血の崖・ヴァルシオン
血の崖・ヴァルシオンは、言葉で形容するのも難しいほどの異形の地だった。数千メートルに達する断崖が連なり、まるで空間に張り出す層状の階層を成している。崖の縁は一定ではなく、場所によって幅は数十センチしかない箇所もあれば、数メートルに広がる場所もある。足を置くたび、どこが安全でどこが危険かを計りかねる不安が全身を包んだ。
岩盤は赤黒く光り、ところどころ魔力渦流が岩肌を揺らしている。微細な地殻変動に呼応するかのように岩は絶えず微かに震え、表面は滑りやすく、踏み外せば下方の深淵へ真っ逆さまに落ちてしまうだろう。
さらに厄介なのは、この断崖の重力の不安定さだ。局所的に重力が歪んでおり、足を踏み出すたびにほんのわずかな落下感や浮遊感が襲う。風も規則性を欠き、方向や強さが次の瞬間に変わるため、登攀者は常に自分の体勢を調整し続けなければならなかった。
この場所では、自然そのものが挑発者のように登攀者を試し、心と体の両方を絶えず揺さぶっているのだった。
血の崖・ヴァルシオンの戦場は、まさに混沌そのものだった。登攀者は崖の縁に足をかけながら、一歩一歩慎重に進む。だが足場は常に不安定で、踏み外せば深淵に吸い込まれる危険が隣り合わせだ。
下方では、落下者たちが重力偏差と突風に翻弄され、予測不能な軌跡で崖面を転がり落ちていく。その度に空気が渦を巻き、登攀者の足元を揺さぶる。
戦闘員は魔力や武器を駆使して戦うが、岩壁を伝わる振動や落下者との接触によって、自らも危険に晒される。魔力弾が岩に当たると衝撃が崖全体に伝わり、登攀者はバランスを崩しかねない。
一歩踏み出すたびに、下方の渦巻く風がまるで足元を掬おうと手を伸ばしてくるかのようだ。登攀と戦闘、そして落下――三者が交錯するこの空間では、どの瞬間も生死が紙一重であり、緊張は常に最高潮に達していた。
足元の岩肌が、わずかに震えた。
ほんの数ミリ――しかし、その揺れが登攀者たちの心を一気に締め付ける。
ここでは、どんな微小な変化も“落下の予兆”として脳が勝手に解釈してしまう。
視界の端で、赤黒く光る岩盤が脈打つ。
それがまるで“生きている崖”のようで、リゼルは呼吸を忘れた。
風が不意に横から吹きつけ、身体が浮く。
胸の奥がぐらりと落下し、脳が警報を鳴らす。
(落ちる――!)
その錯覚だけで、指先の力が抜けそうになる。
しかし次の瞬間、上方で魔力光が爆ぜた。
閃光に目が焼かれ、耳に飛び込む轟音。
その衝撃が岩壁全体を揺らし、崖面が波のようにしなる。
「くっ……!」
カインは思わず岩角にしがみつく。
足裏に感じるのは固い石ではなく、いつ崩れるか分からない“生きた地面”の感触。
下では落下者が不規則な軌道で翻弄され、
その絶叫が風に掻き消されながらも断崖にこだまする。
その声が、また精神を削る。
エルゴの視界も揺れていた。
重力が斜めに引くような歪みが、身体の軸を狂わせる。
(落ちる感覚と、浮く感覚が……同時に……)
思考と感覚が分裂し、胃が裏返るような気持ち悪さが襲う。
それでも観測装置を離せない。
恐怖と興奮が入り混じり、彼は半笑いすら浮かべていた。
リゼルは手袋越しに岩を掴みながら震えていた。
岩肌の冷たさひとつ、粗さひとつが、
“今ここで支えている全て”だと痛感させてくるから。
(ここでは……恐怖に飲まれた者から落ちていく……)
その真実が喉に張り付いて離れない。
魔力の閃光。
崖のうねり。
狂った風。
重力のねじれ。
そして、足元の虚無。
すべてが精神を侵食し、
“落ちる感覚”が恐怖の中心として絶えず心臓を握る。
それは血の崖ヴァルシオンが生み出す、最も残酷な心理戦だった。
崖面のあらゆる段差、張り出した岩棚、祈祷所として組まれた木製の足場――
そのすべてが、同時に火花を散らし始めた。
重力偏差の揺らぎが風を巻き込み、
上昇と下降の力がせめぎ合うように渦を作り、
崖全体が“生き物のように”震えている。
足元の石が跳ね、空気が唸った瞬間、
各拠点で一斉に叫びが上がった。
「レミル様が登られた! 我らも続け!」
「落下は罪だ! 救いの道は上にこそある!」
昇崖教会の信徒たちは、胸に吊した小さな護符を握りしめ、
風に煽られながらも崖を登る。
その眼差しには恐怖ではなく、確信が宿っていた。
対峙する堕崖教団の信徒は、逆方向へ身を躍らせるようにして叫び返す。
「堕ちることで人は解放される!」
「登攀は傲慢、落下こそ帰還!」
どちらも自らの信仰を、
世界が始まって以来の唯一の真実であるかのように抱きしめ、
相手を“神への冒涜者”と断じる。
その瞬間、どちらが先に攻撃を仕掛けたのか分からない。
吹きすさぶ風と反転する重力の衝撃に押し出されるようにして、
双方が崖の縁に殺到した。
魔力光が交差し、足場が砕け散る。
悲鳴と祈りが混じり合い、
崖の表面に跳ねた火花が、風の渦に吸い込まれて消えていった。
「どけっ!」
「落ちろ! 神は我らを迎え入れ給う!」
互いに叫び合い、腕を掴み合い、
足場を奪い合ううちに、
数人の体がバランスを崩して宙に投げ出された。
どちらの味方が落ちたのかも分からない。
ただ、風の乱れが彼らの悲鳴を切り裂き、
重力偏差の乱流が、落下の速度を恐ろしいほど加速させた。
その姿は、まるで“引きずり込まれるように”崖下へ消えていく。
崖面に残った者たちは、それでも自分の信仰を叫び続ける。
生と死の境界が曖昧になった戦場でも、
祈りだけは決して揺らがない。
風は強まり、崖は震えている。
それが、この地における“開戦”の合図だった。
崖面のあらゆる段差、張り出した岩棚、祈祷所として組まれた木製の足場――
そのすべてが、同時に火花を散らし始めた。
重力偏差の揺らぎが風を巻き込み、
上昇と下降の力がせめぎ合うように渦を作り、
崖全体が“生き物のように”震えている。
足元の石が跳ね、空気が唸った瞬間、
各拠点で一斉に叫びが上がった。
「レミル様が登られた! 我らも続け!」
「落下は罪だ! 救いの道は上にこそある!」
昇崖教会の信徒たちは、胸に吊した小さな護符を握りしめ、
風に煽られながらも崖を登る。
その眼差しには恐怖ではなく、確信が宿っていた。
対峙する堕崖教団の信徒は、逆方向へ身を躍らせるようにして叫び返す。
「堕ちることで人は解放される!」
「登攀は傲慢、落下こそ帰還!」
どちらも自らの信仰を、
世界が始まって以来の唯一の真実であるかのように抱きしめ、
相手を“神への冒涜者”と断じる。
その瞬間、どちらが先に攻撃を仕掛けたのか分からない。
吹きすさぶ風と反転する重力の衝撃に押し出されるようにして、
双方が崖の縁に殺到した。
魔力光が交差し、足場が砕け散る。
悲鳴と祈りが混じり合い、
崖の表面に跳ねた火花が、風の渦に吸い込まれて消えていった。
「どけっ!」
「落ちろ! 神は我らを迎え入れ給う!」
互いに叫び合い、腕を掴み合い、
足場を奪い合ううちに、
数人の体がバランスを崩して宙に投げ出された。
どちらの味方が落ちたのかも分からない。
ただ、風の乱れが彼らの悲鳴を切り裂き、
重力偏差の乱流が、落下の速度を恐ろしいほど加速させた。
その姿は、まるで“引きずり込まれるように”崖下へ消えていく。
崖面に残った者たちは、それでも自分の信仰を叫び続ける。
生と死の境界が曖昧になった戦場でも、
祈りだけは決して揺らがない。
風は強まり、崖は震えている。
それが、この地における“開戦”の合図だった。
崖の中腹、せり出した岩棚に築かれた昇崖教会の臨時拠点。
風は絶えず吹き荒れ、聖旗を激しくはためかせている。
その中心に、白銀の聖衣を纏ったセラ司祭が立っていた。
彼女は片手を掲げ、崖下の混沌を一望する。
落下していく影、登ろうとする者、戦闘の閃光。
――そのすべてを“ひとつの戦場”として掌握するように。
魔力が彼女の喉奥で震え、
言葉は風の轟きよりも深く、崖全体に響き渡った。
「見よ! レミル・アークライトが歩んだ軌跡を!」
岩壁がその声を反響し、まるで崖が喋ったかのように広がる。
「彼女は崩壊を越え、断層すら沈黙させ、なお登る!」
「ならば我ら信徒も――上へ向かう宿命を背負うべきだ!!」
その瞬間、ひとつの熱が戦場に生まれた。
昇崖教会の信徒たちは、息を呑んでから次々と雄叫びを上げる。
落下の恐怖に強張っていた膝が、
まるで新たな義肢を得たかのように強く地を掴み直す。
魔力が一斉に高まり、崖の空気が震えた。
「レミル様の後に続け!」
「登れ! 彼女は道を示したのだ!」
彼らの目は、狂信に近い輝きを帯びていた。
その中心にいる少女――レミルは、
崖下の混乱を見つめながら、胸が冷たく締めつけられるのを感じる。
自分の名前が、誰かの拳を握らせ、
誰かの足を崖の淵へ踏み出させ、
そして、誰かを落下の淵へ追いやっている。
生きた人間ではなく、
“教義そのもの”として祭り上げられた存在。
その事実が、戦場の熱狂とは裏腹に、
レミルの背に静かな寒気となって降り積もった。
セラ司祭の声は、なおも崖を揺らす。
「名を聞け! レミルの名こそ、登攀の正義!」
その宣言は、
刃のように鋭く、
そして容赦なく戦場へ突き刺さった。
崖一帯は、地形そのものが狂気の器になっていた。
赤黒い岩盤が唸り、重力が揺らぎ、風が裂け、
そのすべてを背景に、人間たちの“信仰”がぶつかり合う。
最上層では――
「上へ! 上こそ正義だッ!!」
昇崖教会の登攀者が叫び、
両手の魔力を岩壁に叩きつけながら垂直に駆け上がる。
その通り道に現れた堕崖信徒を、
躊躇なく、足で蹴り落とした。
落ちゆく信徒は、風に体を捩じりながらも笑う。
「落下は――帰還!
栄光の……道だ!」
声は風に切り裂かれ、暗い谷底へ消えた。
別の層では、逆に堕崖教団が優勢だった。
「祝福の落下を……広めよ!!」
彼らは掌を開き、崖面に向けて自爆的な魔力を解き放つ。
赤黒い光が炸裂し、岩盤が大きく揺れ――
そこにいた者たちが、立場も関係なくごっそり足場から落下した。
悲鳴と祈りが、同じ高さで混ざり合う。
さらに中層では、重力偏差が戦場の混乱を極限まで増幅していた。
一歩進むたびに上下が反転し、
登攀していた者と下降していた者が同じ軌道に弾き寄せられ、
味方も敵も区別なくぶつかり合う。
「離れろ! 落ちる――!」
「いやだ、掴ま――」
足場が崩れ落ち、複数人がまとめて宙へ放り出される。
その瞬間、赤黒い岩塵が血と混ざり、
風の渦に呑まれて“霧”となって散っていった。
崖はもう、戦場ですらない。
宗教的狂乱の渦。
ただ“信仰”という名の熱だけが、重力と同じ重さで人を落としていく。
その地獄を、エルゴは崖の陰から観測装置越しに見つめていた。
風に髪を乱されながら、唇が乾いた声で動く。
「……信仰が……」
震える指で装置の焦点を調整しながら、呟く。
「重力より、恐ろしい……」
その言葉だけが、崖の喧騒を切り裂くように静かだった。
崖の至るところから、レミルの名が叫ばれていた。
「レミル様のためにッ!」
「レミルの軌跡を汚すな!」
「レミルの名を掲げて登れぇッ!」
その声がひとつ響くたび、
レミルの胸の奥で、心臓が針で突かれたように跳ねる。
(やめて……そんな……そんなつもりじゃ……)
耳をふさいでも無駄だった。
名前は風に乗り、魔力で増幅され、
崖という崩れやすい箱の中でこだまし続ける。
「私……のせいで……?」
自分に向けて放たれたわけじゃない。
誰も彼女を“責めて”いない。
なのに――
(私の名前で……誰かが……落ちてる……?)
足場が突然、ぐらりと横にずれた。
重力の偏差か、恐怖のせいか、もう判断がつかない。
レミルは反射的に崖の突起へしがみつき、
爪が折れそうなほど力を込めた。
落ちかけたのは身体ではなかった。
揺れ、崩れ、滑り落ちそうになったのは――“心”だった。
「レミル様!」
リゼルが駆け寄り、彼女の背を必死に支える。
「ち、違います……!
誰も、誰もレミル様を責めてなんていません……!」
その声は確かだった。優しかった。
だが、レミルの胸の裂け目を塞ぐには足りなかった。
(意図していなくても……私は……)
この名は、もうただの名前ではない。
戦場の号令。
信仰の旗。
人を登らせ、人を落とす“力”。
――私は、殺すつもりがなくても……
“殺せる存在”になってしまった……。
その事実だけが、崖より深く、
どんな風より冷たく、
レミルの心に沈んでいった。




