表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/64

出口付近での遭遇 ― “祈る少女”

断層の闇をようやく抜けた先で、足元の感触が変わった。

ざらつく岩肌ではなく、長い時間をかけて削られた滑らかな層――

まるで“誰かが膝をつき続けた場所”のように平坦だ。


頭上の裂け目から、ごく薄い自然光が落ちている。

光と言っても明るさはほとんどなく、

むしろ、そのわずかな明度が周囲の静けさを際立たせていた。


風は止まり、空気は止水のように澱んでいる。

足音すら、すぐ近くで溶けて消える。


そんな場所に、ひとつだけ音があった。


――祈りの声。


途切れ途切れの、しかし熱を失わない囁きが、

広くもない空間のどこかで震えていた。


レミルは、吸い寄せられるように足を止める。

闇の先から響くその声には、

切実さと、擦り切れた緊張が染み込んでいた。


彼女の胸に、ひやりとしたものが落ちる。

この断層で聞くには、あまりにも“純粋すぎる祈り”だった。



少女は、淡い光の下にひとり佇んでいた。


白い巡礼服――本来なら聖性を象徴するその衣は、

断層の埃で薄く灰色にくすんでいる。

しかし、布の端を整えた跡が残っていた。

“正しくあろう”とした努力だけが痛々しく浮かび上がる。


背を向けたまま祈り続ける少女の髪は、

何度か梳こうとしたらしい形跡がある。

ただ、指通りの乱れがところどころで途切れていて、

その手が途中で止まってしまったことが想像できた。


祈りの姿勢自体は正確だ。

儀礼書に描かれる通りの、誠実な型。

けれど、組んだ両手は微かに震えている。

ただ寒いのではない。

“自分を保つ最後の力”が、揺れとなって現れているのだ。


肩はこわばり、呼吸は細い。

目の下には、長く眠れなかった者特有の影が沈んでいた。


――壊れゆく直前の純粋。


その姿が、レミルには痛いほどまぶしく見えた。



祈りの最後の一呼吸を置き、

ルナは静かに顔を上げた。


最初に浮かんだのは、

巡礼者として教え込まれた礼儀正しい微笑――

「道を往く者に敬意を払う」ための、整った表情だった。


だが、その表情は一瞬で凍りつく。


ルナの視線が、レミルを捉えた瞬間。

瞳孔が震え、胸の奥で息が絡まり、

かすかに開いた唇が言葉を忘れる。


レミルが困惑したように首をかしげたとき――


ルナの表情は、崩れた。


礼儀も、恐れも、戸惑いも、ぜんぶ溶け落ち、

代わりに浮かんだのは、

“見つけてしまった”者の顔。


救いの名を、やっと知ったような。

崇拝の色を孕んだ、異様な光。


その目は、レミルだけを見ていた。



ルナの唇からこぼれた名は、

崇拝という熱で焼けていた。


「レミル様……本当に……本当にあなたなのですか……

 “落ちても生きた娘”……!」


震える声は恐怖からではない。

祈りが叶ったときのような陶酔に満ちていた。


その呼び名が響いた瞬間、

空気がひやりと揺らぐ。


“落ちても生きた娘”――

正式な教義には存在しない。

だが断層の奥で囁かれる、あの異端の福音。

堕崖王を信じかけている巡礼者たちの間で、

密かに流行し始めている言葉。


レミルは、心臓を掴まれたように息を呑む。


「ち、違う……そんな呼び方、しないで……私はただ――」


言い切れない。

足が知らずと後退る。


自分の意思よりも先に、

その呼称の意味の大きさと、

目の前の少女がすでに“こちら側ではない”という事実が、

レミルを一歩、暗がりへ後ずらせていた。



レミルは胸の奥が急に冷たくなるのを感じた。

目の前の少女が向けてくる視線――それは人を見る目ではない。

神秘を、奇跡を、象徴そのものを礼拝する目だ。


その重さに、レミルの呼吸が乱れる。


「そんな呼ばれ方、しないで……

 私はただ――」


声は裏返り、喉が震えた。

その先に続けようとした言葉は、

どれも必死の否定だった。


“ただ落ちただけ”

“神の声なんて聞いていない”

“選ばれてなんかいない”


そう吐き出せば、彼女は救われる。

この少女も、歪んだ期待から解き放たれる。


けれど――


レミルの言葉は、

その前に、何かに遮られるように消えた。

ルナの瞳が、あまりにも強い“確信”で光っていたから。


レミルは悟ってしまった。


この子には、もう届かない。

否定では、救えない。



レミルの声は、断層の出口で静かに溶けていった。

届くはずの距離なのに、まるで深い水の底へ沈められたように、ルナには一切響かない。


少女の瞳は、あまりにも澄み切って――いや、澄み切りすぎていた。

光を宿したまま、どこにも焦点を合わせていない。

信仰の確信とも違う。

理性の明かりが消える直前だけが持つ、危うい輝き。


レミルは直感する。


(……聞こえてない)


ルナは、言葉としてではなく、

ただレミルという“現象”を見ている。

神秘の証左。

落下して生きた娘。

救いそのもの。


ルナの両手が胸に重ねられて震えるのは、

恐怖からではなく“祈りの昂ぶり”に近い。


「ルナ……聞いて。私は、そんな――」


再び声をかけようとするが、

その瞬間、レミルの背筋に、すっと冷たいものが落ちた。


少女の心はもう閉じている。

届く扉が、どこにもない。


互いに触れられる距離にいるのに、

レミルは、ひどい孤独だけを感じた。


カイン、リゼル、エルゴ――

三人は同じ光景を見ているはずなのに、

それぞれがまったく別の危機を察していた。


■カイン


レミルの肩が微かに震えた瞬間、

カインは反射で半歩前に出た。

無意識に、庇う位置を取る。


ルナの足元、重心、視線の揺れ。

一瞬で読み取った結論はひとつ。


(この子……危ない空気してる……)


敵意ではない。

だが、それ以上に扱いづらい――

“何するか予測できない種類”の危うさ。


レミルへの視線の熱量が、

カインの本能をじりじりと刺激していた。


■リゼル


その一方で、リゼルはルナの祈りの姿勢を食い入るように見つめる。


胸前で組まれた手は正しい。

膝の角度も、呼吸の整え方も正確だ。


だが――

その“向き”が、どこかおかしい。


(……この祈り方……誰に教わったの……?)


本来あるべきはずの“天への意識”がなく、

祈りがまるで“地の底”へ向かっているようだった。


リゼルの喉が、無意識に強張る。


■エルゴ


そしてエルゴだけは、

ルナ自身にはほとんど目を向けていなかった。


彼の視線は少女の背後、

断層の奥へと向かっている。


(断層の深層に巡礼者……?

 位置情報の乖離もある……

 誰かの誘導があった?)


ルナがここに“辿り着けた理由”。

その異常さに、まず科学的な興味が働く。


同時に、

エルゴの眼差しには微かだが“危険な光”が宿る。


四人と一人。

その場の空気が、形の見えない張りつめ方をしていく。


それぞれの中で、

別々の警戒が静かに積み上がっていった。



薄く差し込む光は、本来なら救いの兆しのはずだった。

だが今のルナを照らすそれは、

むしろ彼女の狂信を輪郭ごと浮かび上がらせる残酷な照明にしか見えない。


レミルの否定は、一滴の水のように空気へ吸われていく。

届かない。

そもそも耳に入っていない。


ルナの瞳は“理解”ではなく、“確信”で満たされていた。


純粋であるほど、折れたときの落下は深い。

それをレミルは、胸の奥の冷えで悟る。


カインは一歩踏み出したまま、ルナを注視し続け、

リゼルは祈りの手を胸元で固く結び、

エルゴは沈黙の解析を続けている。


だが四人の反応がどうであれ、

ルナの中ではすでに“答え”が決まっている。


沈黙の中、彼女は一歩、レミルに近づいた。


そして――


「レミル様。

 どうすれば……どうすれば私も……

 神に近づけるのですか?」


次の瞬間に訪れる“告白”と“破滅の選択”を、

誰もまだ止められないまま、

シーンは静かに張り詰めていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ