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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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カインの葛藤 ― “保護者”から“仲間”へ

深層へ進むほど、空気は質量を得たように重く沈み込んでいった。

 “揺れ”とも“唸り”ともつかない低音が、地中のどこかで生き物のように鳴り、足元から脊髄へじわりと這い上がる。


 先頭を行くレミルの背は細く、揺れる灯りに頼りげなく浮かび上がっていた。


 カインは本能的に振り返り、その小さな背中を確認する。


(……この空気、嫌な予感しかしねぇ。

 こんな場所で一度でも足滑らせりゃ……終わりだ)


 無意識のうちに、腰に巻いたロープを強く握り締めていた。

 指先が食い込み、皮膚がきしむ。


 闇を見つめると、そこに別の影が重なる。


 崖の縁で泣き叫んでいた子どもたちの顔――

 助けられなかった小さな手。


(……くそ)


 暗闇は生者と死者の輪郭を混ぜ合わせ、カインの心臓を圧し潰すように脈打たせる。


 深層へ進むたびに、彼の後悔と恐れは重力のように強くなっていった。



ロープを握るカインの手が、白く、骨ばって浮き上がる。

 その瞬間、深層の低い振動に引きずられるように――

 胸の奥の、封じ込めていた声が蘇った。


(兄ちゃん……来て……!)


(やだよ……怖い……)


(落ちる……落ちる……!)


 あの日、崖にこだました子どもたちの悲鳴。

 岩の割れ目の奥へ、か細い腕が闇に吸われていった光景。

 助けられなかった小さな命が、爪痕のように脳裏へよみがえる。


 そして決まって、その記憶は――

 レミルの落下と重なる。


(……もう二度と。

 俺の目の前で“落とす”なんて……)


 胸で静かに呟いたのは、誓いとも呪いともつかぬ言葉だった。


 カインは歯を食いしばり、一歩、深層の闇へ踏み出す。

 そして、まるで本能が命じるように、レミルの横へ並ぼうと手を伸ばす。


 守らねばならない――

 そんな感情だけが、今の彼を前へ押していた。



低い振動が岩壁を震わせ、足元の砂をかすかに揺らす。

 その不穏な空気の中で、カインは決意したようにレミルの前へ歩み出た。


「レミル、お前は後ろに居ろ。

 この先は――」


 言い切る前に、レミルがそっと首を横に振った。


 細い肩が揺れることもなく、ただ静かに。

 断層の闇よりも深い、揺らぎのない瞳で。


「私は……前を行く。」


 まるでそれが最初から決められていた運命であるかのように。

 反論を許さぬほど自然に、あっさりと。


 カインは一瞬、息を呑んだ。


 その細い背中が、誰かに守られる存在から――

 自ら闇へ踏み込む者へと変わってしまったように見えたからだ。


(……レミル……お前、いつの間に……)


 胸が強く、痛む。

 守るべき相手が、いつのまにか前を歩くようになってしまった。

 その変化を受け入れられない自分に気づきながらも、

 カインは黙ってその背を追うしかなかった。


「私は……前を行く。」


 その一言が落ちた瞬間、

 カインはほんの数秒――呼吸を忘れた。


 レミルが“拒む”など、今まで一度だってなかった。

 誰かの指示を否定するどころか、

 彼女は常に風の流れのように従い、寄り添い、生きてきたはずだ。


(……自分の意思で……前を?)


 頭では理解できても、胸が受け止められない。


 “守られる側”だったはずの少女が、

 いま、自ら危険の中心――闇の奥へ歩もうとしている。


 その光景は、

 カインの心を思わぬ角度から突き刺した。


 驚きでも、戸惑いでも、怒りでもない。

 もっと形のわからない感情――

 胸の奥の、弱いはずの部分をつかまれて揺すられるような感覚。


(なんだよ……これ……)


 息を呑む。

 ロープを握る手がじわりと汗ばむ。


 レミルの背中は細く、危うい。

 だが今、その背はまるで――

 風に選ばれた者だけが歩く“道”の先を見ているようだった。


 カインは、動揺を隠せなかった。


(俺の役目って……

  ずっとレミルを守ることだと思ってた。

  けど――)


 カインは無意識に握ったロープを見下ろす。

 手袋越しでも分かるほど、掌がじっとりと汗ばんでいた。


 (レミルはもう……

  俺がいなきゃ進めない子じゃない……のか?)


 胸に刺さったその疑問は、

 喜びでも誇りでもなく、

 思ってもいなかった“重さ”を帯びて沈んでいく。


 それは「解放」ではなかった。

 むしろ、じわりと胸を締めつける「喪失」に近い。


 守るべき存在が、

 自分の手のひらからそっと――しかし確かに――離れていく。


 レミルの背中は相変わらず細くて、危うい。

 けれど今はもう、

 誰よりも前を見ている者の背をしていた。


 カインはその姿を見つめながら、

 ロープを握る指先に、ゆっくりと力が入らなくなるのを感じた。



 レミルは、風の流れを読む者のような静かな眼で、

 断層の闇の奥へと歩みを進めた。

 その背中には迷いがない。

 むしろ、どこか確かな方向を示す灯のような気配さえ纏っている。


 カインは一拍遅れて足を運びながら、

 胸の底でゆっくりと形を変えていく“役目”を感じていた。


 (……俺の役割は……

  もう“守るだけ”じゃない。

  隣で歩く。

  それが――きっと、今のレミルが望む“仲間”だ。)


 気づけば、握りしめていた拳に新しい力が宿っていた。

 重さではない。しがみつく怖れでもない。

 ただ、これから前へ進むための、真っ直ぐな強さ。


 カインはその拳をゆっくりと開き、

 改めてレミルの背中を見つめる。


 それは守るべき者の背ではなく――

 これから並び立つ者の背だった。


 保護者から仲間へ。

 その変化は大げさな音を立てることもなく、

 断層の深みに吸い込まれていく低音のように、

 静かで、確かな重さをもってカインの中に沈んでいった。




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