止。

世界が、息を止めたのだ――そうとしか思えない。


レミルは息を吸い込もうとして、その静けさに驚いた。

音がない。風も、砂の擦れも、遠い地鳴りすらも。


まるで、世界が耳を澄ませているようだった。


街路へと足を踏み出す。

途端、景色が「呼吸」した。


建物の外壁が、ふくらんだり、へこんだり。

音のない波紋のように、無数の家々がゆっくり脈動していた。


窓枠が微細に震え、

足元の石畳は、柔らかい泥のようにわずかに沈む。

押し返す力はなく、ただ、受け入れるように包む。


レミルの胸がざわついた。


――都市が、生きている?


呼吸する街並みのあいだを、

光と影が絡まり合いながら漂っていく。


上昇する祈りの光粒。

落下で千切れた記憶の残響。

それらが衝突も拒絶もせず、

淡い渦を描きながら、静かに混じり合っていた。


けれどその均衡には、どこかぎこちない震えがあった。

擦れ合う前の弦のように、調律の途中のような――

完成しきれていない世界の息遣いだった。


そのとき、レミルの胸が軽く脈打った。


胸元の紋が、弱々しい光を宿している。

痛みではない。

世界が、彼女の刻んだ“原初名”に反応している。


(……私が、これを……?)


都市全体が、彼女を基点に生まれようとしている――

その事実が、誇りにも、恐怖にも似た感情を胸の奥に走らせた。


足を進めるたび、空気がかすかに震える。

世界が、彼女の歩みに調律しようとしているようだった。


風は吹かないはずなのに、

どこかから微弱な「音」が流れてきた。


音と言うより、律動。

生まれたばかりの世界が、自分をどう保つべきか

探っているような、そんなリズム。


天も地も停止した沈黙の都――

その中心に、彼女が立つ。


名を刻んだことで、世界が創り出した“第三の帯”。

上昇と落下の狭間に生まれた、断絶なき世界の中庭。


レミルは息を呑む。


この静寂は終わりではなく、始まりだ。

世界が、新たな法則を書き込む前の、一瞬の白紙。


彼女の手の中にあるのは、

ただの名ではない。

世界そのものの――再定義の権利。


その理解が、胸の紋の脈動とともに

ゆっくりと彼女を満たしていった。



レミルの胸紋が、ひときわ強く脈打った。

光が指先まで響くような痛みに似た熱。

次の瞬間――


“透明な鐘”が鳴った。


音はない。

なのに、空気そのものが震え、

都市の全層に波紋のような振動が広がっていく。


沈黙の都が、ついに動き始めた。


▼① 壁に浮かぶ落下者の残響


最初に反応したのは、街の壁だった。


無機質だった外壁が、

まるで内側から手で押されたようにふくらみ――

淡い光を宿し、そこへ“影の文字”が浮かび上がった。


黒でも白でもない、

落下の途中で千切れた記憶が、

都市によって翻訳され、文字として流れ始める。


ひとつ、またひとつ。


――失われた名前

――届かなかった祈り

――断ち切られた行路


それらは壁面を走り、

淡雪のように溶けては別の場所へ移動していく。


レミルはそのすべてを“読めてしまった”。


原初名に触れた者の副作用――

名は、彼女の中で意味を隠せない。


理解が胸を締めつける。

けれど視線を逸らせない。


▼② 上から漂い降りる登攀者


天井のない空間で、かすかな影が揺れた。

見上げると――誰かが“落ちて”くる。


いや、落ちてはいない。

水中に体を預けるように、

重力の形を失ったまま ふわり と舞い降りてくる。


数人の登攀者が、戸惑った顔で都市へ着地した。


「……上に向かっていたはずなのに」

「頂層のすぐ近くまで行ったのに……どうしてここに?」


彼らは“落ちていない”。

だが“登って”もいない。

ただ、沈黙の都へ吸い寄せられた。


断絶が消えつつある――その最初の現象だった。


▼③ 下から混ざり込む声


今度は下層から風が吹き上がる。

レミルの髪が揺れ、足元の石畳が淡く光った。


その風には、声が混ざっていた。


落下の最果てで霧散したはずの声たち。

祈り、後悔、嘆き、願い。

形を持たぬはずの感情が、

記憶の波となって都市に届いている。


それはもう幽霊ではなく、

ただ“帰る場所を得た記憶”。


声は風の中で静かに重なり合い、

沈黙の都全体を満たしていった。


▼レミルの理解


レミルはゆっくりと周囲を見渡した。

上から降りる音、

下から届く声、

壁に流れる記憶の文。


そのすべてを見届けて、

静かに息を吸う。


「……届いている。

  上も、下も……ここでは分かれていない」


確信は温かい。

だがその奥に、微かなざわめきが混じった。


世界は動き始めた。

けれど――

完全に安定するには程遠い。


胸紋がまた、ひとつ脈打つ。

それは、都市がこれから迎える混乱を

ささやかに警告するようだった。



沈黙の都は、たしかに“対等性”を得ていた。

祈りも記憶も、上も下も、ここで交わっている。

だが――その均衡は、恐ろしいほど脆かった。


▼均衡の歪み


レミルが一歩踏み出すと、

その足音が波紋のように都市へ広がった。


次の瞬間、世界がわずかに“軋む”。


重力方向が、ほんの刹那だけ反転した。


都市の中の小石がふわりと浮き、

次の瞬間には地へ沈むように落ちる。


空に散った祈りの光粒が、

跳ねるように暴れ、

まるで見えない水面で跳ね返されているかのように揺れた。


壁に流れる影の文字も、

突如として歪み、

意味の断片を引き裂かれた語句のように読めなくなる。


そして空気そのもの――

層を成していた静謐な空気が、

波打つ布のようにざらりと揺れた。


まるで都市全体が、

ひとつの巨大な生き物のように痙攣している。


▼レミルの感覚


レミルは胸に手を当てた。

そこには淡い光を宿した紋がある。


その紋が、

――どくん、と脈打つ。


同じ瞬間、都市の空気が震えた。


どくん。

祈りの粒子が跳ねる。


どくん。

影文字が渦を巻いて流れる。


どくん。

重力線が揺らぎ、方向性を失う。


都市が、レミルの心臓の拍動に同調していた。


彼女は、息を呑む。


「……私の“名”が、まだ世界に馴染んでいない……?」


名――

原初名を刻むとは、世界の法則を書き換えること。


だが書き換えられた世界には、

必ず「誤差の期間」が生じる。


揺らぎは、誤差の証。

“新しい重力”がまだ定着していない証。


▼世界の違和感


胸紋がまたひとつ脈打つ。

都市の層がざわりと揺れた。


それを見て、レミルは悟る。


この都市は、完成した新世界ではない。

むしろ――


「ここは、世界の……“つなぎ目”。

 まだ、ほどけるかもしれない」


祈りと記憶が結び合わされ、

上下の断絶が溶けつつある場所。


だが今はまだ、

胎児のように不安定な“構築途中の世界”にすぎない。


レミルの中に、

責任と、不安と、決意が同時に芽生える。


都市は確かに形を成した。

しかし――存続するか崩壊するかは、誰にもわからない。


レミルは歩き出す。

揺れる空気の中を、ゆっくりと。


「……まず、見なくちゃ。

 この都市に、何が満ちているのか」


沈黙の都。

そこには、

これから出会う勢力たちの“意志”が渦巻いている。


そのすべてが、この都市の未来を決める。


そして第1章は、

際限なく揺れる静寂の中で幕を閉じる。

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