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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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18/64

エルゴの冷たい決意

断層の奥へ進むほど、壁画と金属板は――

まるで見えない力に、何度も押しつぶされ、ねじられ、また持ち上げられたように歪んでいた。


エルゴはその前で立ち止まり、

手袋越しに金属の凹凸を撫でる。

指先が触れた瞬間、彼の瞳に灯った光は、

カインの警戒の色とも、リゼルの祈りの揺らぎとも違う。


それは、純粋で、冷たく、飢えた――

“観測者の光”だった。


エルゴ(内心)

(重力異常……局所反転……

 知覚が歪むほどの落下体験……。

 もしレミルのあの体験を、再現できるのなら――

 “神の声”が物理現象である確証に、手が届く)


息を呑むでもなく、震えるでもなく、

ただ静かに、狂おしいほどの興味だけが脈打っている。


その横顔を見たレミルだけが、

かすかに眉を寄せた。


風がない空間なのに、

どこか自分の周囲だけ冷気がまとわりつくような、

そんな異質な気配を感じたのだ。


(……エルゴ……?)


三人の歩みが“慎重さ”を増していく中で、

エルゴの歩みだけが、

なにかを確かめに行く者のように、軽かった。



断層の奥へ近づくほど、地面の振動は強くなり、

鼓動のように一定のリズムで四人の足元を叩いていた。


その振動の中で――

エルゴがふいに歩みを止めた。


レミルの名を、低く呼ぶ。


「レミル」


振り返った彼女の瞳に、

エルゴの眼差しがゆっくりと絡みつく。


光でも闇でもない、

ただ“知りたい”という純粋な渇望だけが宿った目。


エルゴ

「君の“落下”の瞬間――

 あれをもし観測できれば、

 堕崖王が“声”と呼んだものの正体に、もっと近づける」


言葉そのものは穏やかだった。

けれど、その奥に潜む意図はあまりにも冷たい。


レミルは瞬きを忘れ、立ち尽くす。


「……観測って……

 落ちるところを、もう一度……?」


その声は、風のない空間で小さく震えた。


エルゴは答えない。

否定もしない。


ただ彼女の瞳をまっすぐに射抜くように見つめている。


その沈黙は――

“肯定”と同じ重さで、レミルの胸に落ちた。


断層の振動が一段強くなり、

まるで四人の間の“距離”まで揺らしているかのようだった。



レミルの胸が、ぐっと締めつけられる。


落下の記憶――

あの一瞬で天地が裏返り、

空も地面も自分の位置さえも失われた、

“世界そのものの崩壊”に近い感覚。


その感触が、指先から蘇ってくる。


(また……

 あの、世界が反転する感覚を……?

 この人は……“必要だから”で……済ませるの……?)


息が浅くなる。

腕が、自分の意思と関係なく震え始める。


レミル

「エルゴ……

 あなた……落ちることを……推奨してるの?」


問いというより、

恐怖と嫌悪が入り混じった“拒絶の声”に近かった。


だが、エルゴは沈黙したままだった。


否定しようとして言葉を選んでいる沈黙ではない。

彼の目はぶれず、揺れず、

ただ――

自分が嘘をつく人間ではないことを、その静寂が証明していた。


沈黙そのものが、肯定の重さでレミルにのしかかる。


闇の奥で響く振動が、

彼女の心臓の鼓動と、ほとんど区別がつかなくなっていた。


「……てめぇ……正気か……?」


声は低かったが、怒りが隠しきれない。

レミルの肩をかばうように、半歩前へ出る。


(また……

 また誰かが落ちるなんて、絶対に許さねぇ……

 ふざけんな……!)


彼の中で、亡霊のような過去とレミルの姿が重なり、

感情が暴発寸前まで煮えたぎっていた。


■リゼル


リゼルはその場で立ちすくみ、

震える祈りの手を胸元に押し当てた。


(落ちることを……望む……?

 この人……

 “神の道”を……理解していない……)


壁画の倒錯、堕崖王の記録、レミルの沈黙――

信仰が崩れかけている最中に、

エルゴの言葉は“冒涜”として突き刺さる。


祈りは形を失い、

彼女の唇は言葉を作れずに震え続けた。


■レミル


レミルはエルゴの顔を正面から見られなかった。


(私を……

 人じゃなくて……

 “観測材料”として……?)


胸の奥に、ぽっかりと冷たい穴が開く。

仲間と信じていた距離が、

静かに、しかし決定的に裂けていく。


足元の岩の感触が遠くなり、

一歩踏み出せばそのまま“落ちてしまいそうな”孤独。


振動が鳴り続ける断層の底で、

四人の間の温度差だけが、はっきりと浮かび上がっていた。


エルゴは責めるように向けられた三つの視線を受けながら、

ほんの一瞬だけ、眉を寄せた。


それは罪悪感でも逡巡でもなく、

“自分の意図が伝わらないこと”への純粋な困惑だった。


■エルゴ(内心)


(……違う。

 落としたいわけじゃない。

 そんな必要は、どこにもない。

 ただ――)


脳裏に鮮明に蘇る、レミルが落下した瞬間の記録。

重力の急転、断層の震動、空間の歪み。

彼女だけが“聞いた”という不可思議な声。


(レミルの体験は唯一無二のデータだ。

 意図的に再現できるなら……

 “神の声”の正体は必ず暴ける。

 この世界の根幹に触れられる)


冷静で、正確で、揺らぎがない。


“人としてどうか”という問いは、

彼の思考のフレームに入っていなかった。


(……伝わらないか。

 どう話せば、理解してもらえる……?)


エルゴは本気で考えていた。

だが、その沈黙は周囲には

“肯定”のようにしか見えない。


■読者視点


悪意は一切ない。

狂気も暴力性もない。

ただ――温度が、人として決定的に欠けている。


だからこそ、この瞬間のエルゴは

“危険な科学者”として読者の前に立ち現れる。



レミルの顔に浮かんだ強張った表情、

カインの怒気を孕んだ息づかい、

祈りを握りつぶしそうなリゼルの手。


それらを前にしても、

エルゴの瞳は微動だにしなかった。

ただ、静かに、演算するように瞬きをするだけ。


■エルゴ(内心)


(……違う。

 落としたいわけじゃない。

 危険に晒すつもりもない。

 でも――)


胸の奥で、冷たく澄んだ思考が回転する。


(レミルの体験は唯一無二のデータだ。

 彼女が落下した瞬間に“聞いた”という声。

 あれを再現できるなら……

 “声”の正体は必ず暴ける。

 崖そのものが語る真実に、近づける)


言葉にすれば反感を買うと分かっている。

しかし、彼には別の選択肢が浮かばなかった。


(……研究とは、本来こういうものだろう?

 どうして伝わらない?)


ほんのわずか、首を傾ける。


その仕草すら、他者の恐怖や嫌悪を測るためではなく、

「説明の仕方」を再計算するための動きにすぎなかった。


■描写


彼の理屈は確かに正しい。

歪みの原因を突き止めるには、

唯一の“例外点”であるレミルの体験が必要――

科学としては、間違っていない。


だが。


その正しさは、人として踏むべき“線引き”ごと

いとも簡単に踏み越えてしまっている。


■読者視点


この静けさ。

この無自覚な冷酷。

この、善意とも悪意とも違う“温度の欠如”。


――この瞬間のエルゴは、

紛れもなく「危険な科学者」として読者に映る。



暗がりの中、三人の息遣いだけが揺れている。

エルゴの言葉が落ちた場所に、冷えた沈黙が溜まっていく。


レミルは、しばらく声を出せなかった。

喉の奥が、まるで崖の縁のように乾いている。


ようやく絞り出した声は、掠れていた。


■レミル


「……エルゴ。

 あなたは……神の声を探してるんじゃない。

 “答え”だけを見てる」


その言葉が落ちた瞬間、

エルゴの瞳に微かな揺らぎが走った。


それは後悔でも反省でもない。

“計算にない反応を受けたときの戸惑い”――

そんな色に近かった。


喉がひくりと動く。


■エルゴ


「……そうだ。

 真実を知ることが、僕の使命だから」


答えは静かで、あまりにも迷いがなかった。

それは正直ゆえに残酷な返答だった。


レミルは、胸の奥で

“カチン”と小さな音がしたのをはっきり感じた。


金属が軋むほどの痛みではない。

だが、取り返しはつかない。

その程度にははっきりとした、境界線の音。


(……あぁ。

 この人とは……もう、同じ場所は見られない)


目の前のエルゴは、敵ではない。

仲間でもある。

それでも――


“人”として触れ合える距離から

遠ざかっていく背中が、確かに見えた。


この瞬間が、

これまでで最も大きな“断絶”だった。



崖下へと続く通路に、再び足音が落ち始める。

だが、そのリズムはもう四人でひとつではなかった。


歩くたびに、

小さな裂け目が――心のどこかで“ぱきん”と音を立てる。


■レミル


エルゴの足音だけが、耳に刺さる。

振り返らない。

目を合わせない。

声をかけない。


(もう……“相談”なんて、できない)


彼にとって自分は“観測対象”だ。

その認識は、彼女の歩幅から温度を奪っていく。


■カイン


肩越しに、何度もエルゴを睨む。

声には出さないが、表情がすべてを物語っていた。


(……次に、レミルに変なこと言ってみろ……)


牙をむく寸前の野生動物に近い。

仲間であるはずの男へ向けられる敵意は、

もはや隠そうとすらしていない。


■リゼル


胸元の印を押し当てる指が震えている。


(“落下”を……望むような考え方……

 あれは……“神の秩序”じゃない……)


恐れているのは、エルゴではなく――

神の道から外れた“思想”そのもの。


その目が、触れれば剝がれそうなほど脆く揺れていた。


■エルゴ


歩きながら、彼はただ一人、

頭の中で数式を組み直していた。


(次の落下点……気流の異常……

 もし、条件が揃えば……再現は可能だ)


孤立していることに、気づいていないわけではない。

だが、その孤立より先に進むべき“真実”がある。


理解より、友情より、信頼より――

今の彼には“観測”の方が重かった。


通路の空気が、ひずんでいく。

四人の間に漂う温度は、もう同じではない。


そしてこの“不均衡”こそが、

次の落下イベントで起こる 事故の予兆 となる。


誰にも言えないまま、

誰も止めないまま、

四人の心の裂け目は、ここから決定的に開き始めた。

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