4. レミルの心理変化 ― 新たな覚悟
縄が切れた音は、聞こえなかった。
ただ、空気がひとつ震え、カインの身体が“下へ引かれた”と理解した瞬間、
レミルの世界は、音を失った。
落下――その二文字は、
いま、この場所では、音よりも遅れてやってくる。
カインがいたはずの位置が、ふっと薄くなる。
影がほどけ、崖下の白い風に吸い込まれていく。
それだけで、時間の流れがどこかに置き去りにされたようだった。
レミルは叫ぼうとした。
けれど喉が閉じ、声の形だけが胸の奥で千切れた。
息だけが震えて漏れ、世界に届く音にはならない。
伸ばした腕の先は、ただの空虚だった。
指先が触れられたはずの距離に、
もう彼の温度も、重さも、存在の痕跡さえ残っていない。
――救えなかった。
――自分のせいだ。
――レミルの名が、彼を狙わせた。
三つの痛みが同時に落ちてきて、胸の奥で鈍くぶつかり合う。
その衝撃があまりにも大きすぎて、
涙はこぼれなかった。
泣けば、壊れてしまう。
そんな直感だけが、本能のどこかで鳴っていた。
時間は確かに進んでいる。
風も吹いている。
戦場の叫びも、岩壁を打つ衝撃音もあるはずだった。
なのに、レミルの世界は張りつめた氷膜の中に閉じこめられたようで、
すべての音が、透明な膜の向こうへ押しやられていた。
ただひとつ、
胸の奥底に突き刺さった“空虚”だけが、
現実であることを主張していた。
色が、消えた。
レミルの視界から、戦場の赤も、岩壁の黒も、魔力の光も、
すべてが音を立てずに抜け落ちていく。
まるで世界が彼女の感覚から逆落としに逃げていくようだった。
残ったのは――
落下風の、低く重い轟音だけ。
それは、カインが落ちていった方向から吹き上げてくる風。
彼の姿を連れ去った深淵の息吹。
耳ではなく、骨に響くような音。
その音に包まれながら、レミルの思考はひとつの線に収束していく。
私のせいで、彼は落ちた。
その言葉は、誰かに責められたわけではない。
戦場にいる誰も彼女を非難していない。
それでも、胸の奥に刻まれた事実は動かない。
“レミル”という名前が信仰の象徴になり、
その名を守ろうとした男が標的にされ、
そして落ちた。
――私が、落としたのと同じじゃないか。
喉の奥が焼けるように痛む。
胸の中心が、ひとつ、深く沈んでいく。
かつてレミルが登る理由としていたもの――
自分の弱さに勝ちたい、恐怖を克服したい、
あの頂を目指したい。
その全部が、いま粉々に砕けた。
“登る”という行為は、
光でも栄誉でも自己証明でもなかった。
――誰かを置き去りにする特権。
――登る者だけが持つ、残酷な選択。
自分が上へ向かったせいで、
彼は下へ引かれた。
胸が裂けそうなのに、涙はまたこぼれない。
泣くという行為が、彼を弔う資格すらないと告げているようだった。
遠くで戦場の叫びが続いているはずなのに、
そのすべては薄い膜の向こうでぼやけ、
レミルの耳に届いてくるのは、あの風の音だけ。
――ゴウ、と深淵へ吸い込む音。
それはまるで、
「お前が落としたのだ」と告げる声のように、
彼女の心の底面を、静かに、確実に叩き続けていた。
深淵の風だけが響く世界で、
ふいに――ひとつの“光”がレミルの心に戻ってきた。
それは、落ちていく直前。
カインがこちらを振り返った、あの一瞬の眼差し。
責めてはいなかった。
嘆いてもいなかった。
恐怖や諦めの色さえなかった。
ただ――
何かを託すように、静かに優しい光だけが宿っていた。
レミルの胸がきゅ、と小さく、痛みとは違う震え方をする。
(どうして……あんな目で……)
普通なら恨むだろう。
置き去りにした相手を責めるだろう。
自分の名が原因ならなおさらだ。
なのにカインの目には、
どこか“救い”に似たものがあった。
あれは――
(落ちる者が望んでいたのは……私が上へ行くことじゃなかった?)
罪悪感の重圧の下で、
ひとつだけ、形にならない疑問が息を吹き返す。
彼は、私の上昇そのものを望んだんじゃない。
落ちる側の“声”を背負う私を……望んだ?
レミルの胸の奥で、
罪とは別の火が、小さく点いた。
まだ熱になる前の、弱々しい灯り。
けれど確かに“上へ向かう力”を内側で押し上げてくる、
そんな光だった。
胸の奥で、小さな灯が揺れ続けていた。
今にも消えそうで、それでも消えずに残り続ける火。
レミルは、深く息を吸った。
かつての自分が胸の奥から浮かび上がる。
高みに行きたいと願った少女。
恐怖に勝ちたがった少女。
自分の存在を誰かに証明したかった少女。
けれど、今――
その願いは、崩れ落ちた断崖の岩のように音もなく崩れ去っていく。
代わりに、胸の中心にするりと滑り込んでくる新しい想いがあった。
落ちた人の声を背負いたい。
自分の上昇で、誰かが救われる世界を作りたい。
登ることは、もうただの「挑戦」ではない。
誰かの痛みと、誰かの祈りと、失われた影の重さを
上へ運ぶ行為――そんな“使命”に変わっていく。
その瞬間だった。
崖下から吹き上がってきた逆風が、
レミルの髪を、まるで天へ導くように上へ向かってなびかせた。
重力線が揺らぐ。
世界の力の流れが、一瞬だけレミルの周囲に収束していく。
呼吸が変わった。
冷たく凍りついていた胸が、じわりと熱を帯び始める。
崩れた価値観の瓦礫の中から、
新しい“レミル”が立ち上がる。
上へ――
けれど今は、自分のためではなく。
落ちていった影のために。
落下者の声が途切れないように。
彼らの痛みを、この世界の頂へ届けるために。
レミルは、静かに目を開いた。
その瞳にはもう、迷いではなく、
落下と上昇をつなぐ者の覚悟が宿っていた。
レミルは、震える指先をゆっくり握りしめた。
その動きは祈りにも似ていたが、祈りではない。
崩れた価値観の瓦礫の上に、自分の足をもう一度置くための動作だった。
胸の奥に沈み続けていた“空白”が、ひとつの言葉を求めて形になっていく。
――言わなければ、前に進めない。
レミルは心の底から、自分へ向けて語りはじめた。
「私はもう、登るために登らない。」
声は震えていなかった。
悲鳴でも嘆きでもない。
焼け焦げて冷えきった鋼のように、静かな輝きを帯びていた。
「落ちた者の声を……上へ運ぶために登る。」
その宣言は、誰に聞かせるものでもなかった。
だが、世界の重力線さえ聞き耳を立てるような――
そんな確かさがあった。
レミルの胸に、ひとつの理解が灯る。
落下者と上昇者は、断絶していない。
落ちていった者の思いが、上へ進む者を作る。
上を目指す者の足が、落下者の声に支えられている。
崖の世界は、本当は単純な上下では区切れない。
落ちることも、登ることも、
同じ一本の軌跡の上にある。
風が、レミルの頬を撫でる。
その風は、落下した者の残した“気配”を
ほんの少しだけ運んできたように感じた。
レミルは目を閉じる。
涙は落ちない。
ただ静かに、胸の奥でひとつの誓いが固まる。
私は登る。
でも――私だけのためじゃない。
その瞬間、レミルは“断崖令嬢”ではなく、
落下と上昇をつなぐ者として歩き始めた。
レミルの胸に宿った決意は、声を失った世界に静かに染みていった。
その瞬間――崖の空気が変わった。
風が止んだ。
いや、止まったように“聞こえなくなった”だけだ。
重力偏差が、まるで彼女の呼吸に合わせて脈打つように揺れている。
レミルの足元の岩盤が微かに光った。
赤黒いはずの岩肌に、白銀の線が浮かび上がる。
それはひび割れではない。
まるで“重力の縫い目”――見えない力の境界が視覚化されたかのようだった。
落下風が流れる。
本来なら崖下へ向かって吹き抜けるあの底冷えする風が、
逆にレミルへ吸い寄せられていく。
髪がふわりと浮き上がる。
広がった銀髪の一本一本に、淡い光が灯るようだった。
――覚醒ではない。
これは“再定義”。
レミルという存在が、世界にとって別の位置に再配置された瞬間だった。
空間に霞のような光がまとわりつき、
その中心に立つレミルの輪郭だけが、妙に鮮明だった。
重力線が彼女の周囲で収束し、静かに形を整えていく。
「断崖令嬢……?」
リゼルがかすれた声で呟く。
だがその呼び名は、もはや古い。
先ほどまでの“断崖令嬢”は、
ただ断崖を登ることを運命づけられた少女だった。
今ここに立つレミルは違う。
断崖に落ちた者の声を拾い上げ、
それを天へと運ぶ者。
落下と上昇のただなか、
どちらにも傾かず、どちらも否定しない。
重力と信仰の境界を歩む娘。
足元の岩盤の光が、まるで彼女に跪くように収まり――
レミルは静かに瞳を開く。
その瞳はもう、迷っていなかった。
高みを見るのでも、下を恐れるのでもない。
ただ、
世界のすべての落下者の声を聞こうとする者の瞳だった。
風が再び吹き始めたとき、
レミルの周囲で揺らめいていた光はすっと収束し、
ひとつの新しい象徴へと変わった。
断崖令嬢の“真なる称号”。
崖を登るための力ではなく、
落下と上昇をつなぐための力として。
レミルの足元に沈んでいた光が消え、
風がふたたび戦場へ流れ込んだ。
そのわずかな変化を、
仲間たちは誰よりも敏感に感じ取った。
◆リゼル
レミルがゆっくりと顔を上げた瞬間、
リゼルは息を呑んだ。
瞳――
いつも揺れていた、どこか怯えた光がない。
代わりに、
深い井戸の底で灯るような静かな光が宿っていた。
「……レミル様……?」
呼びかけた声は震えていた。
恐怖ではない。理解の追いつかない“畏れ”だった。
彼女の中で、何かが決定的に変わった。
それは、戦場の空気よりも確かな変化だった。
◆エルゴ
離れた位置で計器を構えていたエルゴは、
異常値を示した画面に目を見開いた。
重力密度。
本来なら崖の乱流で乱れきっているはずの線が――
収束している。
しかも、渦の中心はレミルの足元。
「……整っている……? 誰が……いや……まさか……」
次の瞬間、彼は理解する。
レミル自身が、重力流を“整流”している。
ありえない。
人間が扱える現象ではない。
ただの魔力操作では到底届かない領域だ。
だが計器の針は、嘘をつかない。
エルゴはぞくりと背筋を震わせた。
◆周囲の兵たち
戦っていた兵たちが、ふと手を止めた。
「……風の向きが変わった?」
「おい、さっきまで下から吹き上げてたのに……」
「いや……違う。あれ、“吸われてる”んだ……あの子の方へ……」
誰かが指をさす。
視線の先――
光をまとわぬレミルが、静かに立っていた。
その姿を見た瞬間、
兵たちのざわめきが広がる。
「……何だ、あの気配……」
「昇崖教会の加護か……? いや……違う……」
「重力が……軽い……?」
戦場全体が、ほんの数秒だけ息を止めた。
◆結び
誰の言葉でもなく、
戦場そのものがレミルの変化を“認識した”。
少女が一人そこに立っているだけなのに、
崖の空気が形を変え、
風が彼女に向かって流れ、
重力線が静かに従っていく。
それはまるで――
世界の側が、彼女の覚悟に応え始めたかのようだった。
崖下から吹き上がる乱流は、まだ沈黙を取り戻していなかった。
落下の余波が岩肌を震わせ、砂塵が渦のように舞い上がっている。
レミルはその中へ、ふらつく足取りで一歩進み、
荒れた崖壁へそっと指を当てた。
指先が触れた岩は冷たく、
倒れかけた心の余熱を奪うようだった。
だが彼女は、もう立ち止まらない。
◆旧い動機の死
数分前までの自分は、
前へ出たい、自分を証明したいという焦燥で身体を動かしていた。
高みに立つことそのものが目的だった。
恐怖に勝つことが、自分の価値の証だと信じていた。
――もう違う。
崖下に消えた者たちの気配が、
まだこの手に、胸に、残っている。
落ちた者の想いは、切り捨てられた残骸ではない。
そこには願いがあり、痛みがあり、誰にも届かなかった言葉がある。
それを拾えるのは、
いま、崖に立っている自分しかいない。
「私は……届ける。“私”ではなく、“彼ら”を。」
呟きは風に飲まれたが、決意だけは揺るがなかった。
◆新しい動機の誕生
レミルは登攀姿勢を取った。
両手を、両足を、確かめるように岩へ預ける。
その姿はもはや挑戦者ではなかった。
落ちた者の無念と願いを、上へ運ぶ“媒体”。
自分のための上昇ではなく、
誰かの代わりに登る、代理者としての一歩。
その思想が、彼女の身体に新たな軸を与えていた。
◆象徴の一歩
レミルが岩をつかんだまま、ぐっと身体を引き上げた。
崖の乱風が、ふっと方向を変えた。
先ほどまで彼女を押し倒すように吹き付けていた落下風が――
背中へ、やわらかく押し上げる流れへと反転する。
砂塵が舞い、布が揺れる。
風の線が、彼女の体を沿うように持ち上げた。
自然の気まぐれではない。
まるで、
“行け”と、世界そのものが後押ししたかのようだった。
こうして、レミルは上昇を始めた。
己を高めるための一歩ではない。
落ちた者たちの声とともに踏み出した、
新しい自分としての第一歩だった。




