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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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沈黙の断層脱出 → 次の山へ

ルナが黒い風に呑まれて消えた直後、

断層は――まるで呼吸そのものを忘れたように静まり返った。


さっきまで耳をつんざいていた重力の脈動が、嘘のように消え失せる。

風も吹かない。

落ちていく石の音すら、反響しない。


死者の残滓だけがこの空間を満たしているような、

張りつめた沈黙。


四人は言葉を失ったまま、ゆっくりと出口へ向かう。

ある者はふらつく足を引きずり、

ある者はただ前を見て歩くだけで精一杯だった。


足音だけが響く――はずなのに、

その音さえ断層に吸い込まれていく。


レミルの足元だけが、微かに揺れていた。

彼女の感情に寄り添うように、地面が不安定に震える。


レミル(内心)

(……わたし……どこを、歩いているの……?)


視界の端が白く霞み、呼吸が浅くなる。

断層の沈黙は、彼女の心の隙間へ入り込み、

崩れかけた精神をやさしく、しかし確実に押し広げていく。


沈黙は、四人の背にしがみつきながら、

出口まで、ゆっくりついて来た。


断層の出口を越えた瞬間、

白い光が四人の足元に広がった。


本来なら、眩しさに目を細め、

「ああ、生きて出られた」と安堵するはずだった。

だが――誰ひとり、顔を上げなかった。


光はあまりに明るいのに、

四人の影だけが濃く、深く、地面に貼りついていた。


リゼルは立ち止まり、

振り返って黒い裂け目のような断層を凝視する。


リゼル(内心)

(あの少女は……あれを“救い”だと思って落ちた……

 どうして……誰が、あんな教えを……?)


喉が詰まり、祈りの言葉すら出てこない。


エルゴは、地面に膝をつき、急いで観測帳を開く。

震える手で断層の輪郭を描こうとするが――

線は乱れ、何度描いても歪む。


エルゴ

「……くそ……記録にならない……

 どうして、こんな……」


彼の声は自嘲とも絶望ともつかない、薄い震えだけを帯びていた。


少し離れた場所で、

カインはひとつ息を吐き、拳を強く握りしめた。

白い光の中で、彼の影だけが怒りの形をしている。


カイン(内心)

(止められなかった……俺は、何を守ったんだ……)


拳が静かに震え、血が滲む。


そして――

レミルは、光の中でただ胸元を掴み、

しゃがみ込むように呼吸を整えようとしていた。


胸の奥で、何かが軋む。


レミル

「……苦しい……

 どうして……私……?」


光は暖かい。

けれど、その暖かさは、彼女にとって救いにはならなかった。


むしろ――

断層の沈黙より、ずっと痛かった。



光の下でうずくまるレミルを見て、

リゼルは静かに息を呑んだ。


胸の奥が、ひどく冷たい。

断層の黒い底よりも、深く。


リゼル(内心)

(……駄目だ……もう、私は……

 “正しい祈り”が分からない……)


ルナの落下。

救いと呼ばれた死。

自分の声が、祈りが、何ひとつ届かなかったという現実。


祈りの柱が折れたあとの世界は、

こんなにも頼りなく、寒い。


リゼルは震える指で胸元を押さえ、

レミルを見つめた。


レミルは顔色こそ悪いが、

それでも必死に呼吸を整え、立ち上がろうとしている。


その姿が……

絶望の中で、ひとつだけ灯っている“火”のように見えた。


リゼル(内心)

(レミル様は……落ちなかった。

 落ちても、生きて戻ってきた。

 彼女の言葉だけは……信じられる……

 信じたい……)


祈りの指は震えたまま、しかし固まった。


だがその瞬間、

彼女はまだ気づいていなかった。


――レミル自身が、いま最も危うい場所にいるということに。


リゼルは、砕けた信仰の破片で手を切りながら、

それでも“寄りかかるべき支柱”をレミルに求め始めていた。


その選択が、後に大きな歪みを生むとも知らずに。



地上の光の下を歩きながら、

カインはレミルの数歩後ろで、拳を握ったまま開けずにいた。


守るための手なのに、

いざという時、何も掴めなかった。


その事実が、心臓の奥で鈍い痛みになっている。


カイン(内心)

(……くそ。

 どうすりゃ……守れんだよ。

 オレは……何を守りたくて、ここにいるんだ……?)


拳が知らず震える。


ルナを失った。

レミルを引き戻すこともできなかった。

教団への怒りは、今や怒鳴り散らす先もなく宙に溶けている。


風が吹くたび、

“落ちていった少女の背中”が脳裏に浮かぶ。


彼の力では、どうにもならなかった。

その無力感が、怒りの火を逆に弱らせていく。


カイン(内心)

(怒ってりゃ……動けると思ってたのに。

 こんなとこで……足、止まんのかよ……オレ)


レミルの背中は細く、頼りない。

それでも歩こうとしている。


守りたかったはずの背中なのに――

“どう守るのか”が分からなくなっていた。


怒りは力にならない。

拳では救えない。


この章のカインは、

“戦う理由”という支えを静かに失い始める。


それは、彼自身もまだ気づいていなかった。



地上へ戻った後も、

エルゴの視線はずっと足元の影を追っていた。

仲間たちの沈痛な空気の中で、

彼だけは別の渇きに胸を焼かれている。


手にした観測端末は、まだ微かに震えていた。

断層で乱れた数値が消え残っているのだ。


エルゴ(内心)

(落下……重力偏差……

 あれは“鍵”だ。

 世界の内側では説明できない。

 もっと外に――“外側”に触れる現象……)


喪失の痛みよりも、

恐怖よりも強く、

ひとつの衝動だけが胸を叩く。


“知りたい”。


ルナの落下。

断層の沈黙。

レミルの精神に重力が応答した、あの不可解な痙攣。


それらが、線のように繋がっていく。


エルゴ(内心)

(断層があそこで静寂を深めた理由……

 レミルの“心”に重力が触れた理由……

 いや違う、応えた……?

 ならば、重力はただの力ではない……

 “意志”のような……)


思考は危うい角度で加速していく。


スケッチしようとした手は震えて、

乱れた線ばかり描いたが、

それでも彼は描くのをやめようとしなかった。


彼だけが気づき始めている――

あれは観測されるべきものだ、と。


エルゴ(内心)

(落下こそ、究極の観測対象……

 誰も踏み込めていない“境界”……

 私だけが……行ける)


悲しみの中、彼はひとり違う方向へ“落ちて”いく。


この瞬間、

エルゴの中に“狂気の研究者”の芽が確かに生まれた。



しばらく歩いたあと、

レミルは唐突に足を止めた。

三人が振り返るより早く、

彼女の周囲だけを細い風が震わせて通り抜ける。


断層の冷たい静寂が、

まだ彼女の身体にまとわりついているかのようだった。


レミルは胸元を押さえ、

ひと息、苦しげに吸い込んだ。


そして――かすれる声が落ちる。


レミル

「……私は……落ちていない。

 落ちたはずなのに……生きている……

 私は……なんなの……?」


その声は、

自分の存在を確かめるようであり、

同時に自分を否定するようでもあった。


答えられる者はいない。


リゼルは唇を噛みしめ、涙をこらえながら一歩踏み出す。

カインは拳を握りしめ、何かを吐き出したいのに言葉が見つからない。

エルゴは息を止め、ただ観測者のように彼女を凝視する。


風が、またレミルだけの周囲で揺れた。

重力が、彼女の心の揺らぎに応じてさざめいたかのように。


その瞬間――

レミルの内側で、

“上昇”と“落下”の境界が軋み始める。


彼女の崩壊は、

この一言から静かに裂け目を広げていった。


四人は、ようやく重い足を前へ運び始めた。


だが隊列はばらばらだった。

歩幅も、呼吸のリズムも、互いの視線さえも噛み合わない。


リゼルはレミルの肩を支えながら歩くが、

その手は頼りなく震えている。

自分が寄りかかりたいのに、寄りかかられる立場に立たされている――

その矛盾に足元がふらつく。


カインは何度も周囲を見回し、

敵がいないか、気配がないか、

まるで“何か”に追われているように振り返る。

怒りという支えを失い、

ただ焦燥だけが彼の背を押していた。


エルゴはときおり立ち止まり、

断層の暗がりを穴があくほど見つめる。

あの静寂、あの脈動、あの重力の揺れ――

研究者としての未練が、理性の影を侵食していた。


そしてレミルは――

歩いているのか、

三人に引きずられているのかも判然としない。

目は焦点を失い、

風に煽られるたびに揺れるその姿は、

魂が身体を置き去りにし始めた影のようだった。


ふと、風が吹く。


だがそれは旅人を前へ運ぶ優しい風ではなく、

背中へ冷たく触れながらこう囁くようだった。


――もう戻れないぞ。


ナレーション

「沈黙の断層の影は、

 誰の背中からも消えていなかった。」


歩みの先――地平の彼方に、新たな“断崖”が姿を現した。


それは沈黙の断層よりも深く、

沈黙の断層よりも静かで、

沈黙の断層よりも――危険だった。


地表は黒ずんだ亀裂に覆われ、

まるで大地そのものが息を潜め、

四人を待ち受けているように見える。


夕日が傾く。

四人の影が、長く、長く延びていく。


しかしその影は、決して重なり合わなかった。

リゼルはレミルに寄り添う影。

カインは孤立した守護者の影。

エルゴは断層へ未練を捨てきれぬ細い影。

そしてレミルの影は――

風のたびに揺れ、形を保てず、

どこへ向かうのか分からない。


まるで四人それぞれの心が、

別々の方向へ裂けていくかのように。


だが足は止まらない。

止めれば、

沈黙が再び追いついてきてしまうから。


「世界の裂け目は、

 まだ始まりにすぎない。」


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