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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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同時登攀/同時落下の儀

 ――音が、帰ってこない。


 重力ゼロ層を進んだレミルは、ふと足が止まった。足元に“地面”と呼べるものはない。ただ、薄膜のように揺らめく透明の板が、空間にそっと浮かんでいるだけだった。


 その膜は、限りなく澄んだガラスのようでありながら、触れれば確かな“抵抗”を返してくる。巨大な水面の上に立っているような、不自然な安心感があった。


 そして、膜の上空――

 そこには、揺れながら走る無数の光の筋があった。


 上昇方向の重力線。


 焔にも稲妻にも似たその光は、途切れもせず天へ向かい、暗い空を裂いて伸び続けている。


 対して、膜の下。覗き込めば、底なしの影を貫いて落ちていく、逆方向の光の線があった。


 落下方向の重力線。


 どちらも大河の流れのように規則正しく、しかし中央――レミルの足下の周辺で、衝突していた。


 チリッ……パチン……。


 火花のようでもあり、心臓の鼓動を模したようにも聞こえる重力波が、絶え間なく放射されていく。


 レミルは、この場所の意味を悟る。


「……ここが……世界の“重力”が分かれる場所……

 上と下を、完全に二つに裂く境界……」


 息を呑む彼女の横で、黒い外套――重力幕を揺らしながら堕崖王が歩みを止めた。


「ゼノ・ハイトの“天蓋”。

 上昇と落下が交わり、世界の法則が初めて形を持つ場所だ。」


 言葉は低いが、どこか祈りの響きを帯びている。


「ここ以外に、“儀”を行える場所はない。

 この膜こそ、上でも下でもない――唯一の中庸だ。」


 レミルは、ゆっくりと周囲を見渡す。

 無音の世界で、光と影だけが激しくぶつかり合っている。


 その中心に立つ自分はまるで、

 世界の“始まり”と“終わり”の両方を足元にしているようだった。


 確信と、微かな恐れが胸の奥に同時に宿る。


「……ここから先が、儀の場所……?」


 堕崖王は頷く。


「ああ。

 お前が“登り続けたい”と望み、

 私が“落ち続ける”覚悟を持ち続ける。

 その矛盾こそが、真の頂へ道を開く。」


 レミルは、深く息を吸った。


 上昇と落下、その始まりとなる天蓋。

 世界の重力が裂ける音が、今にも皮膚を通って魂に触れそうだった。


――ここで、試される。


 その予感だけが、確かな重みを持っていた。



天蓋を照らす光の縦線が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。

 重力の川の流れが、レミルと堕崖王の接近を察したかのようだった。


 堕崖王はゆっくりとレミルに向き直る。

 重力幕が黒い煙のように揺れ、やがてその身から解き放たれた。


 ――重さが、世界から一つ失われる。


 幕が剥がれた瞬間、空間の重力線が微かに震えた。

 重力という“言語”が、たった今、彼が別の段階へ入ったことを告げている。


「レミル・アデリア。」


 名を呼ぶ声は低く、しかし膜を通して震えるように響いた。


「上へ登りたいと願う者と、

 下へ落ちたいと覚悟する者――」


 堕崖王は右手で上昇する重力線を指し、

 左手で落下する重力線を示す。


「その二つが同時に在るとき……真の頂は開く。」


 レミルは息を呑む。

 聞き間違えではなかった。


「……同時に……登って……落ちる……?」


 その矛盾は常識の対岸にある。

 だが、今立っている天蓋こそ、“常識”が二つに裂かれた場所だった。


 堕崖王は静かに頷き、重力幕のない素顔を晒す。

 半分が光の層に、半分が闇の層に浸食されたその顔は、

 まさに上昇者と落下者の間に存在する者の象徴だった。


「そうだ。片方だけでは重力は偏る。

 どれだけ登っても、意志が『落下』を理解しなければ、

 “頂”は決してお前を受け入れない。」


「頂は“均衡”の門。

 矛盾を抱いた瞬間にのみ現れる。」


 光と影が彼の輪郭を裂くように回転する。

 まるで天蓋そのものが、彼の発した言葉に反応しているようだった。


 レミルは胸の奥で脈を感じる。

 これは恐れではない。

 ――自分の中に、既に“矛盾”は宿っている。


「登る理由」と「落ちた者を背負う理由」。

 それは本来なら同じ方向を向かないはずの意志だ。


 だが――。


(私の中では、矛盾じゃない……。)


 無言の確信が身体の芯に灯る。


 堕崖王はその微細な変化を読み取ったかのように、静かに言った。


「矛盾を抱きし者よ。

 その両方を選び続ける覚悟があるか。」


 レミルの視界に、重力線が交差して火花を散らす。

 天蓋が、二人の儀式を待っていた。



天蓋中央――

 そこだけが奇妙に“静止”している岩片があった。


 宙に浮かんでいるようにも見え、

 かといって落下の兆候も、上昇の勢いもない。


 ――上にも下にも傾かない。

 世界でただ一つの中立点。


 堕崖王はそれを指し示す。


「ゼロ・スタンス。

 ここから先の儀は、この石を共有せねば始まらぬ。」


 レミルはその石に手を伸ばす。

 触れた瞬間、温度のない硬さが掌に伝わった。

 感触が“方向”を持たない――それが最初の違和感だった。


 堕崖王も反対側から同じ岩端を掴む。


 そして二人は、互いにまったく逆の姿勢を取った。


 レミルは足を踏ん張り、身体を引き上げるように構える。

 全身が“登るための線”を描く姿勢。


 一方、堕崖王は膝を抜き、重心を真下へ落とすように構えた。

 落下に身を委ねるための、まるで逆さの姿勢。


 同じ岩を掴みながら、二人は真反対の方向を指向する。

 その矛盾が、天蓋の重力線に火を付けた。


 ――ざわり。


 空間が微かに震えた。

 パチン、と細い火花のように重力が裂ける音がする。


 次の瞬間、天蓋全域の重力線が一斉にざわめき始めた。


 上昇線がレミルを引き上げようとし、

 落下線が堕崖王を引きずり落とそうとする。

 その二つが、ゼロ・スタンスの一点に集中する。


 引き合い、引き裂き合う力。

 二つの意志の境界で、空間が歪む。


「……っ!」


 一瞬、レミルの脇腹が左右から同時に引き裂かれるような感覚に襲われた。

 方向を持たない痛み。

 自分の身体が“上下に分割される”未来像まで見えた。


 それでも彼女は手を離さない。


 堕崖王の声が、重力波に乗って届く。


「揺らぐな。

 お前が上を見る限り、世界は裂けない。」


 重力線がさらに荒れ狂う。

 天蓋がきしむように悲鳴を上げる。


 だが、レミルは登る姿勢を崩さず、

 堕崖王は落ちる姿勢を微塵も揺るがせなかった。


 同じ足場。

 逆の意志。


 これが、儀式の始まりだった。



 重力の膜が、深い呼吸をするように脈打っていた。

 ゼロ・スタンスの一点に、上昇と落下が同時に収束し、

 世界の“方向”そのものが軋んでいる。


 堕崖王は、わずかに顎を引き、レミルを見据えた。


「意志を乱すな。

 お前が登ると決めた瞬間、私は落ちる。

 私が落ちると定めた瞬間、お前は登る。」


 それは合図ではない。

 “開始の宣言”だった。


 レミルは小さく息を吸う。

 胸の奥に沈んでいた声――

 落ちた者たちの残響が、微かに震えた。


(行く。私は――登る。)


 握る岩が、方向を持たない硬さで掌を締めつける。

 その感触が、恐怖ではなく“覚悟”を固めた。


 儀が始まった。


 ――直後。


 レミルの身体が、急激に“上”へと引き上げられた。

 肩が引き抜かれそうな強烈な力。

 骨が、上空へ求められるように鳴った。


 同時に、堕崖王の身体が“下”へと沈むように落ち込む。

 黒い外套の裾が重く垂れ、重力幕が逆巻く。


 互いは反対方向へ引き裂かれているはずだった。

 だが――その現象は実現しない。


 二人の手が、同じ岩を掴んでいるからだ。


 上昇と落下が一点で絡み合い、

 双方の重力が、互いの存在を牽制し合う。


 結果として成立したのは――均衡。


 しかし、それは“安定”ではなかった。


 天蓋全域が、まるで痛みに耐えているように震え始める。


 バチッ……!


 光ではなく、重力そのものの火花が散る。

 重力線が弾け、泣き叫ぶように音を立てる。


 レミルの身体が震え、

 堕崖王の外套が裂けるように揺れる。


 均衡は、世界にとって許されざる矛盾だ。

 だからこそ、世界は悲鳴を上げる。


 レミルは歯を噛みしめた。


(私は……揺らがない。

 登る意志は、この痛みでは崩れない――)


 上昇と落下が一つの身体を裂こうとする。

 天蓋の重力膜が、怒りと苦悩を交えて振動する。


 そして儀は、まだ始まったばかりだった。



レミルと堕崖王の意志が、完全に相反した瞬間だった。


 ――空が、裂けた。


 正確には、空が「上下に割れた」のだ。


 上層は眩いほどの白に染まり、

 下層は底知れぬ黒へと沈む。

 まるで世界そのものが、二つの方向へ無理やり引き延ばされたかのように。


 天蓋の中央――二人が掴む“ゼロ・スタンス”の下で、

 重力膜が悲鳴を上げるように歪んだ。


 バチッ……!

 重力の断裂音が空間を叩きつける。


 白と黒がせめぎ合い、中央に一本の裂け目が走る。

 その裂け目は光でも闇でもなく、

 ただ“何もない”――

 世界の法則が存在しない領域だった。


 堕崖王が奥歯を噛みしめる。

 黒い外套が、まるで引き剥がされる布のように上下へ裂ける。


「限界は近い……!

 踏みとどまれ、レミル!」


 声が震えていた。

 堕崖王といえど、この均衡は長く維持できない。

 上昇と落下が同時に存在するなど、世界は本来許さない。


 レミルの視界から、色が奪われていく。

 音も遠ざかり、呼吸の感覚さえ薄れていく。


 リゼル、エルゴ――

 二人の姿はとっくに消えていた。

 もう、どれほど叫んでもこの領域には届かない。


 ここは、“上と下の境界を否定した者”だけが立てる場所。


 世界の片隅で、一瞬だけ生じる矛盾の点。


 ――ふたりのためだけに開いた、孤独な領域。


 レミルは唇を強く結んだ。

 指先が震える。

 それでも、岩を握る手だけは離さなかった。


(私は……登る。

 あなたたちの声を、上へ運ぶために――

 ここで引き裂かれるわけにはいかない!)


 白と黒の空が、軋む。

 天蓋の重力膜が、裂ける。

 ゼロ点の亀裂が、さらに深く、広く――

 二人を呑み込もうと口を開きはじめた。


重力が、骨をきしませる。


 腕が引き裂かれる――そう直感した。

 上へと引かれる力と、下へと沈めようとする力が、

 レミルの身体を正反対に分断しようとする。


 視界が白黒に割れ、

 呼吸さえ、誰のものか分からなくなる。


 その極限の痛みの中で、

 レミルは――叫んだ。


(私は……落ちた人の声を運ぶために、登る……!)


 胸の奥で、何かが強く脈打つ。

 幻視で聞いた声――落下者たちの願いが、

 一斉に息を吹き返すように響き渡る。


(落下は敗北じゃない……!

 落ちる声があるから、私は上へ行ける……!)


 白の空と黒の空が、レミルの両肩を引き裂くように震えた。

 その震動に押し潰されそうになりながらも、

 彼女はさらに思考を深くへ掘り進める。


(上と下は……私の中で矛盾しない……!

 だって私が登るのは――

 落ちた人の続きを、届けるためなんだから!)


 その瞬間。


 レミルの胸の奥で、光が生まれた。


 熱ではない。

 痛みでもない。

 ただ、確かな“芯の光”。


 心臓の鼓動が、重力の震えと同調する。

 世界の悲鳴が、彼女の言葉に反応するかのように静まっていく。


 堕崖王が、白と黒の狭間で目を見開いた。


「……その光は……まさか……!」


 レミルの胸の中心からこぼれた微光が、

 白と黒の境界へ伸び――

 引き裂かれた世界の断面に、わずかな“橋”を架けはじめる。


 矛盾を抱えた者だけが持ち得る、均衡の光。


 登攀者であり、落下者の代弁者である少女が生み出した光。


 それは、世界が初めて見る“第三の重力”だった。


光は、まだ脆い。

 けれど、確かにそこに“意思”として存在していた。


 白と黒の裂け目に架かりかけた細い光の橋を、

 堕崖王は黙って見つめていた。

 重力の闘気が荒れ狂うその中心で、彼だけは嵐の眼のように静かだった。


 そして――深く、静かに頷いた。


「……それだ。」


 掠れた声は、咆哮よりも重かった。

 その一言だけで、周囲の重力場が微かに震える。


「矛盾を矛盾のまま抱き、

 なお統合しようとする意志……」


 堕崖王は、レミルの胸から放たれる光を真正面から受け止める。

 鋼の眼差しが、ふと緩む。

 それは、頂へ至る者を認めた者の表情だった。


「お前は――ここに至る者の器だ。」


 その宣告は祝詞のようであり、

 同時に“継承”の刃を抜く音のようでもあった。


 次の瞬間。


 堕崖王の重力が、轟音を巻き起こしながら強く“下”へと流れ込む。

 地の底へ通じる巨大な河のように、深く、太く。


 対するレミルの重力は、

 胸の光を源にしてさらに強く“上”へと伸びた。

 まるで天を貫く柱のように。


 二つの重力線は、逃げることも衝突することもせず、

 まるで計算された歯車のように噛み合いはじめる。


 黒と白の空が、音もなく軋んだ。


 世界の中心――

 重力がゼロへと収束する一点。


 その座標が、ゆっくりと、しかし確実に開いていく。


 空でも地でもない。

 上でも下でもない。

 世界が二分される前の、失われた“中心”。


 ゼロ点。


 レミルの足元に、ひび割れた金属円盤のような紋が浮かび上がる。

 堕崖王は静かに息を吸い――宣言した。


「――ここから先は、後継者だけが踏み入れる領域だ。」



最初に変わったのは、音だった。

 天蓋を満たしていた重力の唸りが、突如として低音を失い、

 まるで世界そのものが息を止めたかのように静まり返る。


 その静寂を裂くように――

 天蓋中央の“ゼロ点”から、巨大な円環が立ち上がった。


 光と影を等量に孕んだ、輪郭の定まらない円。

 しかしその回転は、世界の時間を巻き込むように滑らかで、

 見る者の意識まで吸い込んでしまいそうなほどだった。


 レミルは思わず息をのむ。


 ――これは、門だ。


 上でも下でもない。

 始まりでも終わりでもない。

 世界が分かたれる前の、唯一の“中心”。


 頂の門。


 円環は回転を速め、

 その軌跡は光の渦でも影の渦でもなく――

 両方を飲み込んだ“無色の渦”となって二人を包む。


 裂け目の中心へ、

 必然に引かれるように、二人の重力が収束していく。


 レミルの身体がふわりと浮く。

 堕崖王の身体がゆっくりと沈む。

 だがその動きはもはや相反せず、一本の軌道を描いて重なり合っていた。


 堕崖王は、すでに風のように軽い声で叫ぶ。


「行け! レミル!」

「お前が――“名を記すネームベアラー”だ!」


 レミルの胸が焼けるように熱くなる。

 上の光も、下の闇も、

 そのどちらでもない“ゼロの輝き”が胸中に満ちていく。


 もう、掴むべき岩はひとつだけだった。

 彼女は深く息を吸い――


「――はいっ!」


 叫びとともに、

 最後の力で岩を放す。


 重力も、恐怖も、上も下も、

 すべてを断ち切るように。


 レミルは、

 “上昇と落下の中間点”――すなわちゼロへ飛び込んだ。


 その瞬間。


 世界が、一瞬だけ無音になった。


 色も音も重力も消えた、純白の虚無。

 そこに残っていたのは――レミルの意志だけだった。



レミルの身体が“ゼロ”へと溶けるように沈んでいくと、

 天蓋に渦巻いていた光も影も、まるで役目を終えた舞台装置のように静かに収束した。


 世界が――深く息を吸った。


 それは風の音ではない。

 地脈の振動でもない。

 ただ重力そのものが、

 数千年ぶりに肺を満たすように、

 ひとつの大きな “深呼吸” を行ったのだ。


 そして。


 その呼吸がゆっくりと吐き出される瞬間――

 ゼロ点の穴の向こうに、**形を持たない“存在”**が生まれはじめた。


 まず、白と黒の線が縒り合わさって一本の糸になる。

 それが次第に、文字とも光ともつかぬ模様へと変化し、

 模様はまた、重力波の脈動をまとって大きく脈打った。


 やがて、空間そのものが折り畳まれるように沈黙し――


 “重力の名”が、彼女の前に姿を現す。


 それは、目で見ることができる形ではなく。

 耳で聞くことができる音でもなく。

 皮膚で感じる質量ですらなかった。


 ただ、存在の中心に“名”だけがある。

 名が、質量を、方向を、落下を、上昇を決める。

 世界のあらゆる重力は、その名から生まれていた。


 レミルの呼吸が止まる。

 意識に触れた瞬間、彼女は悟った。


 ――これは、記されるべきもの。

 ――これは、誰かが運んで来た声の、源。


 そして“名”は、言葉を持たぬまま、

 その重みだけで彼女に語りかけてきた。


 「来たか。名を記す者よ。」


 世界はまだ静寂の中にあった。

 重力さえ動くのを忘れている。


 ――ここからが、“頂”の本番だった。



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