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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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カインの捕縛と贖罪の落下

――“守る一歩が、落とす一歩になる”


 ヴァルシオンの中腹。崖の空気はもう“風”ではなかった。

 重力偏差が周期的に唸り、足場の岩板が沈み、浮き、また沈む。

 そのたびに戦士たちの身体が揺れ、叫びが跳ね返り、魔力光がぶつかり合う。


 レミルは後方で震えていた。

 自分の名が、武器のように飛び交う戦場で――。


 カインは彼女を一瞥し、歯を食いしばる。


(こんなもん、見せていいわけがねぇ)


 彼は前方へ出る。

 足場が沈み込む瞬間を読んで跳躍し、昇崖信徒と堕崖信徒が入り混じる狭い足場へ踏み込んだ。


「レミルの名を勝手に利用すんじゃねぇ!!」


 吠えた声が、風ごと震わせる。

 複数の昇崖信徒がはっとして振り向くが、その隙を狙うように堕崖信徒が突進してくる。


 カインは構わず剣を振るい、両勢力をまとめて押し返した。

 レミルへ殺到しようとしていた者たちが、玉突きのように崖の奥へ弾き飛ぶ。


「ここは通さねぇ。あいつに近づけるかよ……!」


 だがその瞬間、足場が“沈んだ”。

 重力偏差の波が強まり、地面が一拍ぶんだけ吸い込まれる。


 カインの視線が反射的に足元へ落ちる。


 ――その一瞬を、堕崖信徒たちは待っていた。


「今だ、“網”を張れ!」


 崖の陰から、五人の堕崖信徒が一斉に姿を見せた。

 手には魔印石、そこから展開されたのは細く、鋭く光る魔力の糸。

 重力の揺れに合わせて波打ち、獲物を絡め取る罠――“落下祈導の網”。


「――ッ!」


 気づいたときには遅かった。


 足場が沈む動きと同調するように網が跳ね上がり、

 カインの腕と胴、脚へ巻きついた。

 鋼線のような魔力の拘束が、骨ごと締めつける。


「クソッ……離せ!!」


 しかし網は彼の力に合わせて“収縮”する性質を持っていた。

 抵抗するほど、罠は深く食い込む。


 堕崖信徒の一人が、祈りの声で告げる。


「登攀者よ――赦しを乞うなら、落下へ還れ。」


 カインが守るために踏み出した一歩。

 それが、彼を孤立させ、罠へと誘う“落ちる一歩”になっていた。



――“落ちよ、帰還の儀にて”


 落下祈導の魔力網に絡め取られたカインは、

 抵抗するたびに拘束が締まり、呼吸すら荒くなる。

 堕崖信徒たちはその身体を、まるで献物でも扱うように

 ゆっくり、慎重に――しかし容赦なく――足場の縁へと引きずっていった。


 崖の縁は、風ではなく“底”の気配が濃い。

 見下ろせば、遥か下で重力の流れが渦を巻き、

 白い霧が深淵へ吸い込まれていくのが見える。


 信徒の一人が、肩に刻まれた落下紋を撫で、祈りを始めた。


「落ちよ……

 汝の罪を払うために。

 深淵は拒まぬ……

 帰還の道は常に下へ。」


 その声は、静かで、狂気じみるほど穏やかだった。

 祭壇の前で神を迎える司祭のように、ひたすらに慈悲深い。


 カインは歯を食いしばる。

 魔力網に筋肉を縛られ、足も腕も動かない。

 重力偏差のせいで体幹がぶれるたび、視界が揺れた。


「……ふざけんな……

 誰が……好きで……」


 言葉が掠れる。

 堕ちたくない。

 生きたい。

 レミルを残して――死ねるか。


 だが彼は、レミルの名を呼ばなかった。

 呼んだ瞬間、彼女がこの狂気の標的になると分かっている。


(レミル……来るなよ……絶対に……)


 しかし、堕崖信徒たちはそんな彼の沈黙すら

 “罪の自覚”だと断じる。


「登攀者を守るために戦う者よ」

 ひとりが、崖下を指し示しながら告げる。


「その執着こそ、重苦しき縛り。

 高みを目指す者を支える執念こそ、罪。」


 別の信徒が続ける。


「ゆえに――落ちよ。

 重き執着を、深淵が洗い流そう。」


 彼らは愉悦でも憎悪でもない。

 ただ、“儀式”を進めるだけの顔だった。


 カインの足はもう、縁を越えていた。

 あとは、指先ひとつの力で落ちる。


 深淵が、口を開けて待っている。


(クソ……まだ……まだ終われねぇ……!)




レミル、異変を察知 ― しかし間に合わない

――“気配が落ちる音がした”


 戦いの渦中。

 飛び交う魔力の残光と断崖の唸りが混在する混沌の中で、

 レミルはふと――“違和感”に背筋を掴まれた。


 音ではない。

 声でもない。


 岩盤が、低く軋んだ。

 まるで崖そのものが悲鳴を上げるように。


 次いで、空気が――下へ吸い込まれていく。

 落下流が突然、彼女の髪を後方へ引き寄せた。


(……誰かが、落ちる……?)


 否。

 “落ちる”では遅い。

 “離れる”――その瞬間の気配だ。


 レミルは振り返る。

 視界のずっと奥。重力に歪む揺らぎの向こう――

 足場の縁で、魔力網に絡め取られた男の影。


(カイン……!?)


 心臓が、崖下へ向かって落ちていく。

 胸の奥が、ひゅ、と沈んだ。


 理由など考える暇はなかった。

 叫びより先に、足が走り出していた。


「――カインッ!!」


 風が逆流し、重力が揺れ、足場が軋む。

 それでも、レミルの身体は勝手に前へ進んでいた。


(間に合って……! お願い……!)


 しかし、彼女の疾走とは裏腹に、

 深淵へ向けて“引かれていく”気配は加速していく。


 レミルは知っていた。

 これは――間に合わない距離だと。

 それでも、走るしかなかった。


 足場が傾き、風が悲鳴をあげた。


 ――誰かが、今まさに落ちる。


 その瞬間へ、レミルは全力で飛び込んでいった。


堕崖信徒たちは、抵抗を失った獲物のようにカインを縁まで引きずっていた。

 断崖の端は、戦闘で荒れ、赤黒い岩盤が湿った息を吐いている。

 重力偏差が強まり、足元が周期的に沈む――世界そのものが、落下を望んでいるかのようだった。


 信徒Aが、淡々と告げる。


「落下は赦し。抗うことはない。」


 その声には憐憫すらない。ただ“儀式の進行”という冷たさだけ。


 縄で縛られたカインは、縁へにじり寄りながら奥歯を噛みしめた。


「……レミルを……巻き込むんじゃ……ねぇ……」


 声が震える。

 重力が彼の胸郭を圧し、息がうまく入らない。

 身体が前へ、崖下へ――ゆっくり“引かれ始めている”。


 その瞬間――


「カイン!!」


 震える空気を切り裂き、レミルが駆け込んでくる。

 足場は崩れかけ、風は渦を巻いて逆流し、世界そのものが彼女を拒むように揺れている。

 あと数メートル。

 手を伸ばしても――届かない。


 堕崖信徒たちは淡々と縄を持ち上げる。


「帰還を受け入れよ。」


 ぱつん。


 魔力紐が切れた瞬間、

 世界の重心が、彼を“捕まえる”。


 カインの体は――

 “落ちた”のではない。


 “宙へ沈んだ”。


 音すらなかった。

 ただ、空気がひとつ、深く息を吸ったようだった。


「やだっ……待って、カイン!!」


 レミルは崖へ飛びつくように手を伸ばす。

 足場が沈み、重力が背中を引く。

 それでも、指先が――あと数センチで届かない。


 カインは下方で、揺らぐ視界の中、かすかに顔を上げた。


(……レミル……悪いな……)


 聞き取れたかどうかも分からないほど小さな声。

 だが確かに、レミルの胸を刺した。


 次の瞬間――風が彼を攫った。


 黒い影が深淵へ吸い込まれ、

 戦場の音すら飲み込む“静かな落下”だけが続く。


「カアアアインッ!!」


 レミルの叫びは、重力の底へ届かず、

 ただ空気を裂き、消えていった。



カインの身体が深淵へ吸い込まれていった軌跡は、

 常識では説明できないほど“まっすぐ”だった。


 重力偏差の乱れも、逆巻く風も、

 彼を左右へ揺らさず、引き留めもせず――

 ただ、一直線に底へ誘った。


 落下の影は岩壁に伸び、

 長い、長い黒の残像となって戦場へ刻まれる。


 その光景が、

 叫びの渦だった崖全体を――一瞬、鎮めた。


 昇崖信徒たちが足を止める。


「……仲間が……落ちた……?」

「レミル様の……守護者が……?」

「どうして……そんな――」


 彼らは“勝利”のために戦っていたわけではない。

 “登攀者レミルの軌跡に続く”と信じていた。


 そのレミルの盾とも呼べる男が、

 信仰を理由に落とされたという事実は――

 胸の奥を鋭く、深く抉り込んだ。


 一方、堕崖信徒たちは異なる沈黙を裂く。


「ひとり、帰還した。」

「執着を断ち切った。祝福せよ。」

「落下こそ赦し――彼は救われたのだ。」


 重力の揺れ、風の唸り、揺れる足場。

 世界はまるで【二つの価値観に割れた】ようだった。


 登攀か、落下か。

 救いか、解放か。


 だが――


 カインは、どちらにも属さない。

 “レミルを守ろうとした人間”として落ちた。

 どの教義も、その死を奪うことはできない。


 それが、戦場全体に

 言いようのない重さを残した。


 そしてその中心で、レミルひとりだけが、

 崖下を凝視したまま震えていた。


 自分の名が武器にされ、

 その果てで守ろうとした人が“贖罪として落とされた”という現実に。



崖下へ飲み込まれていった黒い影は、

 まだ心の中で落ち続けていた。


 レミルの指先には、

 届かなかった温もりの残像が刺さっている。


 ――救えなかった。

 ――守ってくれたのに。

 ――私の名前のせいで、彼は狙われた。


 胸の奥で、何かがゆっくりと割れていく。

 ひびは痛みではなく、静かな軋みとなって広がる。


「……カイン……」


 声は泣き声ではなく、乾いていた。

 涙より先に、悔いと怒りが燃えている。


 足場の揺れが身体を傾けても、

 レミルはもう掴まらない。

 ただ、崖下を真っ直ぐに見つめる。


 かつて彼女は、

 **“登れるから登る”**と言った。

 **“上を見る自分を見たい”**とも言った。


 しかし今、そのどちらも

 胸の中で静かに姿を変えていく。


「私は……ただ登るためには、もう登らない。」


 言葉は震えていない。

 むしろ落下流の中に立つような、静かな強さを帯びていた。


「落ちていった人の声を……上へ運ぶために登る。」


 戦場の喧騒が、まるで遠ざかる。

 重力偏差のざらつきすら、今の彼女の眼には霞む。


 リゼルが息を飲む。

 エルゴが計器を落としそうになる。

 誰もが、彼女の中で何かが変わったと悟った。


 ――これは“決意の瞬間”だ。


 レミルの心の奥に宿ったのは、

 登攀でも落下でもない、新しい価値。


 落ちた人の声を背負って上へ進む者。

 断崖を越え、天へ道を切り開く者。


 後に“断崖令嬢の真なる称号”として語られる

 力の核が、今、彼女の魂に生まれた。


 その瞳にはもう迷いがなかった。

 ただ一つの光だけがある。


 ――落ちた者を裏切らないために。

 ――彼らの声を上へ届けるために。


 レミルは、登る。





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