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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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リゼルの疑念 ― 信仰崩壊ルート開始

深闇の通路へ足を踏み入れた瞬間、世界は閉じた箱のように沈黙した。

風は一切流れず、呼吸の音すら湿った岩に吸われていく。

足音だけが、やけに重く、遅れて返ってくる。


レミルの背を追って歩いていたリゼルは、ふと足を止めた。

闇に押し潰されるように、胸の奥が苦しくなる。


「レミル、さま……」


呼びかけは声になりきらず、喉の奥で震えた。

熱の消えた力ない声は、音というより“祈りの残滓”だった。


空気は湿り、冷たい。

聖堂の静けさとも違う――光そのものを拒むような、底のない暗さ。


(神の道……天へ至る階段……

 私たちはそれを“登る”と教わったはず……

 なのに……)


頭の中で、壁画の逆さの山々が重なる。

金属板に刻まれた「落ちよ、帰れ」という言葉が、耳の奥でまだ反響している。


(ここにある記録は……すべて逆……

 神に至る道が……“落下”だなんて……)


信仰の根に、冷たい刃のような疑念が入り込み、静かに削り取っていく。

胸の前で組んだ指が小さく震え、祈りの姿勢は崩れかけていた。


レミルの背中が、闇の中で頼りなく揺れる。


その背を見つめるほどに、

リゼルの心に広がる闇は深く、深くなっていった。


リゼルはついに耐えきれなくなった。

沈黙の通路が心を圧し潰すように狭まっていき、

胸の内側を満たす不安が、もはや祈りでは押さえ込めない。


彼女はそっと、レミルの腕に手を伸ばした。

その指先は、聖句を編むときよりもずっと弱く、震えを帯びている。


レミルが振り返るより先に、

リゼルの震えた声が闇に滲んだ。


「レミル様……

 登ることは、本当に……神の望みなのですか……?」


言葉が落ちると同時に、密閉された闇がわずかに揺れた気がした。

まるでこの問いそのものが“禁忌”として、

断層の空気が反応したかのように。


この疑問は、彼女の教団では決して口にしてはならない。

信仰の根にひびが入った時――

自らが“堕ち始めた”と自覚した時にだけ、生まれてしまう問い。


だが今のリゼルは、その禁を思い出す余裕もなかった。


ただ、

壁画の逆さの山々と、

金属板の冷たい言葉が、

祈りの中にあったはずの“正しさ”を奪い続けている。


闇の中で、

レミルの腕を掴むその手だけが、

必死に何かを求めていた。


レミルは、リゼルの掴んだ腕の温度を感じた瞬間、

呼吸を止めてしまった。


胸の奥がざわめき、

堕崖王の低い声と、自分の断片的な記憶が重なる。


(登る……落ちる……

 私はずっと“登る”ために生きてきた。

 皆もそうだと信じていた。

 でも――落ちた、その時……

 世界は反転した。

 上下も、正しさも、祈りの向きさえ……

 あれは……いったい何だったの……?)


答えを求められているのに、

喉の奥が固く閉じ、ひとつも音が出せない。


リゼルの問いは、

レミル自身が最も触れられたくなかった“核心”を突いていた。

自分でもまだ整理できていない恐怖と真実。

それを他者の前で言葉にする勇気など、今の彼女にはない。


「…………」


吐息だけがこぼれる。

それは返答とも拒絶ともつかない、ただの沈黙。


だがその曖昧さは、

隣に立つ少女の心を容赦なく追い込んだ。


レミルが答えられない――

その事実そのものが、

“疑念は正しい”という錯覚を、

リゼルの胸にゆっくりと根付かせていく。


レミルの沈黙が、闇より重い影となってリゼルを包み込む。


少女は、足元の岩にぬかるみを踏んだかのように立ちすくんだ。

声を上げることもできず、ただ、胸の奥がひくりと痛む。


(レミル様……ですら……

 “登ること”が神の望みだと……

 確信しておられない……?)


疑念は針のように細く鋭い。

だが、一度刺さると抜けない。


(では……私は……

 今まで何を信じて……何に祈って……

 どこへ向かって歩いてきたの……?)


息が苦しい。

祈りの言葉が、喉の奥で粉々に砕けて消えていく。


胸を押さえる指が震え、呼吸は浅く早まる。

支柱のない天井が、彼女の上にゆっくり倒れてくるような錯覚。


祈りの文句を必死に思い浮かべても――

“天へ昇れ”というその言葉が、

今はまるで逆再生された映像のように、


落ちていく。

 崩れていく。

 逆さまに歪んでいく。


自分の信仰が、

静かで残酷な音を立てて、内側から崩れていくのが分かった。


深闇の通路に満ちる湿った沈黙の中、

最初に異変へ敏感に反応したのは、やはりカインだった。


■カイン


リゼルの呼吸が乱れ、肩がかすかに震えている。

ほんの一瞬で、カインは“危険な兆し”だと察した。


(……リゼルの顔色がまずい。

 精神が折れかけてる……

 ここは本当に“落ちる者の領域”だ……)


闇の気配が、弱った心を下へ下へと引きずり込む場所。

彼はそれをよく知っている。

知りすぎている。


レミルの横へ一歩寄り、そっと肩に手を置く。

「答えなくていい」と伝えるために。


口には出さない。

だが指先に込めた温度は、レミルを守る意思そのものだった。


(……守りてぇのは同じなのに……

 レミルにばかり重荷が乗っていく……)


リゼルを気遣う視線と、レミルを守る仕草。

二つの衝動が胸の中でぶつかり合い、

カインの眉間に深い皺を刻む。


■エルゴ


一方で、リゼルの動揺を見たエルゴは別の角度から反応した。


暗がりの中で、彼の瞳だけが微細に輝く。

それは慈悲ではなく、好奇の光。


(宗教的価値観と物理現象の衝突……

 典型的な信仰崩壊の初期反応だ……

 この状況、観察記録としては――)


思考は完全に“研究者のそれ”だった。


言葉に出さなかったのは、

彼が人の心を理解したからではなく、

単に“状況的に不適切”だと判断したからだ。


しかしその瞳は、どこか冷ややかに揺れ、

リゼルの苦悩さえ現象として切り取ろうとする。


読者の胸にざらりとした不安を残す、

“観察者の目”だった。


二人の反応は、

同じ一人の少女の苦しみに対して、

これほどまでに異なる温度を帯びていた。



レミルは――

リゼルの問いに、最後まで答えられなかった。


胸の奥が冷たく固まり、

喉は砂のように乾いて、

声という声は形にならない。


だから彼女は、

答える代わりに**「前へ歩く」**という行動を選んだ。


ほんの一歩。

足音は小さく、それでも闇に吸われて響く。


(……進まなきゃ。

 この先に……答えがある……

 そうでなきゃ……私は……

 リゼルに……何も返せない……)


背中にそっと風が触れる。

それは、迷う彼女を押すような、

あるいは逃げる彼女を急かすような、曖昧な流れ。


けれどその一歩は、

彼女にとっては勇気のつもりでも、

揺らぐリゼルにはまったく別の意味を帯びた。


レミルの背が遠ざかる。


それはまるで――

守護者に見放されたかのように、

リゼルの目には映ってしまう。


「……レミル……様……?」


か細い声が闇にほどける。


祈りを捧げるはずの片手が、

力を失い、だらりと下へ垂れた。


その指先から、

崇拝と確信が静かにこぼれ落ちていく。


信仰崩壊の、最初の一歩。


断層は、さらに深く、さらに暗く落ち込んでいく。

空気は重力そのもののように沈み込み、

風の代わりに――

**地の底から響くような“低い振動”**が壁を震わせ始めた。


その振動は耳ではなく、

骨の内側で鳴る音。


レミルは足を止め、

暗闇の奥を見据えると、静かに指を伸ばす。


「……この先。

 堕崖王が“底”と呼んだ場所がある。」


声はかすかに震えていたが、

それは恐怖ではなく、

“記憶の共鳴”に近いものだった。


背後でリゼルが小さく息を呑む。

だが、返事はない。


ただついていく。

まるで自分の足で歩いている実感すら薄れるように。

その瞳には、かつての敬虔な光が

弱火のように揺らめくだけになっていた。


カインはその変化を痛いほど理解し、

エルゴは振動の解析に意識を傾け、

レミルはただ前へ進む風に導かれた。


――ここから先。

リゼルはもう、

“誰を信じればいいのか”を見失っている。


次章で訪れるのは、

彼女の信仰が完全に崩れ落ちる瞬間だった。




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