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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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揺らぐ信仰 ― レミルの内的崩壊】

風が、止んだ。


あれほど耳を裂いていた断層の暴風が、

まるで世界そのものが息を潜めたかのように、

唐突に――不自然に――消え失せた。


沈黙が落ちる。

“音が吸い込まれた”という表現が、これほど正確に思えた瞬間はない。


レミルは動けなかった。

自分が立っているのか、倒れかけているのかすらわからない。

視界は白く霞み、輪郭が溶ける。


レミル(内心)

(え……いま、何が……

 私……また……?)


ルナの叫びの残響。

闇へ吸い込まれていった身体の最後の揺れ。

重力が歪んだ瞬間の、世界の軋み。


それらが、耳の奥で何度も何度も反芻される。


誰も動かなかった。

カインも、リゼルも、エルゴでさえ。


七秒間――

重力よりも重い沈黙が、彼らを地面に縫い付けていた。


レミルは、自分の心臓の音だけを聞いていた。


どく。

どく。

どく。


その音が、いま世界に存在する唯一の“動き”だった。



静寂の底で――

ひとつだけ、別の“音”が生まれた。


レミルの耳の奥、皮膚の内側、骨の中。

どこから届いたのかわからない、名もない囁き。


(――おちよ

   かえれ)


低く、遠く、掠れた声。

けれど、その響きはどこかで聞いた。


――ルナ。


そう思った瞬間、レミルの胃がひっくり返るように冷たくなった。


「……っ、ちがう……」

喉がひきつれて声にならない。

足が震え、視界が水面のように波打つ。


(――おちれば

   あの子のように)


「聞こえない……! 聞きたくない……っ!」


拒絶の叫びに合わせて、空気が微かに歪んだ。

断層の空間が“びり”と震え、足元の小石が浮きかけて落ちる。


ほんの一瞬の重力の揺らぎ。


レミルの呼吸が止まる。

今の震えは、外からではない。


――自分の“中”が揺らした。


彼女自身の恐怖と混乱、その精神の軋みが、

断層の重力偏差に触れたのだと気づいた瞬間、

レミルの背に冷たい汗が流れた。


レミル

「いや……いや……いや……!」


その声は祈りではなく、叫びでもなく。

ただの、助けを求める幼い拒絶の声だった。



レミルの身体が震えた瞬間、

リゼルは反射的に駆け寄っていた。


「レミル様……! こっちへ……!」

その声は震え、祈りとも悲鳴ともつかない。


腕を伸ばし、縁から引き離すように抱き寄せる。

細い体を包み込んだ瞬間、リゼルの心臓は凍りついた。


(……この震え……何かに“触れた”震え……)


「だめです……縁に近づかないで……!」

必死の声は、自分を励ますようにも聞こえた。


だが。


レミルは、リゼルの腕を無意識に振り払った。


「っ……!」


その仕草は暴れるのでも拒絶でもない。

怯えて眠れない子どもが、

どこにも安心の場所を見つけられずに

ただ腕を離れてしまう、そんな動きだった。


レミル

「……私、また……守れなかった……

 私が……!」


リゼルの胸が裂ける。


その呟きは罪悪感ではなく、

自分を罰し続けていく未来が見えるような

深い苦痛に満ちていた。


「レミル様、それは……あなたのせいでは……!」


言いかけて、言葉が喉で止まる。


レミルの瞳には、

“救えなかった”のではなく

“自分が落とした”と信じ込んでしまいそうな危うさがあった。


(……神よ……どうして……

 なぜ、こんな純粋な方に……)


祈ろうとした瞬間、

胸の奥で何かが軋む音がした。


――祈れば、救われる。

そんな信仰の根幹すら、揺らいでいく。


リゼルはレミルを抱きしめようと

そっと手を伸ばすが、

次に触れたときにはもう遅いかもしれないという、

得体の知れない恐怖に包まれていた。



重い静寂を破ったのは、

岩壁に叩きつけられた拳の鈍い音だった。


――ガンッ。


カインの拳が沈み込み、石が欠ける。

彼の腕は震え、指の隙間から赤い血が滲み出していた。


「違う!」

その怒声は、断層の闇に反響するほど鋭かった。


「お前のせいじゃねぇ!」

振り返りざま、レミルに向けられた声は

怒りではなく、必死の否定だった。


「……あんな狂信が……っ!」


言葉の途中で、喉が詰まる。

怒りの矛先は教団に向いている――

はずだった。


だが拳を震わせるほどの力は、

止められなかった自分自身にも

向けられていることを彼自身が理解していた。


(俺は……あの一歩を速く出せば……)


再び拳を握りしめるが、

もう殴る場所はどこにもなかった。


カインはレミルを見る。


彼女は小さく丸くなり、

何かに怯え、何かに怯えていない――

そんな矛盾した表情を浮かべている。


「レミル……」


名前を呼ぶ声が震えた。

鍛え抜かれた兵士の喉が震えるなど、

戦場でもほとんどなかった。


“何をすれば救えるのか”

“どうすれば彼女の足を現実に戻せるのか”


分からない。


拳よりも心のほうが、

ずっと深く、痛んでいる。


カインは息を呑み、ただ見つめるしかなかった。

目の前の少女が、もう一度崩れてしまわないように――。



静寂の中、

エルゴだけが微かに震えていた。


握りしめられた観測装置が、

彼の指先で軋むほど強く圧されている。


「……測れなかった……」


呟きは、誰に向けるでもなく、

ただ地面へ落ちていく。


「決定的な数値が……残せなかった……」


その言葉に、

レミルの肩がびくりと震え、

カインは血の滲む拳をさらに握り込んだ。

リゼルはほんの一瞬、険しい目をエルゴへ向ける。


怒鳴りつける者はいない。

だが、その沈黙こそが“無言の怒り”そのものだった。


エルゴは、その視線の重さにうすうす気づいている。

だが胸の奥では、もっと醜い感情が渦巻いていた。


(……俺は、何を見ていた……?

 なぜ救うより……観測を優先した?)


ルナが落ちる直前。

彼は確かに、測定器の反応を追っていた。

重力偏差の波形――

未知の現象――

観測者としての本能。


その“浅ましい興味”が、

今になって胃の底を焼くような罪悪感に変わっている。


(俺は……あれを止められたのか?

 いや……でも……観測しなければ――)


思考がぐちゃぐちゃに千切れる。

正しい答えなどどこにもない。

ただ、失った命の重さだけが残っていた。


だが。


彼はそれを言葉にできない。

罪悪感も、恐怖も、自責も、

どれも“感情”として扱うのが苦手だった。


だから。


エルゴは自分の罪を――

たった一行に矮小化してしまう。


「……観測不能、か……」


自分を責める一番楽な方法。

自分を守る、一番残酷な方法。


そう呟いた瞬間、

彼は自分だけ別世界の住人になったような

孤独な錯覚に囚われた。



レミルはふらりと歩き、

断層の中央――ルナが消えた暗い穴の延長線上に、

力が抜けたように膝をついた。


岩の冷たさが膝を通して体にのぼる。

それでも立ち上がれない。


レミル

「……上へ……行くと……誓ったのに……

 落ちる人を……止められなかった……

 どうして……?」


声はひどく細く、

“祈り”の姿勢と似てはいるが、

祈りにはなっていなかった。


ただ、壊れそうな信仰の残骸が、

無意識に形だけを真似ているだけだった。


今にもひび割れそうな心の中心が、

軋む音を立てているようだった。


その瞬間――


(――落ちれば

   すべて償われる)


囁きが落ちてきた。


今度の声は、

ルナでも、誰かの男の声でもない。


“レミル自身の声”だった。


レミル

「や、めて……いや……違う……」


頭を抱えたレミルの髪が揺れ、

その周囲の空気が波打つ。


重力が――

彼女の身体だけを、

ゆっくり、確実に下へ引っぱり始める。


ごくわずかな重力偏差。

けれど、その“少し”が致命的だった。


リゼル

「レミル様!? 駄目です、聞かないで……!

 戻ってきてください……!」


リゼルは慌てて駆け寄り、

後ろからレミルを抱きすくめる。


しかしレミルの身体は、

まるで深い海に引かれているかのように

じわじわと前へ傾いでいく。


レミル

「……止められなかった……

 私が……行けば……

 償えるの……?」


その言葉は涙に濡れていたが、

震えは“恐怖”ではなく――


“落ちて逃れたい”者の震えだった。



レミルは、ゆっくりと顔を上げた。


だがその瞳は、

目の前の誰も映していなかった。

焦点が宙に浮き、

“どこにもいない誰か”を見つめている。


レミル

「私が落ちれば……

 もう誰も……落とさないで済む……?」


呟きは祈りにも決意にも似て、

しかしどちらでもない虚ろさを帯びていた。


カイン

「違ぇよ!!」


怒号が断層に響き、

彼はレミルに駆け寄ろうと身を投げる。


だが――

リゼルが横から彼の腕を掴んで止めた。


リゼル

「今は……逆効果です……!

 彼女、追い詰められすぎて……!」


カイン

「ふざけんな、放せ!!

 このままじゃ――!」


リゼル

「だからこそです!

 “誰かが強く出る”と、その一押しで……

 彼女、本当に……!」


震える声。

リゼルは自分の言葉の続きを言えなかった。


レミルの内側では、

ふたつの声が激しく衝突していた。


(――上へ行くんだ。

   まだ行ける。

   誓ったじゃないか)


(――落ちよ。

   帰れ。

   すべて、楽になる)


頭を抱えるレミルの肩が痙攣し、

その周囲の重力がまた微かに揺れた。


レミル

「……どっちが……正しいの……?

 どっちに……行けば……誰も……」


言葉が途切れるたびに、

断層の風が不気味に共鳴する。


カインは拳を握りしめ、

リゼルは必死に涙をこらえ、

エルゴはただ、何も言えずに立ち尽くす。


レミルの心の中に走る“裂け目”は、

今まさに――

落下へ傾き始めていた。



レミルの足元――

断層の床が、かすかに震えた。


最初は風のざわめきのような、

聞き逃しそうな振動。


だが次の瞬間、

“ドン……ドン……”

と、まるで巨大な心臓が地中で鼓動しているような

重い脈動が走った。


カイン

「な……なんだ、この揺れ……?」


リゼル

「断層が……呼吸してるみたい……!」


だが、その意味を理解したのはただ一人。


エルゴの顔色が、

一瞬で青ざめる。


エルゴ

「まずい……まずい、これは……!」


彼は観測装置を握りしめ、

震える声で叫んだ。


エルゴ

「レミル、やめろ……!

 そのままじゃ……断層が共鳴して……!」


その警告が届く前に。


レミルの周囲に――

空気が“下へ沈む”ような奇妙な流れが生まれた。


床の石片が、

ふわりと浮き……

そのまま、地面へ“吸い込まれるように”落ちていく。


カイン

「……落下流……だと……?」


レミルだけを中心に、

微細な落下現象が発生していた。


それはまるで、

断層そのものが

レミルの心の傾きを“読み取り”、

答えてしまっているかのようだった。


エルゴ

「違う……本来、こんな共鳴……起きるはずが……!」


彼の言葉は震えている。


恐怖か。

後悔か。

それとも――

世界が“誰かの絶望”に反応するという、

目を逸らしてきた真実の発露か。


レミルは、そんな危険にすら気づかない。


ただ、

落ちることだけに心が塞がれていた。



レミルの喉から迸る叫びは、

悲鳴ではなかった。

祈りでもなかった。


それは、

心の核が砕ける音に近かった。


レミル

「私は……どうすればよかったの……?

 どうすれば……誰も落ちなくなるの……!!?」


――ドン。


叫びと同時に、断層がまた脈打つ。

レミルを中心に重力が揺れ、

空気そのものが“ひずむ”。


カイン

「……っ! 近づけねぇ……!」


リゼル

「吸い込まれる……っ!」


二人は足を踏ん張るが、

まるで目の前に“深い井戸”が開いているような

得体の知れない引力に体を引かれ、

一歩も進めない。


レミルの髪が揺れた。

風ではない。

重力そのものが上下を見失っている。


その中で、リゼルは泣き叫んだ。


リゼル(涙声)

「――レミル様……!

 あなたが落ちても、救いにはなりません……!

 それは……“神の声”ではありません!!」


その声も、

レミルに届いているのかどうかわからない。


レミルはゆっくりと顔を上げた。

焦点の合わない瞳で、

深い底を覗き込むように。


そして、震える声で問う。


レミル

「……じゃあ……何?」


その問いは、

断層よりも深い。


“信じてきた全て”の中心に手を差し入れ、

自分でひっくり返そうとする、

そんな危うさを孕んでいた。


誰も、答えられない。


カインも。

リゼルも。

エルゴでさえ、息を呑むだけ。


レミルの問いは世界を裂き、

重力さえ言葉を失ったように、

ただ沈黙が落ちた。


レミルは、ゆっくりと、

まるで壊れかけた人形のように立ち上がった。


足元は覚束ない。

重力の乱れか、心の揺らぎか――

本人にも判別できていない。


その姿を、三人は息を呑んで見つめる。


ふらふらと宙を彷徨う視線。

焦点の合わないまま、

レミルはなにかを“探している”ようだった。


そして、再び。


(――落ちよ

   帰れ)


今度の囁きは、

断層の底から響くというより、

レミルの胸の奥――

祈りと罪の間に巣食った“亀裂”から漏れてくるようだった。


レミル

「……私は……どこへ、行けば……?」


たった一言なのに、

その問いはあまりにも脆く、重く、幼い。


リゼル

「行かないで……!

 レミル様、どうか……ここに、いてください……ッ!」


リゼルは泣きながら手を伸ばす。

けれど、それは触れられない。

触れた途端、

レミルがどこかへ“滑り落ちて”しまいそうで。


カインは、拳を強く握りしめる。

爪が掌を切っても気づかぬほどに。


カイン

「……ッ、くそ……なんでだ……

 どうすりゃ……!」


怒りでも焦りでもない。

自分の無力さに、歯を食いしばるしかない。


エルゴは震える指で観測装置を構える。

彼だけが、断層が“レミルに同調を始めた”と理解している。

目の前の少女の精神が、この空間の重力と連動し始めていると。


エルゴ

「……まずい……このままじゃ……」


だが、何もできない。

測定しても、記録しても、

“彼女を救う計算式”など存在しない。


レミルのまつ毛が震える。

頬を涙が伝う――自覚のない涙。


心の半分は、

もうここにはいなかった。


(――落ちよ

   帰れ)


その声だけが、

確かな“道”のように、彼女を誘っている。


暗く、静かで、

落ちていく方が楽だと囁く道へ。


レミルの唇が、微かに動く。


レミル

「……ゆるして……」


誰に、なのか。

なにを、なのか。

そのすべてが闇に沈んだまま。


断層に、再び深い沈黙が落ちた。


――これは、決壊の前夜。


崩れる音は、

まだ誰にも聞こえない。


だが確かに、

レミルの心は、もう半分“落ちていた”。

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