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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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狂信者の囁きの影響

祈りの声が吸い込まれていくような断層の奥で、

ルナの足取りはひどく頼りなかった。


その理由は――

この場所に足を踏み入れる前から、

彼女の耳には“ある囁き”が付きまとっていたからだ。


薄く、冷たく、しかし甘く。


まるで祈りの形をした毒だった。


最初は、巡礼仲間の噂話のひとつに過ぎなかった。


「“帰還”は落下にある」

「堕崖王は落下で神と出会った」

「恐れを捨てて落ちた者を、神は抱きとめる」


誰が言い始めたのかもわからない。

だがその声は、旅が進むほど耳元で澄んだ形に整い、

次第に“教え”のような重みを持って彼女に染みこんでいった。


本来の教団の教義とは無縁だ――

それはルナも理解していた。

けれど、真面目で、まっすぐで、

自分の価値を神に見いだそうとする彼女には、


その歪んだ言葉ほど

心に吸いつき、離れなくなるものはなかった。


断層に入る前夜、ルナは眠れずに震えていた。


まぶたを閉じるたび、

夢の中で彼女は、暗い縁の上に立っていた。


風の音が遠く反響し――

足元の影が、底なしの闇へと伸びていき――

そして必ず最後は、


落ちる。


冷たい感覚が背を走り抜ける瞬間、

夢の中の彼女は決まって微笑んでいた。


“これは間違いではない”と囁く声が、

真っ先に救いの形をしていたからだ。


その夢は、断層に近づくほど鮮明になり、

ついには祈りよりも強く彼女を支配し始める。


ルナは自分でも気づかないうちに、

その囁きを“信仰の延長”として受け入れていた。


――だから。

断層の出口付近で“落ちても生きた娘”と呼ばれる少女を見た瞬間、

彼女の心にあった最後の理性が、

静かに、音もなく崩れ落ちたのだ。



断層の奥へ進むほど、

ルナの世界は、ひどく狭く、冷たく、心細いものになっていった。


もともと巡礼団の末席として参加していた彼女は、

道中での些細な行き違いから仲間とはぐれた。

呼んでも、返事は返ってこない。

祈っても、胸の奥が少しも温かくならない。


断層は、彼女の声だけを静かに呑み込んだ。


どれだけ歩いても景色は同じ。

風の向きは読めず、足音だけが自分を追いかけてくる。


寝ようと目を閉じれば、

落ちる夢がすぐに襲ってきて、

恐怖と安堵のごちゃまぜになった感情で目を覚ます。


食べようと手を伸ばしても、

胃が拒絶するように縮こまり、

乾いた唇を噛んで終わる。


すべてが摩耗していた。


祈りの文句が正しく唱えられているのに、

そこから救いの温度だけが消えていた。


そんなとき――

あの、甘く、薄い囁きが、

祈りより先に浮かぶようになった。


「落ちれば救われる」

「堕ちることは帰り道」


それは教団の教えではない。

分かっていたはずなのに。


疲れ切った心の隙間には、

その歪んだ言葉が、

驚くほど自然に、

“正しい選択肢”のように入り込んでいった。


否定しようとすると、胸が痛んだ。

肯定すれば、落ちる夢で見た“安堵の笑み”が浮かんだ。


そして、いつの間にかルナの中には

簡潔で恐ろしい公式が出来上がっていた。


「落ちる」=「神と出会う儀式」


祈っても返事がないのは、

まだ“落ちていない”から。


仲間とはぐれたのも、

試練として“選ばれた”から。


食べられないのも眠れないのも、

神が“準備を整えてくれている”から。


そう思い込むたびに、

胸の奥で何かが安らぐように錯覚した。


だからこそ、

“落ちても生きた娘”と呼ばれる少女――レミルを目にした瞬間、


ルナの心は、

長い孤独と疲弊で磨り減った扉を、

完全に開いてしまった。


崖の縁に立つレミルを見た瞬間、

ルナの胸の奥で、

今まで“囁き”として漂っていた言葉が、

一気に形を得てしまった。


本来なら、ただの少女。

神秘の気配など、欠片もない。

それでも――


孤独で擦り減った心には、

レミルの存在そのものが

“教えの証拠”として突き刺さった。


ルナの声は震え、

祈りとも嘆きともつかない息が混じる。


「落ちても……生きて……

 神に触れたから……生きられたのですよね……?」


その瞳は、救いを求める必死さではなく、

“確信”を求める焦燥で濁っていた。


レミルは即座に首を横に振る。


「……違う。私は――」


だが、その否定の言葉は

ルナの耳にはまったく違う意味に変換されて届く。


「選ばれし者が、謙遜しているだけ」


そう理解した瞬間、

ルナの顔に浮かんだのは、

恐怖でも安堵でもない――

“狂おしいほどの納得”だった。


すでに、彼女の思考の舵は折れている。

正しい言葉を与えても、

まっすぐ受け取ることができない。


レミルの否定は、

それ自体が神秘として捻じ曲がり、

ますます彼女の確信を補強していく。


そしてルナは、

深い深い断層の闇よりも危うい瞳で、

レミルを見つめた。


もう、正常な対話は成り立たない。


ルナは、崖下から救い上げられたレミルの姿を見た瞬間、

胸の奥で長く澱んでいた“公式”が静かに完成する音を聞いた。


息も絶え絶えで、

泥と傷にまみれ、

それでも確かに生きている少女。


本来なら、それはただの事故と奇跡の産物でしかない。

神秘など欠片もない、ひとりの娘の生命力の結果だ。


だが、断層の暗闇で歪んだ囁きを浴び続けたルナの目には、

レミルが違って見えた。


まるで――

“落ちた者が生きて帰る証拠”。


そしてその事実が、

彼女の中の間違った教義を輝かせてしまう。


「……落ちても、生きて……」

ルナの声は震えていた。

恐れでも、驚きでもなく、

“確信を掴んだ者”の震えだった。


「神に……触れたから……生きられたのですよね……?」


その視線は熱を帯び、

崇拝にも似た色を宿していた。


レミルは慌てて首を振る。

否定しようとしたのに、その言葉は届かない。


「ち、違う……私はただ――」


「…………選ばれたのに、謙遜しているのですね……」


ルナは優しく微笑んだ。

あたかも、迷子の子どもを諭すような穏やかさで。


そこに理性はなかった。

あるのは、絶望の底で掴んだ“救いの形”を

絶対に手放したくない者の静かな狂気だけだった。


レミルの否定は、

理解されるための言葉としてではなく、

“選ばれし者が謙虚であろうとしている”という

歪んだ翻訳を経て脳に届いていく。


返せば返すほど、

その誤解だけが積み重なっていった。


ルナの思考は、

もはや正常な地図では動いていない。


そしてレミルは――

目の前の少女の笑みが、

祈りよりも静かで、

祈りよりも残酷なものだと気づき始めていた。


レミルの姿を“確信”として受け入れてしまった瞬間から、

ルナの胸の内では、

ある感情が静かに、しかし容赦なく膨れ上がっていた。


――“触れられた者”と、“触れられない自分”。


その差は、本来存在しない。

けれど歪んだ教義に染まった心には、

それが絶望的な断絶として映る。


レミルがいる場所は、

まるで神の光に照らされた高み。

対して自分は、誰にも気づかれず暗闇を彷徨う者。


その思いは、

夜通し祈っても返事がなく、

落ちる夢に魘され、

孤独と疲労に擦り切れた少女には

耐えがたいほど鋭かった。


ルナの唇が、震える。


「……どうすれば……」


言いかけて、涙が頬を伝う。

それは嗚咽ではなく、

胸の奥から自動的に溢れだした“焦燥”の雫だった。


「どうすれば私も……」


声が掠れ、指先が胸元の祈りの印を握りしめる。

まるでそこに救いの入口があると信じ込むように。


そして――

とうとう堰が切れた。


「あなたのように……神に触れられますか……?」


震えは恐れからではない。

焦がれるような憧れと、

それを得られない苦しみが混じった危うい熱。


その問いは、

知恵を求める素朴な質問ではなかった。


溺れる者が水面に向かって

手を伸ばすときの必死さ。

その最後の一息のような叫びだった。


救ってほしい、

選ばれたい、

“あの光”に触れてみたい。


それだけが、

今のルナを動かしている。

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