堕崖王との邂逅 ― 頂への門番
ゼノ・ハイト最終区画――
その境を一歩越えた瞬間、世界が「裏返った」。
レミルの視界に広がるのは、上下左右の区別を捨てた異形の崖。
岩壁はねじれ、折れ、ひっくり返り、
遠くのはずの天面が足元のように迫ってくる。
逆に足元の崖は、空の底へと落ちていくように薄れてゆく。
「っ……!」
リゼルが息を呑んだ。
エルゴは口を開きかけ、しかし声を飲み込む。
二人の高度感覚は完全に狂い、
足元が浮き上がる感覚と沈む感覚が同時に押し寄せてくる。
それでもレミルは――立っていた。
むしろ、以前よりも安定している。
彼女の足場は斜めに反転しているのに、
身体は“正しい方向”を迷わずに認識していた。
(密度……そう。方向じゃない。)
彼女は岩壁を見上げる。
いや、見下ろすとも言えないその位置には、
ゆっくりと反時計回りに回転しているように見える岩肌が続いていた。
世界そのものが軋み、
重力の層が艶のように揺れている。
リゼルは震える声で囁いた。
「レ、レミル……これは……もう、崖じゃない……」
エルゴは額に汗を滲ませ、計測器を必死に握りしめている。
それでも指先が震え、数値は跳ね上がり、意味を成さない。
一方、レミルはその乱れの中に規則を見ていた。
幻視で触れた“落下者たちの残響”が、
彼女の感覚を研ぎ澄ませていた。
重力は方向ではなく、流れの“濃さ”で動く。
それを読み取れるようになっていた。
レミルは風のない空間で、静かに息を吐く。
「……ここからが、本当の反転領域。」
その声音には恐れの影がない。
むしろ、待ち望んだ場所に触れた者のような、
確信に満ちた静けさが宿っていた。
足元の岩が――低く、深く、鳴った。
それは地鳴りではなかった。
鼓動だった。
世界の奥底に潜む“根”が、まるで何かに応じるように脈を打ったのだ。
「っ……!」
リゼルが反射的に足をすくませる。
エルゴも慌てて近くの岩角を掴んだ。
次の瞬間、空間そのものが“息を吸った”。
見えない何かが膨らみ、
光も、空気も、重力さえも引き寄せられるように歪む。
そして――ほんの刹那、世界が裏返る。
落下方向が逆転し、
彼らの身体が「上ではなく下へ」吸い上げられかけた。
「う、わっ――!」
リゼルの足が浮き、
エルゴの身体が後ろへ引っ張られる。
だがただ一人、レミルだけが動かなかった。
反転した重力の波に逆らうことなく、
その中心に立つように軽く身を傾け、ただ踏みとどまる。
彼女の髪が、まるで見えない水流に漂うように揺れた。
(この脈動……違う。
“世界の根”じゃない。
――誰かが、呼吸している。)
レミルの喉が小さく震えた。
無意識に言葉が漏れる。
「……来る。」
その言葉が空間に落ちた瞬間――
前方の岩壁が、深い裂け目を軋ませた。
黒い影が、底なしの穴から溢れるように立ち上がる。
影は揺れもせず、形を定めることなく、ただ“存在”として現れる。
リゼルが息を呑んだ。
エルゴは計器を取り落としそうになる。
そして影は、ゆっくりと人の形へと収束した。
それは――ゼノ・ハイトの頂で待つ門番。
この地へ挑む者の運命を量る、重力の王。
堕崖王の気配だった。
裂け目の闇から立ち上がった影は、
やがて“衣”をまとった。
だがそれは布ではなかった。
黒い外套のように見えるそれは、
無数の重力幕——落下と上昇の境界そのものが揺らめき、
王者の輪郭を成していた。
頭部には王冠などない。
代わりに砕けた落石の欠片が、
ゆっくりと軌道を描きながら浮遊している。
それらは落ちもせず昇りもせず、
ただ“重力の中心”のように彼の周囲を巡っていた。
その足は、大地に触れていない。
触れようとしても触れられないように、
常に“終わらない落下”を模した揺らぎをまとっている。
顔は……半分だけが人ではなかった。
人間の皮膚があるべき場所を、
光とも影ともつかない重力の層が侵食し、
見ているだけで方向感覚が狂う。
リゼルは凍りついたように視線を漂わせ、
何か異様な気配だけを感じ取っていた。
エルゴは強く目を閉じ、
「視界そのものが引っ張られる」現象に耐えている。
だが——
レミルの瞳には、
その“王”の姿がはっきりと映っていた。
堕崖王は、裂け目の中の深淵から一歩だけ浮かび、
彼女の前に静かに立つ。
そして、声を落とした。
「――上昇の継承者よ。
ずいぶん深く、ここまで来たな。」
その声音は、雷のように轟くのでも、
風のように囁くのでもない。
ただ“重さ”だけがあった。
言葉自体が重力で作られているように、
空気が低く震え、
レミルの胸に直接落ちてくる。
しかしリゼルにもエルゴにも、その声は届かない。
彼らには、堕崖王の輪郭ですら朧にしか見えない。
この王の存在を“視”る資格を持つ者は——
今、この場にはレミルひとりだった。
堕崖王の姿を真正面から捉えた瞬間、
レミルの胸の奥に、別の影がざわりと揺れた。
あの幻視——
若き落下者、カイン。
荒れた息をつきながらも笑い、
彼女に“頂の意味”を押しつけずに去っていった青年。
彼の背中が、
今、この王の輪郭と重なる。
レミルのまなざしが揺れたのを、
堕崖王は確かに捉えていた。
ゆっくりと、重さだけで言葉を紡ぐ。
「お前が会った、あの若き落下者……
あれは、私の“最後の弟子”だ。」
空気が一段下へ沈んだ気がした。
それは音でも振動でもなく、
世界そのものが一瞬、落ち込んだような感覚だった。
堕崖王は続ける。
「彼もまた、頂を目指し、
そして——落ちた。」
リゼルもエルゴも、その言葉を聞いていない。
ただ不安げにレミルを見守るだけだ。
レミルだけが、
堕崖王の声そのものを“重さ”として受け取っていた。
胸の奥が詰まる。
拳が自然と握り締められた。
カインは無意味に墜ちたのではない。
ただの失敗でも逃避でもなかった。
この男——
堕崖王だけが、
カインの落下に込められた意味を知っている。
レミルは震える息を吐いた。
「……なら、
あの人は……あなたの……」
問いかけの続きは、
重力に奪われるように消えた。
だが堕崖王は、その未完成の言葉に応えるように、
ほんの僅かだけ、影の奥で瞳を細めた。
まるで、
失われた弟子を思い出すように——。
堕崖王がまとう“重力幕”が、
ゆるやかに大気を押し分けるように広がった。
その一振りは、ただの動作ではなかった。
次の瞬間——
空間そのものが裏返る。
上下の感覚が一斉に崩れ、
リゼルとエルゴの身体がふわりと持ち上がった。
重力が急速に方向を失い、
二人は息を呑む暇すらなく浮き上がっていく。
だがレミルだけは、
地に足が吸い付くように硬く踏みとどまっていた。
重力が乱れたのではない。
“重みの方向”が、彼女には見えている。
堕崖王は、その姿を見下ろすように静かに言った。
「試す。
それが、私に残された最後の役目だ。」
反転する空間の中心で、
彼の声だけが揺らがない。
地面でも天井でもない一点に、
重力の核が集まるように響く。
「世界の重力構造を理解し、
上昇者と落下者の対立を終わらせる者——」
重力幕の奥で、
堕崖王の半面の顔がかすかに影を帯びる。
「その器が、
お前にあるか。」
重さをもった声が、
レミルの胸骨に直接触れるように沈んでくる。
リゼルとエルゴは、
ただ必死に空を掴むようにもがいている。
だがレミルだけは、落ちもせず、浮きもせず、
まるで重力と呼吸を合わせて立っていた。
試されている。
頂を目指す者としてではなく——
“名を記す者”の器として。
そのことだけが、
彼女の全身に鮮烈な実感となって流れ込んでいた。
堕崖王は静かに右手を掲げた。
指先からこぼれ落ちるように、
重力幕がふわりと広がる。
その動きに合わせ、空間のひずみが波紋のように揺れた。
「頂は空に届くのではない。」
低い声が、
まるで地の底から響いてくるように重く、確かな響きを持つ。
レミルの心臓が一度、大きく跳ねた。
「空の裏側——
“重力のゼロ点”へ到達するのだ。」
空間が静かになった。
反転していた足場の感覚さえ薄らぎ、
ただ堕崖王の言葉だけが世界の法則になったかのようだ。
彼はゆっくりと視線をレミルへ向ける。
光でも影でもない色を宿した半面の瞳が、
彼女を深く射抜いた。
「そこに立つ者は、
上昇にも落下にも属さない。」
言葉が落ちる度、
彼女の内側のどこかが震え、共鳴していく。
「ただ、名を記す者になる。」
“名を記す”——
その言葉は、レミルにとって特別な意味を帯びて響いた。
断崖令嬢として生きてきた過去すべてを貫くような、
一本の線が胸の中央を通っていく。
リゼルもエルゴも、
この言葉を聞いてはいない。
聞こえるのはレミルひとり。
まるで、彼女だけが重力の真実の扉を開く鍵を握っているかのように。
胸の奥が震えた。
恐怖ではない。
不安でもない。
“行くべき場所が分かってしまった”
——そんな直感が、確信として形を成していく。
レミルは小さく息を吸い、
目を細めた。
——私は、そこへ行く。
頂ではなく、“ゼロ点”へ。
落下者たちの願いの続きが待つ場所へ。
その確信は、重力よりも強く、
体の中心に沈み込んでいった。
堕崖王は、重力幕をわずかに揺らした。
その動きだけで周囲の空間が沈み込み、
反転していた足場の角度がまた別の方向にゆっくりと傾く。
レミルだけが、その揺らぎの中心で揺るがず立っていた。
堕崖王は静かに問う。
「問おう。」
その声は風でも波でもなく、
“重力そのもの”が言葉になったような響きを持っていた。
「お前は――誰のために登る?」
レミルは瞬きひとつしなかった。
胸の奥が、どくん、と大きく鳴る。
「己のためか。」
言葉に触れた瞬間、レミルの足元の感覚がひときわ沈む。
自分ひとりのために登る者は、
決して“ゼロ点”に届かない——
そんな圧が空間ごと伝わってくる。
「落ちた者たちのためか。」
今度は胸の中央がきしむ。
それは、先ほど幻視で受け取った声たちの残響を思い出させた。
「それとも、世界の法則に触れるためか。」
空間がひどく静かになった。
反転していた岩肌の回転が止まり、
リゼルとエルゴの動きさえ、まるで時間が薄膜に包まれたように遅くなる。
レミルは呼吸を整えようとした。
だが、次の瞬間、気づく。
——息が震えているのではない。
——覚悟が形になろうとして震えている。
答えようと口を開く。
その言葉は、
ただの返答ではなく、
自分の存在の核に触れる“選択”になる。
この答えが、
自分がどの道を歩むのか、
どの願いを背負い、どの名を記す者となるのか——
すべてを決定づける。
レミルの声が、
静かに、しかし揺るぎなく空間へ落ちる瞬間が迫っていた。
レミルの答えが空間へ落ちた瞬間、
堕崖王のまとう重力幕が、まるで深海の水圧がゆるむように静かに揺れた。
それは驚きでも怒りでもない。
ただ――“評価”だった。
堕崖王
「……そうか。」
わずかに目を細める。
その表情は、かつて弟子を見守った者だけが知る、
遠い誇りの影を宿している。
「ならば――通るがいい。」
空間のひずみが一度だけ深く沈み、
レミルの前の道だけが、薄明かりを帯びて開けていく。
だが堕崖王は、あえてその瞬間に言葉を重ねた。
それは、ただの忠告ではなく “門番としての最後の責務” であった。
「だが忘れるな。」
重力幕の影が、王の背後でゆるやかに巻き上がる。
「頂に至った者は、皆 “名を捨てた”。
上昇にも落下にも属さず、
ただ世界の根に名前を刻む“器”となるためにな。」
その声はどこまでも静かで、どこまでも残酷だった。
進む者には、もはや戻れる場所がないという告げ方だった。
堕崖王
「それでも、お前は進むのか?」
レミルは視線を落とさず、しっかりと堕崖王を見る。
幻視で聞いた声――カイン、名もなき登攀者、祈る者、
そして数えきれぬ落下者たちの願いが、胸に流れこむ。
――落ちる者がいるから、登る者がいる。
その言葉が、彼女の背を押すのではない。
自ら進む理由として、心の中心に立っている。
レミル
「……うん。行くよ。」
「名前がどうなるとしても。
届けるべき声があるから。」
堕崖王の重力幕が、静かにほどけていく。
まるで、登攀者に道を譲るように――。
堕崖王がゆるりと片手を上げた。
その動きは、風ひとつ吹かぬ静寂の中でも重く響く。
次の瞬間――
空間が、ひび割れた。
岩壁でも大気でもなく、
“この世界そのもの”の層がぱきりと割れ、
白とも黒ともつかない光の線が滲み出す。
レミルの目の前に、
深淵と天が同じ色で混ざり合った“境界の裂け目”が開いた。
そこは――
重力の生まれも、死にも、まだ名前すら持たない領域。
重力ゼロ層。
・足元の重さがふっと消える。
・空気の振動も止まり、音がどこかへ吸い込まれる。
・色がひとつ、またひとつと剥がれ落ち、
世界が“純粋な構造”だけを残していく。
リゼルが何か叫んでいる。
エルゴが手を伸ばしている。
だが、その声も形も、裂け目の向こうには届かない。
レミルはただ、その門を見つめた。
一歩踏み出せば、戻れない。
一歩踏み出せば、世界が変わる。
――それでも、行く。
背後で、堕崖王の外套が静かに揺れた。
もはやレミルを見ることなく、彼は背を向けたまま告げる。
堕崖王
「行け。」
その声は命令ではなく、
願いでもなく――
“確認済みの事実”のように揺るぎない。
「お前の名が――
どこへ記されるのか、見届けさせてもらおう。」
重力ゼロ層から吹き出す無音の風が、
レミルの髪を前方へ押し出す。
導くように。
待つように。
レミルは、足を踏み出した。
――頂へ。
声の終わりへ。
そして、名の始まる場所へ。
レミルは、仲間たちを振り返らなかった。
振り返れば、きっと迷いが生まれる。
それを彼女はもう許さない。
無色にきらめく“重力ゼロ層”の裂け目へ向かい、
ためらいなく踏み込む。
その瞬間――
音が、消えた。
リゼルの悲鳴も、
エルゴの呼ぶ声も、
たしかに耳へ届いたはずなのに、
すべてが薄膜の向こう側へ吸い込まれるように遠ざかる。
視界がゆっくりと反転した。
上も下も、前も後ろもなくなり、
世界はただ“レミルという一点”を中心に組み替えられていく。
足元の地面は消え、
空は裏返り、
天と深淵が重なり合って、
白とも黒ともつかぬ光の層をつくる。
レミルは息を吸う。
何もない空間なのに、
そこには“世界の核へ近づく”匂いがした。
そして――
光の裂け目が閉じ、
ゼノ・ハイトの世界は完全に背後へ消えた。
残ったのは、ただひとつの領域。
重力ゼロ層――天空の裏側。
ここでは、
落下も上昇も意味を持たない。
名前も、形も、方向も、
すべてがいったん剥がれ落ちていく。
ただ進むことだけが、レミルの存在理由になった。
――次のシーンは、
“世界の法則が完全に消失する空間”
その最深部へ。




