余韻 ― 世界の再起動
世界が――静かに、初めての息を吸い込んだ。
原初名を記した直後のゼノ・ハイトは、まるで巨大な獣が眠りから覚める前のように、深く沈黙し、わずかな震えを繰り返していた。
風は暴れもせず、落ちも昇りもしない。むしろ、上昇風と落下風が混じり合い、層をなす霧のようにゆるやかに漂っている。
崖の縁では、細く青白い重力線が走り、稲妻の残光のように揺らめいた。
足元の岩は、レミルが一歩踏みしめるたびに“軽く沈む”。
落ちるのではない。
ただ、世界が新しい重さを探っている――そんなたわみ方だった。
空は相変わらず上下で色を分けているのに、境界線だけが曖昧にけぶり、輪郭を失っていく。
まるでこの世界の法則そのものが、いま再び書き換えられている途中なのだと知らせるように。
レミルは、ゆっくりと地面に手を触れた。
石肌は冷たいはずなのに、そこには“迎え入れるような温度”があった。
――ああ、わかる。
これは痛みじゃない。
胸の奥、刻印のある場所が、胎動のようにゆっくり脈打っていた。
熱ではない。
衝撃でもない。
それはきっと、世界の方が彼女に返している合図だ。
責任。
選択。
そして――帰属。
レミルはその脈動を受け止めたまま、静かに息を吸った。
新たな“重力”の空気が、胸の中に満ちていく。
レミルが深く息を吐き出した、その直後だった。
背後で地面を蹴る音が二つ、重なる。砂塵が舞い、影がこちらへ一直線に走り込んでくる。
「レミル!」「おい、無事か――!」
エルゴとリゼルだ。
先に声を上げたのは、エルゴだった。
彼は胸元に抱えた計測器をまるで壊れた楽器のように叩きながら、半ば叫ぶ。
「……重力流が安定している……? 違う、これ……再構築のパターン……!」
計測器の針は上下に暴れつつも、最終的には中心へと吸い込まれるように収束していく。
その挙動は、いま世界が“何かを組み直している”としか思えなかった。
エルゴの声には恐れよりも――狂気に似た喜びが混じっていた。
未知の現象を目撃する研究者特有の、抑え切れない昂ぶりだ。
「こんなの、記録にも文献にも……どこにも残ってない……!
レミル、君――今、なにを……?」
彼の問いは、そこで遮られる。
リゼルがレミルの肩を掴んだからだ。
「レミル!」
彼女は荒く息を吐き、妹の腕や頬に触れる。
傷を探し、熱を確かめ、存在そのものを確かめるように。
「レミル……あなた、何を見たの……?」
「今、世界は……何をしようとしているの……?」
その声は、戦士の震えではなかった。
崩れ落ちる一瞬前の、姉の震えだった。
レミルがここに戻ってこない未来を――何度も、何度も想像してきたから。
レミルはすぐに答えなかった。
ただ、胸の中央――淡く光る刻印へそっと指先を添える。
光はもう眩しくはない。
けれど、確かに“消えていない”。
それは世界が彼女を認識している証のように、穏やかに脈打っていた。
「……落ちた者も、登った者も――」
レミルはゆっくりと顔を上げ、ふたりを見る。
「もう断絶しない世界を。」
淡々とした声なのに、その言葉はこの崖の底にも天にも届く、中心の響きだった。
エルゴが息を呑む。
「断絶しない……世界……?
重力階層の……再編……?」
計測器を握る手が汗ばんでいる。
彼の中の仮説が次々に浮かんでは砕け、また生まれる。
「いや、待て……そんな変動が本当に……?
だとしたら……いや、だとしたら世界そのものの……!」
自分の頭脳で追いつけない未知の現象に出会ったときの、研究者の混乱と喜悦。
理解できないからこそ、脳が焼けるほど興奮する。
一方、リゼルは一歩近づき、妹をまっすぐ見つめた。
「レミル……」
その声には震えがあった。
「あなたはどこまで行くつもりなの……?」
それは、姉としての優しさと、
変わり続ける世界を前にした戸惑いが混ざり合った問いだった。
ほんの少しでも遅れていたら、
レミルは戻らなかったかもしれない――
その予感がまだ、リゼルの掌を強張らせていた。
そのときだった。
レミルたち三人の背後で、
“ゼノ・ハイト”そのものが呼吸するように、世界がふっと動いた。
轟音ではない。
崩落でもない。
もっと、静かで――巨大な生命体の寝返りのような、深い気配。
ごう……と、山の奥底から柔らかな風が押し出される。
リゼルが反射的に振り返り、息を呑んだ。
「……ゼノ・ハイトが……動いてる……?」
崖の縁から立ち上る風は、これまでの“落下風”でも“上昇風”でもない。
そのどちらの性質も抱えた、混ざり合った風だった。
青白い重力線が、山肌から立ち上り、
まるで天へ向かって祈るように――
あるいは地へ返る記憶のように――
ゆっくりと螺旋を描きながら上昇していく。
空気が震え、世界が波打つ。
エルゴが呟く。
「……これは……法則の、再調整……!
レミルが刻んだ“名”に……世界が、応えている……」
ゼノ・ハイトが呼吸している。
世界の基盤そのものが、眠りから醒めるように整えられてゆく。
レミルは静かに見つめた。
胸の紋が、同じリズムでゆっくり脈を打つ。
――ああ。
これは、私だけの変化じゃない。
世界そのものが、新しい名を受け入れようとしている。
三人は、しばらくのあいだ言葉を失っていた。
誰も動かない。
誰も、軽々しく声を発しようとしなかった。
ただ、世界がわずかに揺れ、
そのたびに空気が胸の奥に触れるような――
**新しい“息遣い”**だけが、静かに彼女たちを包んでいた。
レミルはゆっくりと顔を上げる。
天はまだ二層に割れていたが、
その境界線は、さざ波のようにやわらかく揺らいでいる。
触れれば、溶けてしまいそうなほど脆く、
けれど確かに――世界の変化がそこから始まっていた。
風がわずかに鳴った。
エルゴが、小さく息を呑む。
「……聞こえる……?
これ……世界が……“歩き始める音”だ……」
リゼルは、レミルに寄り添うだけで何も言わなかった。
言葉にすれば壊れてしまいそうな静寂だった。
レミルは胸の紋にそっと触れる。
名はまだ熱を失っていない。
世界の奥底で脈打つ重力と、同じリズムで淡く光り続けている。
――落ちた者も、登った者も。
――その声が届く未来のために。
ゼノ・ハイトの高みに、静かに風が渡っていく。
深い静寂と――
これから訪れる変化の、確かな予兆を抱えたまま。




