堕崖王との邂逅 ― “深淵の対話”
地平の向こうに影が現れたとき、四人は最初、それを“雲”だと思った。
だが近づくにつれ、影は輪郭を得ていく。
そして――誰も声を発せないまま、立ち尽くした。
空に、逆さまの都市が吊られていた。
街路は、空の天井に縫いとめられたように張りつき、
建物はすべて“下”へ向かって生えている。
塔の先端は地面ではなく天空へと伸び、
その全体がまるで巨大な落下の瞬間を静止した彫刻のようだった。
足元の重力が微かに震え、
一歩踏み出すたびに胃がふわりと浮きあがる。
登っているのか落ちているのか、もはや判別できない。
リゼルは喉を押さえ、か細い声を絞りだした。
「……ここ、本当に“町”なのですか……?」
声が空気に吸い込まれ、すぐに消えた。
この場所では音すら落ちていくようだった。
エルゴだけが、恐怖とも興奮ともつかない息を吐く。
「おそらく……重力圏の“節”が……この地形を維持して……
いや……こんなの……言語化できない……。
理屈じゃない……“落ちている町”だ……。」
彼の指が震え、観測装置のボタンを無意識にいじる。
だが計測できるはずもない。
世界そのものが“倒立”したような空間だった。
レミルは、何も言わなかった。
ただ胸の奥が――
静かに、深く、落ちるように震えていた。
まるでこの都市が、
自分の奥底に隠した“どこか”を呼び覚ましているかのように。
彼女は、目を逸らせなかった。
逆さに吊られた世界の中心へと、視線が引き寄せられていく。
風が吹いた。
上へ向かって、落ちるように。
逆さの都市の入口――重力の縫い目のような広場に、一歩足を踏み入れた瞬間だった。
黒い影が、音もなく四方から滲み出るように現れた。
黒衣。
顔を覆う半面。
足音は落ちる砂のように軽く、気配は“沈黙の断層”そのもの。
リゼルが息を呑む。
カインは剣の柄に手を伸ばしかけ――
だが、彼らは武器を構える素振りすら見せなかった。
むしろ、整然とした動きで――
敬意の礼を取った。
信徒たちが一斉に頭を垂れる。
「登攀者レミル。」
最前の男が、仮面の奥から響く声で宣言する。
「堕崖王ディル様は、
あなたを歓迎すると仰せです。」
カインが爆ぜる。
「歓迎って顔かよ……!
囲んで、脅して、無言で……どこが――」
男は静かに首を振った。
「敵意はありません。
私たちは“落ちてきた者”を拒まない。」
それは信念の言葉だった。
薄暗いが、確かな温度がある。
信徒Aは、レミルにだけ視線を向けて続ける。
「ディル様は知りたいのです。
――あなたがなぜ落ちなかったのか。
なぜ“堕ちることなく”ここまで来たのか。」
レミルの瞳がわずかに揺れる。
胸の奥、あの“声の残響”が薄く疼いた。
(……落ちなかった、から……?
どうして……?)
沈黙の中で、
風がひと筋、逆さの街路を“上から下へ”流れていった。
逆塔の中心――“深淵の回廊”。
壁は縦でも横でもなく、
まるで空間そのものが傾いているように歪んでいた。
天井から地面へと落下する光が、途中でねじ曲がり、
底無しの井戸のようなリングを描いている。
その中心に、一人の男が立っていた。
髪は――
落下の軌跡をそのまま掬い取ったように乱れ、
宙の風に逆らわず流れている。
外套はところどころ裂け、
何かに削られたような鋭い断ち口を残していた。
そして、何より異様なのは――
彼の足元に“影”がなかったこと。
光を奪うのでも、弾くのでもない。
ただ、影が“生まれない”。
重力そのものを拒むように。
彼の瞳は、
深淵に落ちてゆく光の粒子を閉じ込めたかのように、
暗く、静かに、底へ沈んでいた。
――堕崖王ディル・アビシア。
男は語りかけるでもなく、
そこに立っていたこと自体が“言葉”のようだった。
やがて、彼は微笑とも嘲笑ともつかぬ歪みを口元に浮かべる。
「ようやく来たか……」
低く、鉄を引きずるような声。
「“上へ向かう亡霊”よ。」
レミルの喉がひきつった。
自分でも気づかないほど、手が震えていた。
「あなたが……堕崖王?」
ディルの視線が彼女の一歩手前で止まり、
静かに、深く落ちていく。
「そう呼ぶのなら、それでいい。
ただ――」
彼は、影の無い足元に視線を落とし、
ほとんど祈りのように呟いた。
「堕ちきれなかった者たちの“王”など、
本当はどこにも存在しないのだがな。」
ディルは歩くたび、衣の裂け目がわずかに揺れ、
落ちるべき影が生まれないまま空気に溶けていく。
レミルとの距離が、吸い込まれるように縮まった。
そして彼は――
黒く、まるで“夜を閉じ込めた”ような冊子を胸の前で掲げる。
「『落下の詩篇』。」
低く、響きのない声。
「お前にやろう。
お前は読む価値がある。」
近くで見るとその詩集は、
表紙が古い鐘のように微かに震えていて、
触れれば落下音が聞こえそうだった。
レミルは息を詰め、
それを差し出すディルの手を見つめる。
「……どうして、私に?」
問いは小さく、けれど確かに届いた。
ディルはひとつ瞬きをし、
深淵の光を宿した瞳をレミルへ向ける。
「お前は――」
一拍置いて。
「登り続けたからだ。」
その言葉は、責めるようで、讃えるようで、
どこか痛みに満ちていた。
「私が、かつて一度も成し得なかった“記録”。
お前はそれを、簡単に、淡々と……
まるで呼吸のように刻み続けた。」
レミルの心臓が、瞬間だけ跳ねた。
登攀の中で何度も聞いた風の音が、
ディルの声に重なる。
羨望――
だがそれより深いものが、彼の声音に沈んでいた。
それは、孤独。
長い落下の果てに、誰にも届かなかった者だけが纏う、
ひどく静かな孤独だった。
レミルはその気配に気づき、思わず言葉を失う。
ディルは詩集をそっと押しつけるように差し出しながら、
わずかに微笑んだ。
「受け取れ。
お前の“上昇の愚かしさ”に、
私は……興味がある。」
深淵の回廊に、風は吹かない。
それでもディルの外套だけが、静かに、落ちていく方向へ揺れていた。
まるで見えない重力が、彼一人にだけ強く働いているように。
ディルはレミルに背を向け、
底知れぬ空洞を見下ろす位置に立つ。
そして――
声を落とすように語り始めた。
「上へ向かう者は、皆すがる。」
その声音は講義のようでも、嘲りのようでもなかった。
ただ、何度も何度も同じ光景を見てきた者の“確信”だけがあった。
「自分の価値。
自分の神。
自分の未来。
……重ねた言い訳を積み石にして、必死に天を掴もうとする。」
レミルは言葉を返せない。
カインも、リゼルも、エルゴでさえ息を呑む。
ディルはゆっくり振り返り、
沈む光を宿した瞳でレミルを射抜いた。
「だが――落ちるとき。」
一拍。
「人は初めて、自分だけになる。」
その言葉は、回廊の壁に吸い込まれるように響く。
嘘も虚勢も、誰かの期待も届かない場所。
ただ落下の数秒だけが、人間を“裸”にする。
ディルの靴先が、わずかに深淵へ寄る。
「落下は裏切らない。」
彼は確信を込めて続ける。
「どれだけ罪を重ねても、どれだけ偽っても――
重力だけは必ず、お前に応える。」
外套が深淵のほうへと引かれ、裾が震えた。
「だから美しい。」
その一言は、祈りのようで、呪いのようだった。
レミルは胸の奥が痛むのを感じながら、
それでも目をそらすことができなかった。
ディルの孤独と信仰――
その中心にある“墜落の美”は、
あまりにも静かで、残酷で、澄んでいた。
深淵の回廊に、ひやりとした空気が流れた。
黒い詩篇を片手に、ディルはレミルを静かに見下ろしている。
その視線は突き刺すものではなく、ただ“見極めよう”とする者の目だった。
レミルは、逃げも反論もしなかった。
ただ、胸の奥にある震えをそのまま口に乗せる。
レミル
「あなたの言うこと、分かる。」
その言葉が落ちた瞬間、三人の心臓が跳ねる。
リゼルは思わずレミルの袖を掴み、
カインは拳を握りしめたまま止まり、
エルゴは目を見開いて、レミルの表情を読み取ろうとする。
レミル
「私……怖いもの。
上を見るたび、足が震える。
あの断層では……本当に……落ちたかった。」
凍りついた沈黙。
その中で、ただディルだけが微笑む。
ディル
「ならば堕ちろ。
お前ほど美しく堕ちる者はいない。」
その声は誘惑でも、嘲りでもない。
まるで“運命を肯定するような”静かな優しさがあった。
だがレミルは、その優しさに寄りかからなかった。
レミル
「――でも私は、登りたい。」
ディルの足が止まる。
外套が斜めに揺れ、深淵の回廊が微かに軋む。
ディル
「理由は?」
レミルは迷いも沈黙も挟まなかった。
自分でも驚くほど、すぐに答えていた。
レミル
「“神を見上げる自分”を見たいから。
堕ちるか登るかじゃなくて……
その“選んだ自分”を知りたいの。」
ディルの瞳が揺れた。
怒りではない。
拒絶でもない。
もっと複雑で、もっと痛い――
かつて彼が失い、捨てたはずの何かを突きつけられた時のような、
そんな感情。
ほんの一瞬、深淵の王が“ただの一人の男”になった。
レミルが見ていたのは、
その揺れだった。
深淵の回廊に立つ二人の影が、
わずかな重力の揺らぎでゆらりと歪む。
レミルとディル。
上昇と落下。
両極にあるはずの思想が、線対称のように向かい合う。
ディルはしばらく言葉を発しなかった。
沈黙の奥で、何か古い痛みが目覚めるように瞳が細められる。
ディル
「……我らは同じ崖を見ていたのだな。
私たちは“対”だったのかもしれん。」
その声音には、悟りでも嘆きでもない、
もっと曖昧な、諦めと肯定の入り混じった響きがあった。
レミルは逃げずにその視線を受け止める。
レミル
「きっと、そう。」
ディルはゆっくり息を吐いた。
それは、自分でも気づかぬうちに抱え続けていた重荷が
一瞬だけ浮いたような呼吸だった。
ディル
「だが――
お前は“上へ向かう恐怖”に耐えた。
私は、“上を見ることすら”できなかった。」
その告白には、自嘲にも似た静けさがあった。
落下を選んだ男が、その原点を初めて口にしたかのように。
レミルは、小さく首を振る。
レミル
「あなたは下から神を見た。
私は神を見上げる自分を見たい。
ただ、それだけの違い。」
それは責める言葉ではない。
慰めでもない。
ただ、揺るがない事実をそのまま述べただけの、生の真理。
だがその“違い”こそが、
ディルが一度も直視できなかった核心だった。
ディルの胸に、氷の刃のように静かに刺さる。
苦しみでも怒りでもなく――
“本当はそうであってほしかった自分”を思い出させる痛み。
深淵の王の影が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
ディルはふいにレミルから視線を逸らし、
深淵の回廊を静かに歩き出した。
落下を象徴するような裂けた外套が、
わずかな重力の乱れに引かれるように垂れ下がる。
レミル
「……どこへ?」
問いかけに返事はない。
ただ、彼は深淵の縁に立ち、
底の見えない闇を見下ろした。
長い沈黙の末――彼は、背を向けたまま言った。
ディル
「お前が登る限り……
私は堕ち続けよう。」
レミル
「……どうして?」
ディルは振り返らない。
落下を選んだ者の横顔は、影の中に溶けている。
ディル
「お前は私の“到達し得なかった記録”だ。
お前が一歩でも高い場所に立てば、
私は一歩、深く落ちる理由を手に入れる。」
そこで初めて、彼はゆっくりと息を吐く。
まるで、痛みを伴う真実を告白した後のように。
ディル
「堕ちることに救いはない。
だが――お前の登攀は、私に“堕ちる価値”を与えてくれる。」
「矛盾だろう?
だが私という人間は、
お前という“上へ向かった孤独”を前にしたとき――
そう在るしかないのだ。」
レミルは言葉を失って立ち尽くす。
その姿を見もせず、ディルは続ける。
ディル
「登れ、レミル。
その光が、私の影を真っ直ぐ伸ばしてくれる。」
それは敵意でも命令でもない。
落下を極めた王が、登攀者へ捧げる――
奇妙で、痛々しく、確かな“敬意の誓い”だった。
ディルはもう振り返らなかった。
裂けた外套が、深淵の重力に引かれ、ゆらりと揺れる。
次の瞬間――
彼は、一歩、静かに前へ踏み出した。
音はなかった。
悲鳴も、風の裂ける気配も、落下の轟きも。
そこにあったのは、
重力流が“飲み込む”というより、
別の位相へすり抜けるような、奇妙な沈み方。
まるで深淵の闇が彼の形をなぞり、
その存在を世界から“反転させた”かのようだった。
エルゴ
「……消えた?
いや……落ちたんじゃない……。
今のは重力流の“相転移”……?
別層の空間に……移った……?」
彼の声は震え、興奮と恐怖が混ざり合っていた。
カイン
「なんなんだよ、今の……!
あいつ、落ちてないだろ?
“どこに行ったんだ”……?」
誰も答えられなかった。
ただレミルだけが、深淵をまっすぐ見つめ、
静かに目を閉じる。
レミル
「……行ったの。
私が登る場所とは、
逆の方へ。」
その声音には悲しみでも拒絶でもなく、
ただ、理解と受容だけがあった。
レミル
「私が上を選んだみたいに……
彼は“落ち続ける自分”を選んだの。」
風が逆塔を震わせる。
そこにディルの影はない。
レミルの睫毛がかすかに揺れた。
レミル
「だから――
もう手は届かない。」
彼女の言葉は、深淵の沈黙に吸い込まれていった。
逆塔カスケイルの重力が遠ざかり、
四人は再び水平な大地を歩いていた。
だが、誰の歩幅も合わない。
まるで先ほどの深淵が、それぞれの心に別々の影を落としていた。
リゼル ― 離れられない恐怖
リゼルはレミルの少し後ろを歩きながら、
指先を胸の前でぎゅっと握りしめていた。
(レミル様……落ちたいって、言った……
私は……止められなかった……
でも離れたら……また“あの声”に……)
恐怖が喉を締めつける。
だがその恐怖が、逆にレミルへの距離を詰めさせる。
リゼル
「……そばに、います。
離れませんから……」
その声は祈りのようで、懺悔のようでもあった。
カイン ― 守れなかった後悔と危機感
カインは前を歩くレミルの背を、何度も確かめるように見つめていた。
握った拳には、まだ爪の跡が残っている。
(ディル……あいつ……
レミルがちょっとでも揺れたら、落ちるって顔してた。
クソ……なんでだよ……なんでオレは……)
守る意味が分からないまま、
それでも守らなければと本能が叫び続ける。
カイン
「……絶対に近づけねぇ。
落ちさせねぇ。」
その声は、誰に向けたものでもなく、自分自身への戒めだった。
エルゴ ― 狂気の芽生え
エルゴは誰よりも遅れて歩き、
手帳に震える文字でディルの消失シーンを描き続けていた。
(落下……ではない。
重力相の崩壊……転位……異層への遷移……
あれは“死”じゃない。
むしろ世界の外へ触れた瞬間だ……!)
彼の目にはもう、深淵の闇の形が焼き付いて離れない。
エルゴ
「……もっと、知りたい……。
次こそ……観測する……。」
誰もその呟きを聞いていなかった。
レミル ― 登る理由と、その裏に沈む影
レミルは無言で歩いていた。
肩は軽く震え、胸の奥には未だに深淵の冷たさが残っている。
(私は……登るって言った。
でも……本当は……落ちたかった。
あの瞬間……ディルの言葉が、少しだけ……楽に思えた……)
だが次の瞬間、彼女は自分の足元を見つめる。
レミル
「――それでも、私は上に行く。」
その声は強い。
だが強さの裏に、まだ“落ちたがっている自分”が沈んでいる。
その影を、誰にも言えない。
そして――
深淵へ消えたディルの声が、
今も胸のどこかで、かすかに反響していた。
(――落ちよ
帰れ)
レミルは振り払うように息を吸い、歩を速める。
ナレーション
「四人は進む。
だが彼らの心には、深淵がひとつずつ刻まれていた。
――それぞれの影が、
やがて“裂け目”へと変わることを、誰も知らない。」




