深淵の声との邂逅(幻視)
ゼノ・ハイトの中盤へ差しかかった瞬間だった。
空気が歪むのではない、重力そのものが層になってうねっているのが、レミルにはわかった。
足元の砂がぱらりと崩れた。
その砂粒は、一部は落ち、一部は“昇り”、
そしてその二つが――
まったく同じ軌道を通ってすれ違っていく。
「……どういう……」
言葉が声にならない。
視界の縁がふっと二重にぶれて、世界の輪郭が
白いノイズに浸食されはじめた。
リゼルが口を開き、何かを叫んでいる。
その顔は恐怖と焦りに染まっているのに、
音が――届かない。
エルゴが手を伸ばす。
指先がレミルの袖に触れるはずだった。
けれど、距離が急に伸びたように、
その手は“遠ざかっていく”ばかり。
レミルの周囲の光景だけが、
静かに、深く沈んでいった。
理解する。
これは落下でも、浮上でもない。
世界の真ん中――
**重力の根**に、
自分だけが引き寄せられはじめているのだと。
声も、手も、届かない。
けれどレミルは、不思議と恐怖を感じなかった。
――ああ。呼ばれている。
その確信だけが、浮き上がる意識の中で静かに燃えていた。
視界を埋めた白い閃光が、まぶたの裏から頭蓋の奥まで満たした。
次の瞬間、レミルは――立っていた。
風もない。音もない。
ただ、やわらかい白に満ちた谷が広がっている。
地面は滑らかな砂のようで、踏みしめても感触が曖昧だ。
なのに足場は確かに存在し、沈むことも揺れることもない。
何より異様なのは――
影が、どこにもなかった。
自分の足元も、岩の稜線も、谷の起伏も。
本来なら濃淡が生まれるはずの場所が、
すべて均一な白に塗りつぶされている。
「ここは……?」
声は空気に溶けず、代わりに霧のように揺れた。
その霧は、谷底からゆるく立ちのぼり、
互いに溶け合いながら、微かなざわめきを生んでいる。
――これは風の音ではない。
――これは、生き物の声でもない。
レミルは悟った。
落ちた者たちの声だ。
肉体を失い、意志だけとなり、
重力線のどこかに刻まれ、残響となった声。
ここは幻覚ではない。
ゼノ・ハイトが見せる虚像ではなく――
“重力の記録領域”。
落下の軌跡と、最後の願い。
断崖で散った者たちのすべてが、
この白い谷に“蓄積”されている。
レミルは息を呑んだ。
胸が痛いのに、不思議と暖かかった。
――呼ばれた理由が、ここにある。
白い谷の霧が、そよ風のように揺れた。
そこから、ひとつの影が形を帯びる。
●カイン
最初に輪郭を結んだのは、カインだった。
肩幅の広さも、笑ったときの目の細まり方も、
そのまま――けれど触れられない薄さで。
胸の中央に、落下の瞬間を象徴する“裂け目”が淡く光っている。
痛々しいのに、彼の表情は静かだった。
「落下は終わりじゃない、レミル。」
カインの声は、霧が震えるように周囲へ広がる。
「俺たちは落ちた場所で、まだ叫び続けている。
上へ行く者に届くように。
届くまで、何度でも。」
その言葉は責めではない。
むしろ、安堵を含む“託し”だった。
レミルは喉の奥が詰まるのを感じた。
●名もなき登攀者たち
カインの影が霧へ戻ると、別の声が重なった。
ひとりではなく、複数――
だが統一された意志を帯びた声。
「上へ行く者よ。」
顔はない。
輪郭も定まらず、ただ“登攀者”という概念だけが集約された影。
「我らは敗者ではない。
道を残した者たちだ。」
その言葉には力強さがあった。
落下を“負け”と定義しない、静かな誇り。
レミルの胸に、知らぬ登攀者たちの体温が染みてくる。
●祈りの途中で落ちた信徒たち
次に現れたのは、祈りの姿勢のまま霧に浮かぶ影たち。
手は組まれ、顔は天のない空を向いている。
「祈りは途切れた。
しかし願いは、落下の中でも続いている。」
ひどく柔らかく、ひどく痛い声だった。
落ちる瞬間まで抱いていた願いが、
今もこの谷で脈を打っている。
レミルは知らず、胸に手を当てていた。
●過去の断崖令嬢候補たち
最後に――
レミルと同じくらいの年頃の少女たちが、
霧の中からいくつも姿を現した。
衣の形も、髪の長さも微妙に違う。
ある者は怯え、ある者は誇りを帯び、
ある者は泣きながら微笑んでいる。
「あなたが行くのなら、それでいい。」
「私たちは、その続きを――」
「あなたに託したかった。」
その声が、レミルの中の“孤独”を静かに崩していく。
自分はただ一人の挑戦者ではなかった。
彼女たちの系譜の終点でもない。
連続する意志の、ひとつの継ぎ目に立っているのだ。
霧の影たちは押し寄せもしない、囲いもしない。
ただ、彼女の前に立ち、そして――やさしく滲んだ。
レミルは思う。
落下は、消失ではない。
声だ。
願いだ。
そして私の中へ届いた“続き”だ。
白い谷が――低く、深く、震えた。
風は吹かない。霧も動かない。
それでも谷全体が、巨大な鼓動のように「鳴った」。
次の瞬間、レミルの足元から、
無数の囁きが湧き上がる。
声は、ひとつではない。
若い声、老いた声、怒りに震える声、泣き出しそうな声。
そして、祈りの余韻をまだ抱えた柔らかな声。
けれどそのどれもが、
同じ意味に収束していく。
――落下とは敗北ではない。
谷に響き渡るそれは、残響ではなく確信だった。
落ちた者たちが、それぞれの形で掴んだ答え。
「落ちる者がいるから、お前たちは登れる。」
視界の端で、霧が脈打つように波を描く。
名もなき登攀者たちの輪郭がいくつも揺れ、
やがて溶け合ってひとつの“意思”に変わる。
「上へ行く者は、
我らの願いの延長線に立つ。」
レミルの胸の奥――
ずっと沈めてきた重りが、静かに音を立てて解けていく。
断崖令嬢として課された使命。
それを「役割」だとしか思ってこなかった、自分。
けれど、ここには残されていた。
落下という終わりの中に、なお続く“願い”が。
そしてその願いは――
自分の足元へ重なり、積もり、形を与えていたのだ。
「落下は叫び。
上昇は、その代弁。」
言葉が胸に刺さるのではなく、
胸の中で、静かに灯っていく。
レミルは気づく。
自分は“最初のひとり”ではなかった。
そして“最後のひとり”にもならない。
無数の手が、自分の背を押してきた。
そのすべてが道となり――自分はその上に立っている。
だからこそ。
ここから先へ進むことは、
落ちた者たちの涙を、祈りを、意志を
自分の声で語り継ぐということなのだ。
レミルはそっと目を閉じた。
白い谷の響きが、心臓の鼓動と重なる。
――私は、行かなくてはならない。
その自覚が、確かな重力となって
彼女の身体の中心に宿った。
レミルは、そっとまぶたを閉じた。
白い谷の声は、もう遠くにはなかった。
胸の奥――心臓のさらに深い場所で、微かに震えている。
それは誰の声とも判別できないほどに溶け合い、
ひとつの「願い」として彼女の中に流れ込み続けていた。
ゆっくりと息を吸い込む。
喉の奥が少しだけ震える。
恐れは、確かにまだそこにあった。
だが――。
その恐れを押し流すように、
理解が満ちていく。
確信が形を成していく。
落下者たちの声は、弱さの残響ではなかった。
敗北の記憶でも、過去の影でもない。
それは、続く者へ託すための「力」だった。
レミルの唇が、静かに開く。
「……落ちたあなたたちの声は、消えなかった。」
その言葉とともに、胸中で何かが音を立ててほどけていく。
罪悪感でも、使命感でもない。
もっと静かで、もっとまっすぐな感情。
「私が上へ行くのは、私一人のためじゃない。」
足元に寄せてくる白い霧が、
まるで聞いているようにわずかに揺れた。
「あなたたちの続きを……“届ける”ため。」
その一言を口にした瞬間、
レミルの内側にあった迷いが、風に触れた砂のように崩れ落ちる。
自分は選ばれた者ではない。
だが、自分は“続けられる者”だ。
落下者たちが残した叫び、祈り、願い――
それらを止めず、天へ向かって連ねていくための存在。
登る理由が、完全に形を変えた。
恐れを抱えたまま、それでも前へ進む理由へ。
自分だけの物語ではない、無数の物語の延長線へ。
レミルは目を開けた。
白い谷の霞の奥、まだ見えない“頂”をまっすぐに見据えて。
白い谷を満たしていた声たちは、
最後の一言を残したあともなお、怒りも執着も示さなかった。
むしろ――静かに満足しているようだった。
レミルが彼らを拒まず、
その願いをまっすぐ受け取った瞬間に、
幻視はもう「留まる必要」を失ったのだ。
霧の向こうで、影たちの輪郭がゆっくりと薄れていく。
光に溶ける前の、淡い残像だけを残して。
遠ざかる声が、谷の奥から穏やかに響いた。
「行け――断崖を運ぶ者よ。」
その言葉は、命令ではなかった。
祝福とも違う。
ただ静かに“託す”声音だった。
次の瞬間、白い谷を満たしていた霧が波紋のように揺れ、
まるで風の流れにほどけるように散っていく。
祈りの形をした影も、
名もなき登攀者の重なる声も、
過去の少女たちの揺らぐ姿も――
すべてが光の粒となり、
レミルの周囲を静かに旋回しながら崩れ落ち、
やがて消え失せた。
谷そのものも、存在を保つ理由を失ったかのように
輪郭を失い、静かに白い“無”へと還っていく。
レミルの視界を満たす光の粒が完全に消えたとき、
彼女は再びゼノ・ハイトの乱流の中へと立ち戻っていた。
光の粒が完全に消滅した瞬間、
レミルの視界に――ゼノ・ハイトの歪んだ岩壁が戻ってきた。
重力乱流のざらついた空気。
上下の境界が曖昧な足元。
風もないのに揺れる髪。
そして何より――
必死の形相でこちらを見つめる二人の仲間。
「レミル!」
リゼルが泣きそうな声で叫び、ぐっと彼女の肩を掴んだ。
「反応が……完全に途切れて……!」
エルゴは震える手で、レミルの腕を確かめるように触れる。
その指先は汗ばんでいた。
けれど、レミルはゆっくりと瞬きをし、
二人を見つめ返した。
その瞳には――迷いの影が一片もない。
深い、静かな確信だけが宿っていた。
「……うん。大丈夫。」
レミルは小さく微笑む。
「行くべき場所が、はっきり見えたから。」
その言葉に、リゼルは安堵で肩を落とす。
エルゴはようやく息を吐き、
乱れる息のままヘルメットのバイザーを上げた。
だが二人はまだ知らない。
レミルの中で何が起き、
何が芽生え、
その瞳がどれほど強くなったのかを。
ただ一つ――
レミルはもう、“呼ばれた理由”を理解していた。
ゼノ・ハイトのさらに上層。
重力が完全に反転する領域へ。
彼女は迷いなく、そこへ向けて第一歩を踏み出す。




