表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/65

堕崖王の“第二記録”

断層がさらに狭まり、四人は互いの肩が触れるほどの幅を縫って進んでいた。

足音は遅れて返ってきて、まるで自分たちとは別の“影”が後ろからついてくるようだった。


その中で、レミルがふっと足を止めた。


「……?」


カインが振り返るより一瞬早く、レミルの意識は“気流”に奪われていた。


(……ここだけ……風が……沈んでる……?

 空気の重さが……違う……)


断層内は無風のはずなのに、

その一点だけ、風が“落ちていく”ような感覚があった。


レミルは壁に手を伸ばす。

石のざらりとした感触を期待した指先が、思いもよらない冷たさに触れた。


「……金属……?」


岩の内部に、まるで脈のように埋め込まれた冷たい板。

自然の鉱脈ではありえない、平滑で硬い手触り。


レミルの指先が辿った先には、

岩肌とは明らかに異なる“直線的な刻み”があった。


「ちょっと、光を――」

エルゴが小声で言い、灯りを近づける。


光が金属板を照らした瞬間、

その表面に刻まれた文字が浮かび上がった。


粗く、だが迷いのない線。

素手ではなく、道具で深く彫り込まれた“記録”だった。


「これは……岩刻じゃないな」

エルゴの目が細くなる。


レミルは、表面をなぞる指を震わせながら、

その“冷たさ”の向こうに隠れた何かを感じ取っていた。


(……この板、風を……吸ってる……?)


断層の静寂が、さらに一段深く沈む。

四人は無言のまま、次に訪れる“言葉”を待った。



エルゴは金属板を両手で支え、

刻まれた文字を光の角度を変えながら読み取っていく。

普段は冷静な彼の喉が、ごくりと動いた。


「……これは、相当古い……いや、年代が合わない……」

つぶやきは震えに近い。


そして、深く息を吸い、

抑えた声で“第二の記録”を読み上げ始めた。


「――二十五日目。

  重力の底で、私は声を聞いた。

  “落ちよ、帰れ”と。」


その瞬間、狭い断層の空気がひやりと沈む。

声が岩ではなく、金属板の奥へ吸い込まれていくようだった。

響かない。返ってこない。

ただひたすら、沈む。


エルゴは続ける。


「登る者は孤独だ。

  落ちる者は神に抱かれる。」


最後の一語が消えたとき、

四人の間の空気から“温度”が奪われた。


灯りが揺れるほどの風はない。

なのに、断層の壁がどこか身じろぎしたように歪んで見えた。


レミルは息を呑む音すら出せなかった。


音がすべて――

この金属板と、その向こうにある“何か”に飲まれていく。


沈黙だけが、深く深く落ちていった。



レミルの拳が、こつ、と音を立てて握り締められた。

指の骨がきしむほど強く――だが、その震えは怒りのそれではない。


(……そんな声……私は……聞いてない……)


金属板の文言が胸の奥をざらりと削る。

崖下に落ちたあの日。

骨の軋む衝撃も、息の止まる闇も、彼女は覚えている。

だが――


( 私は……呼ばれなかった…… )


“落ちよ、帰れ”

そんな声など、一度も聞こえなかった。


( それでも私は……生きた……! )


その事実が、まるで刃だった。

堕崖王の記録が描く“落ちる者は救われる”という論理。

自分はそこから外れている。


風が、微かに、揺れた。

断層には吹いていないはずの風が、

レミルの頬だけをかすめ、乱れた髪を持ち上げる。


( なら……私は……“抱かれなかった者”?

  “拒まれた者”? )


胸の奥に、深い傷に触れられたような痛みが走る。

息が浅くなる。


自分の生還――

それは誇りであり、呪いでもあった。

堕崖王の論理の前では、彼女の存在そのものが

ひどく、不自然で、否定的で。


風が彼女の周囲で渦を巻く。

決して荒々しくはない。

むしろ優しいほどに弱い。

だがその流れは、自己否定の震えが作る風だった。


レミルは唇を噛み、息を押し殺した。

闇の底へ落ちていくような感覚が蘇る。


――“なぜ、私は生きたのか”――


その問いだけが、深い断層の中で

ゆっくりと、彼女の心を締め付けていった。



リゼルの唇が、震えた。

まるで寒気に襲われたかのように肩が小さく跳ねる。

そして次の瞬間には、彼女の顔は血の気を失い、

崩れ落ちる寸前の陶器のように青ざめていた。


「……声を……聞いた……?」

「重力の……底で……?」


言葉を紡ぐたび、喉が小さく鳴る。

必死に祈りを口にしようとするが――

断層の空気は、まるで“信仰そのものを拒む”かのように

重く、冷たく、彼女の声を吸い込んでいく。


「……あ……」

祈りの最初の一音でさえ、喉奥に押し返される。


リゼルの視界が揺れる。

金属板に刻まれた「落ちる者は神に抱かれる」という言葉が

聖典の教えと真っ向から衝突し、

脳裏で鈍い衝撃となって何度も反響する。


(……神は……落ちる者を抱く……?

 そんなはず……そんな教え……ない……

 わたしたちの教義とは……真逆……

 それは……“冒涜”……)


胸の奥から込み上がるものは、恐怖でも哀しみでもなかった。

もっと深く、根源的な――

信仰そのものの土台が崩れ始める音。


喉が乾き、指先が細かく震える。


(……間違っているのは……どっち……?

 教義……? この記録……?

 それとも……わたし……?)


答えのない問いが、静寂の断層で膨れ上がり、

リゼルの胸の中心に“初めての致命的な裂け目”を生んだ。


祈れない。

声が出ない。

神の名を思い出しても、そこに温度がない。


リゼルは唇を噛んだまま、ただ沈黙した――

それは、信仰にとって最も深い痛みの瞬間だった。



カインは、エルゴの声よりも、金属板の文字よりも――

レミルの呼吸の乱れのほうを先に聞き取っていた。


エルゴが読み進めるたび、

レミルの拳が震える。

胸が上下し、肩がわずかに沈む。

視線が、どこか“深い場所”へ落ちかけている。


その変化を、カインは誰よりも早く、鋭く察した。


(……やめろよ。

 また……あの時みたいに……

 “落ちる側”に引っ張られんじゃねぇ……)


歯を食いしばる。

険しい表情の裏側に、

怒りよりも先に沸き上がっているものがあった。


恐怖。

そして――

自分が守れなかった過去への、しつこくまとわりつく贖罪。


レミルがふらついた瞬間、

カインの手は条件反射のように伸びかけていた。

触れはしなかったが、

その指先には明らかな焦りが宿っている。


(……俺はもう二度と、

 お前が落ちていくのを“見てるだけ”なんてしねぇ……)


彼の視線は鋭く、荒っぽく、

だがその奥には痛いほどの優しさと後悔が重なっていた。


エルゴの声が静かに続く中、

カインだけが、

レミルの足元に広がる“見えない縁”をにらみつけていた。


まるでそこに、

再び奪われかねない何かが口を開けているように――。



エルゴは金属板を両手で支え、

光の角度を変えながらゆっくりと表面を読み取っていった。

その姿は、まるで断層の闇の中に一本だけ差し込む理性の光のようだった。


「……この言葉は、単なる狂気ではない。」


ぽつりと落とされた声に、

カインもリゼルも反応するが、

エルゴは視線を板から外さない。


「“重力の底”――

 これは比喩ではなく、

 重力が局所的に反転する領域を示している可能性が高い。」


指先で金属の縁をゆっくりなぞる。

断層の冷気に触れたせいか、

彼の声音にはわずかな震えが混じっていた。


「“落ちよ、帰れ”……

 幻聴ではなく、知覚異常の類だ。

 重力変動によって、方向感覚そのものが揺さぶられ、

 “声として”脳が補完する現象だ。」


エルゴの目に宿るのは、

恐怖というより――

未知の法則を前にした者特有の、

興奮と敬意の入り混じる光。


しかし彼は、言葉を続けながらふと表情を曇らせる。


「もしこの先に……

 堕崖王が“声”と呼んだ現象の発生地点があるのなら……」


視線が、そっとレミルに向く。


レミルの周囲だけ、

風がざわ、と小さく揺らぎ、

彼女の頬に触れては沈む。


「……レミル君には――」


そこまで言いかけて、

エルゴは唇を閉じた。

それ以上口にすれば、

彼女だけを危険の中心に置くことになる、と悟って。


残された沈黙が、

断層の奥へと吸い込まれていった。



闇に沈んだ断層の底で、

四人の胸の内は、まるで岩盤そのものに走る断層のように、

少しずつ――しかし確実に、別々の方向へ裂け始めていた。


レミルは、金属板の文字を見つめたまま微動だにしない。

胸の奥で、あの落下の記憶と堕崖王の言葉が――

ゆっくりと呼応し始めていた。


(……落ちるのが……帰ること……?

 私が落ちたとき……確かに世界は反転して……

 あれは……私だけが、知らなかっただけ……?)


その囁きは誰のものでもないのに、

あまりに“本物”の気配を帯びている。


リゼルは膝を抱き寄せるように胸前で手を組み、

祈りの形を保とうと必死だった。


(神は落ちる者を抱くなど……そんなはずが……

 でも、あの人は“声を聞いた”と……

 もしそれが……真実なら……

 わたしの信じてきたものは……?)


震えるまつ毛に、光のない涙が滲んだ。


カインはそれら二人を、

岩壁よりも固い眼差しで見つめていた。


(……レミルの顔色が変わってる。

 また“あの時”みたいに、

 落ちる側へ引きずられる気配を感じる……

 俺は……また守れねぇのか?)


拳がゆっくりと握り締められ、

関節がかすかに鳴った。


エルゴだけは、震えてなどいなかった。

だがその静けさは、他とは別種の危うさを孕んでいる。


金属板を見つめる彼の瞳は、

闇の奥を透かして光を求める学者のそれだった。


(ここには“現象”がある。

 堕崖王が体験した重力の反転――

 そして“声”と称された知覚変動。

 もしこの奥に源があるなら……

 私は、必ず確かめなければならない)


興奮が、ひどく静かに膨れ上がる。


四人の視線が、同じ一点へ集まった。


金属板の奥に開いた、

光ひとつ漏れない深闇の通路。


その暗黒を見つめた瞬間――

レミルだけが、はっきりと感じた。


“奥で、風が動いた。”


(……まだある。

 堕崖王の“声”は……ここから先だ……)


胸の奥で、風が形を変えて渦巻いた。


誰も言葉を発さなかった。

だがその無言の中で、

四人はゆっくりと互いを見、

そして――静かに頷き合う。


それぞれの心にひび割れを抱えたまま。

それでも同じ方向へ進むしかない者たちの決意に似た動きで。


四人は足を前に出した。


深闇の通路へ。

堕崖王の“声”の源へ。

重力の底へ。


断層が、彼らを飲み込んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ