ゼノ・ハイト到達 ― “反転の入口”
ゼノ・ハイトへ続く最後の踏査路に足を踏み入れた瞬間、
三人の周囲からすべての音が消えた。
風が止んだのではない。
最初から、この場所には“風という現象”が存在していない。
レミルは思わず振り返った。
後方の稜線には、確かに雲が流れ、木々が揺れていた。
だが、彼女たちの立つ一帯だけが、
世界から切り取られたように沈黙している。
リゼルが小さく喉を鳴らす。
「……誰か、息してる? 私の耳がおかしいのかな……」
エルゴは首を横に振り、無言で足元の地面を指さした。
乾いた砂礫が、かすかに“逆向き”へ波打つように揺れている。
まるで地面そのものが、彼らを押し返すように脈動しているかのようだ。
レミルはその揺らめきに、ほんの一瞬、
“滑り落ちる方向が逆さになった”錯覚を覚え、息を呑んだ。
エルゴが低く告げる。
「高度感覚が……狂わされている。
ここは、もう自然の領域じゃない。」
三人は互いに言葉を失った。
ただ、足元のかすかな逆流だけが、
これから踏み込むものの異質さを告げていた。
ゼノ・ハイトの入口は、
すでに“向こう側の理”を滲ませている。
そして、その静けさこそが――
これから始まる異常の最初の警告だった。
踏査路の終端を抜けた瞬間、
視界の奥で“岩壁がこちらへ迫ってくる”ように見えた。
レミルは思わず足を止めた。
前方にそびえるゼノ・ハイトの基部――その岩壁は、
上へ行くほどに輪郭を歪ませ、
まるで天頂へ伸びるどころか、
“天を裏返してこちらへ折り返してくる”ように湾曲していた。
遠近法が崩れ、
距離の感覚が急速に壊れていく。
リゼルが眉をひそめて、剣の柄に触れた。
「……ちょっと待って。あれって……近づいてきてない?」
「違う。」
レミルは自分の胸の奥からこみ上げる確信に従って答えた。
「――あれは“落ちる方向が逆になってる”。
本来なら下へ落ちるべき地形が、上へ向かって反転してるんだ。」
言葉にした途端、空気が軽く震えたように感じた。
エルゴも計器を睨みつけて唇を噛む。
「……重力ベクトルがねじれてる。地形自体が“上昇方向”へ曲がっている……」
まさにそのときだった。
足元の砂礫の中から、小石がひとつ――
ふわりと、音もなく浮き上がった。
続いて、二つ、三つ。
風も気流もないのに、石は揺らぎながら上昇し、
まるで目に見えない糸に引かれるように空へ吸い込まれていく。
「えっ……?」
リゼルが素っ頓狂な声を漏らす。
「石が……落ちてない……逆に、昇ってる……!」
レミルは浮上していく小石を見つめながら、
喉が乾くのを感じた。
これはただの異常ではない。
“重力そのものの構造”が破れている。
ゼノ・ハイトは、
落下と上昇がまだ混ざり合っていた原初の世界を、
そのまま露出させているのだ。
そして――
ここから先は、その“捩れた法則”の只中へ踏み込むことになる。
読者にも、三人にも、
否応なくそれが理解できるほどに。
ゼノ・ハイトの玄関口にあたる石原を越えた瞬間、
景色が“ねじれて”見えた。
正面の岩壁は確かにそびえ立っている。
だが、上方へ視線を移すにつれ、
その岩肌は――まるで天蓋を裏返すように折れ曲がり、
空へ向かうほど“こちらへ迫ってくる”形に変質していた。
リゼルが息を呑む。
「……待って。あれ、落ちてきてるわけじゃないよな?」
遠近感が崩壊し、
上部の断崖が、風のない空間でゆっくりと“手前に傾く”ように見える。
錯覚ではなかった。
岩壁そのものが、重力方向の反転に沿って歪んでいる。
レミルは胸の奥から湧き上がる理解に従って、低く呟いた。
「――落下方向が、逆転している。
本来なら下へ落ちる地形が……上へ落ちているんだ。」
その瞬間。
足元の砂礫がかすかに震え、
小石がひとつ、フッと浮かび上がった。
リゼルの目が大きく見開かれる。
「ちょ、ちょっと待って……!
石が……落ちてない……逆に、昇ってる……!」
二つ目、三つ目の小石が続いて空中へ持ち上がり、
重力を無視した軽やかな軌跡で、
岩壁の“反転した上方”へ吸い込まれていく。
風は吹いていない。
気流の揺らぎも感じない。
ただ、世界の方向性だけが、静かに狂っている。
エルゴが計器を急いで調整しながら青ざめた声音で言った。
「……重力ベクトルが完全に乱れてる……
この地点、もう“自然の物理”じゃない……!」
レミルは上昇していく石の軌跡に目を細めた。
ここは境界だ。
落下と上昇がまだひとつだった原初の場所――
世界の重力が生まれ、分岐した“始点”。
ゼノ・ハイトへの第一歩で、
三人はすでに、常識ごとひっくり返されていた。
「……風速、ゼロ? そんなはずが……」
エルゴが風速計を翳したまま、首をひねる。
指針は右へ、左へ、震えるように揺れ続け、ついに一周して止まった。
「定まらない……どの方向からも風は来ていないのに……
数値が……暴走してる……?」
だが、実際には風は吹いていなかった。
樹も草もない岩場で、揺れているものはない。
吹きつける感触も、冷気の流れも存在しない。
なのに、三人の身体には、ふっと“重みが抜ける”瞬間が訪れた。
リゼルが驚いて足を踏ん張る。
「……今、軽くなった? 落ちたわけじゃないよね?」
レミルも同じ感覚を味わっていた。
足裏に感じる地面が、一瞬だけ遠ざかる。
まるで、重力そのものが“削られた”ような奇妙な浮遊感。
その原因は――視界には見えないが、確かに存在していた。
空間を縦に裂く、透明な螺旋。
風のようでいて風ではない。
空気の流れではなく、重力線の流動が、
何本もの細い糸のように、彼らの立つ領域を切り裂いている。
レミルの髪がふわりと揺れた。
だが揺れた方向は、横でも後ろでもなく――上。
「……!」
リゼルの喉から短い息が漏れる。
風もないのに、髪が天へ吸い上げられるように震える。
エルゴは計器を抱え込み、震える声で言った。
「これは……風じゃない。
重力線が……螺旋状に“削られて”いるんだ。
まるで……見えない刃で、空間が削ぎ落とされてるみたいだ……!」
レミルは視線を上げた。
岩壁が裏返るように屈曲し、昇る落石が軌跡を描く世界。
その中心で、見えない螺旋がすべてを切り裂いていた。
――ここは、本当に“重力の生まれる場所”。
その事実が、静かに、確実に、三人へ迫っていた。
「……空の色が、変だ。」
リゼルの声は、呟きというにはあまりに固かった。
レミルとエルゴも同時に視線を上げる。
ゼノ・ハイトの上空だけが、世界から切り離されたように異様な色をしていた。
周囲の空は通常の薄青。
しかし頂の真上――そこだけは、深い鉄紺が滲むように広がっている。
そして、その鉄紺の層を縫うように、
雲が縦に裂けていた。
ひとつの大きな傷口のように、空が破けている。
裂け目の奥には――
空よりもさらに暗い、
光の届かない層が広がっていた。
それは夜空とも違い、
深海のようでもなく、
ただ“空の裏側”としか言えない、不気味な深淵。
エルゴが震える声を漏らす。
「……大気層の反転現象……いや、違う……
これは物理の問題じゃない……“向こう側”が見えてる……?」
リゼルは一歩、無意識に後ずさった。
「ねえ……あれ……
本当に“空の向こう”なの……?」
レミルは答えられなかった。
けれど胸の奥で、はっきり理解していた。
あれは“頂”の一部ではない。
むしろ、頂そのものがあの深淵に“繋がっている”のだ。
世界の屋根がめくれ、
その下に隠れていた“重力の底部”が露出している。
風のない空を裂く、静かすぎる断層。
昇る落石の軌跡が、その裂け目に吸い込まれるように消える。
レミルは息を飲んだ。
――この崖の頂は、
天へ向かう場所じゃない。
空の裏側へ――
深淵へと落ちていくための“入口”だ。
レミルはふと、足裏を撫でるような微かな震えに気づいた。
それは風でも地響きでもない――もっと、生き物の呼吸に近いもの。
彼女は膝をつき、そっと地面へ手を当てた。
指先に伝わるのは、乾いた岩の冷たさ。
だがその奥で――
トン……トン……
まるで心臓が脈打つような、規則的な鼓動。
レミルは息を呑む。
「これ……崖の揺れじゃない……」
鼓動は岩盤全体に広がり、
さらに深くへ潜るほど強まり、
足元の世界が、ひとつの巨大な生命の臓腑であるかのよう。
エルゴが驚きの声を上げる。
「レミル!? 危ない、ここは――」
だがレミルは彼の声を聞いていなかった。
胸の奥で、今まで散らばっていた感覚が急速に“形”を成し始める。
昇る落石。
削られる重力線。
裏返る岩壁。
空の裂け目。
そして、この脈動。
すべてが同じ一点を指している。
彼女は地面に触れたまま、静かに言った。
「……わかった。」
リゼルが振り向く。
「レミル……?」
「ここが――」
レミルはゆっくり顔を上げ、
裂けた空と昇る石の軌跡を見つめた。
「世界の重力が、生まれる場所。
落下と上昇が分岐する……境界そのものだ。」
言葉と同時に、また鼓動が響いた。
まるでゼノ・ハイト自身が“肯定”するかのように。
彼女の手のひらを震わせた脈は、
世界の骨格を形作る、見えない大河の拍動だった。
レミルだけが、その意味を理解していた。
ここはただの頂ではない。
世界が世界であるための“始まりの臍”だ。
エルゴの携行計器が、突如として鋭い警告音を上げた。
「……え?」
彼は慌てて画面を覗き込み、次の瞬間、目を疑った。
計器に描かれる重力線が――
上下反転している。
通常、上昇気流や乱流を検知しても、線は揺らぎこそすれ決して“逆さ”にはならない。
だが今は、まるで重力そのものが裏返ったような曲線を描き、
揺れを逸して一気に一点へ収束し始めていた。
「おい……ちょっと待て。
これ、重力場が……折り返してる?」
エルゴの声は震えていた。
レミルが覗き込むより早く、計器の中央に表示が浮かぶ。
〈G=0〉――ゼロ点。
それは地球型世界では、理論上“存在しない”はずの値。
「ゼロ……重力の……中心?」
リゼルが呟く。
エルゴは首を振りながら、信じられないものを見るように言った。
「そんなはずはない……地殻より深い。
いや、それどころじゃない……これは――」
彼は喉を鳴らし、絞り出した。
「重力の発生点が存在してる……?
世界そのものの、根……みたいな……」
レミルの胸がざわめく。
先ほど足元で聞いた脈動が、計器の数値と重なった。
彼女の直観と、機械の解析が“同じ地点”を指し示している。
一方、リゼルは背負っていた古い登攀記録の写本を開き、ページをめくった。
先人たちの観測、奇妙な噴流、磁場の乱れ――そこまではある。
しかし。
ページは突然、白紙になった。
「……ここから先、記録がない。」
リゼルは蒼白になり、声を落とす。
「たどり着いていないんだ……
この高さまで、誰も。」
ゼノ・ハイトの風が、答えの代わりに吹き抜けた。
空の裂け目。
岩の脈動。
計器のゼロ点。
すべては一つの真実に向かって収束している――
山の内部に、“世界の根”がある。
それは、世界の構造そのものを書き換えるような発見だった。
足元の岩が、ふたたび脈動した。
まるで山そのものが、巨大な心臓の鼓動を刻んでいるかのように。
リゼルは両腕を抱き、唇を噛む。
これまで何度も極限の登攀を経験してきた彼女でさえ、今の異常には震えが隠せなかった。
「……頂では、何が待っているの……?」
その声は、風よりも細く弱かった。
エルゴもまた、計器を握る手がわずかに震えている。
数値を凝視しても、常識に照らせば理解不能な現象ばかりだ。
「もし本当に“世界の根”なんてものがあるなら……
そこは、人が踏み込んでいい場所じゃない。
到達してはいけない領域だ……」
二人の不安をよそに、レミルはただ、上空の亀裂を見据えていた。
ゼノ・ハイトの頂だけが持つ、不自然な暗さ。
雲の裂け目から覗く、空の“裏側”。
あの深淵の奥で脈打つ何かに――
レミルの瞳は微動だにしない。
その横顔を見た瞬間、
リゼルとエルゴの胸に、同じ感覚が走った。
――彼女だけが、呼ばれている。
言葉にせずともわかる。
レミルは恐れていないわけではない。
それでも前へ進もうとする、静かな確信がその背中に宿っていた。
リゼルは息を呑み、胸の奥でそっとつぶやく。
(怖い。……でも。)
(こんな場所でも……私は、彼女の背中についていけると思ってしまう。)
振り返ったレミルの瞳は、不安を吸い込んでしまうような深さを持っていた。
恐れを抱えながら――それでも、信頼が結び目のように三人を結んでいた。
レミルが、ほんの半歩だけ前へ出た。
その瞬間だった。
足元の砂粒が、ふっと浮いた。
風も衝撃もない。
ただ、重力が存在を忘れたかのように――
砂粒は静かに、まるで意志を持つかのように、上空へと昇っていく。
一粒、また一粒。
やがて小さな流れとなり、星屑の逆流のように空へ向かって伸びていく。
リゼルが息を呑む。
エルゴの手から計器がわずかに滑り落ち、彼は慌ててつかみ直す。
誰が見ても逃れようがない事実だった。
――ここから先は、
世界の法則が“逆転”した空間。
ゼノ・ハイトの岩壁は、近づくにつれ裏返るように歪み、
深淵の覗く空の裂け目は、まるで歩む者を確かめるかのように脈動している。
レミルはしばらくその境界線を見つめたあと、
振り返ることなく言った。
「行くよ。
あの頂に――答えがあるから。」
声は震えていなかった。
それは宣言というより、すでに“確定した未来”を淡々と述べているかのような響きを持っていた。
リゼルは小さく頷き、エルゴも覚悟を飲み込むように息を吐いた。
三人の足元で、砂粒が星屑の列となって昇り続けている。
レミルは、反転する世界の入口へ一歩踏み出す。




