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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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断層内部の異様な景観

断層の奥へ進むにつれ、空気の質が変わった。

最初はただの荒れた岩道だったはずなのに、気づけば壁面は奇妙に滑らかになっている。


カインが眉をひそめる。

「……自然にできた洞窟って感じじゃねぇな」


エルゴがかがみ込み、岩肌に手を触れた。

「削ってある。かなり古い作業跡だ……人の手だよ、これは」


レミルは何も言わず、ただ耳を澄ませる。

風が――ない。

外ではあれほど吹き荒れていたのに、この内部だけは完全に密閉されたようだ。


(ここだけ……風が死んでる)


足を一歩踏み出すと、足音が遅れて返ってきた。

「コ……ォン……」

岩壁に吸い込まれながら、重く反響する。


リゼルが肩をすくめる。

「音が……変です。沈んで聞こえる……」


レミルの胸の奥が、静かにざわついた。

ただの洞窟ではない――誰かが意図して、ここを“形づくった”。

風が教えてくる。


(祈りの……跡。

 ここで誰かが……ずっと、削って……磨いて……)


壁は不気味なほど平滑で、触れれば冷たい皮膚のように滑らかだ。

かつてここに集った者たちの手が、何度も何度も撫で、祈り、磨き続けた痕跡。


エルゴがぽつりと呟く。

「まるで……聖域だな。誰かが“ここを造った”としか思えない」


レミルは小さく息を呑む。


(堕ちた王……そして、その者を追った人々……

 これは……落下のための道だ)


彼女だけが、沈んだ空気の奥で、微かに流れる“風の残骸”を感じ取っていた。



最初の壁画は、唐突に現れた。

曲がりくねった断層の角を曲がった瞬間、四人の視界いっぱいに広がる。


それは――“山”だった。


だが、逆さま。


岩肌一面に刷られた黒と白の対比。

遠景の山脈は墨を流したように真っ黒に沈み、

手前の尾根は白く縁取られ、

影が光を押し返すように反転している。


重力も光源も、描いた者の意思でねじ曲げられた景色。


レミルは思わず立ち止まった。

目が上下を判別できなくなる。

視界の底と天井が螺旋のように回転し、足元がふっと軽くなる。


カインが舌打ちをこぼす。

「気味悪ぃ……。こんなもん、信仰じゃねぇ。絵のほうが人間を落としに来てるだろ」


リゼルは口元を押さえ、蒼ざめた顔で呟いた。

「……これは……世界を“逆さ”に見た者の描き方です。

 正常な精神では……ありえません……」


壁画は乱雑ではない。

むしろ精緻で、美しい。

筆致は迷いなく、影の重なりは狂気のくせに精密で、

描いた者の“確信”だけが、異様な輝きとなって浮き出ていた。


レミルは目を離せずにいた。

絵に近づくほど、胸がざわめく。


(逆さの山……落ちるほどに、光へ近づく……そんな……)


風がないはずの空間で、彼女の髪だけがかすかに揺れた。

風ではない、絵の奥から引かれるような“感覚”。


断層の空気が、四人の“上”と“下”の概念を、確かに奪い始めていた。



断層がふいに広がり、天井がわずかに高くなった場所――

そこに、その壁画はあった。


レミルは思わず息を飲む。

岩肌いっぱいに、巨大な“手”が描かれていた。


空とも深淵ともつかぬ虚ろな空間から、

一本の腕がゆっくりと伸びてくる。

その大きさは、まるで山脈全体を手のひらで覆えるほどだ。


その下では、人の群れが――落ちている。


重力に引きちぎられたように、

身体は下へ、下へと吸われ続けているのに、

巨大な手は彼らを優しく抱き取ろうとしていた。


だが。


抱かれる者たちの顔は、ひとつとして描かれていなかった。

目も鼻も口もない、空白の影だけが並んでいる。


意思を持たず、恐怖もなく、

ただ“無我のままに帰依した者”の姿。


レミルの背筋に、じわりと冷たいものが走る。


手のひらの下には、深い刻みで二文字。


――帰 還


岩に刻まれたその線は、

絵師の狂気を超えた“確信”の深さを物語っていた。


リゼルは声を震わせながら、

唇をかすかに噛んで呟く。


「……これは……死者を迎える手ではありません……

 “堕ちた者こそ神へ近づく”という……

 完全な……倒錯です……」


その言葉は、断層の静寂に吸われていき、

まるで生きた音だけが拒絶されたように弱く消える。


レミルは一歩も動けない。

巨大な手の“包容”の陰に、

なぜか――胸の奥がざわめいた。



レミルは、巨大な手の壁画から目を離せなかった。


次の瞬間――

断層内部は完全な無風のはずなのに、

“彼女だけ”の頬を、かすかな気流が撫でた。


下へ。

底の見えない深みへ引くような、冷たい風。


レミルの心臓が一度、大きく跳ねる。


(……何……?

 どうして……この風……だけ……私に……)


その疑問に答えるように、

またふっと、髪先が“下へ”揺れた。


落下の気配。


あの日、谷へ落ちかけたときに感じた、

空気が裏返るような、あの“縁”の感覚が蘇る。


胸の奥が冷たくざわつき、

吐息が震えて漏れた。


(落ちることが……帰ること……?

 そんな……はず……ない……

 私は……登るために……

 自分の足で……)


言葉を紡ごうとしても、

声は断層の闇に吸われ、かすれて消えた。


レミルは気づかない。


その風は、ただの風ではない。

堕崖王が最後に感じ、

最後に残した“意志の残響”――。


世界の重力が反転する瞬間に触れた者だけが、

微かに、触れ得る感覚。


そして今、

それを拾い上げられるのはレミルだけだった。



断層の奥へ進むにつれ、空気はひんやりと澄み、

足音さえ白く消えていくようだった。


そして――

淡く白い粉で描かれた、他とは明らかに異質な壁画が姿を現す。


レミルが思わず息を呑む。

そこに描かれているのは、“頂”のような場所。

天から降り注ぐ光線が、細い糸のように人影を照らしている。


だが、その人影は――

逆さまだった。


頭を下に、足を上に。

まるで落下しながら、

しかしその落下自体が“上へ向かう運動”であるかのような奇妙な構図。


常識がねじれ、

視界がふと反転しそうになる。


エルゴが、喉の奥で興奮を押し殺すように呟いた。


「……描いた者は、知っていた。

 “落下こそが上昇だ”という概念を。

 重力の向きが変わる地点――

 それを、実際に体験した者の……絵だ」


彼の眼鏡の奥で、瞳が妙な熱を帯びていた。


カインは眉を寄せ、吐き捨てるように言う。


「やっぱり……狂ってんだよ、これ描いた連中……」


かすかに靴底が鳴る。


壁画の“逆さの光”は、

見ている者の方向感覚さえ揺さぶるように淡く白く輝いていた。



レミルの足が、不意に止まった。


壁画――逆さに描かれた人影が、

視界の端でゆらりと揺れ、

まるで彼女自身の影と重なろうとしているように見えた。


「……っ」


胸の奥が急に冷える。

空気が軋んだように、世界がわずかに傾いた。


(落ちるのが……“帰ること”……?

 そんなはず、ない……私は……

 “登る”ために、ここまで……)


だがその瞬間、

自分が決して声にしていない“記憶の言葉”が、

どろりと胸に浮かび上がってくる。


(――あの時……

 落ちていく瞬間、私は……

 “帰れる”って……思った気がした……)


ありえない。

そんなことは、決して。


だが壁画の逆さの光が、

まるでその記憶を肯定するように揺らめく。



レミルの呼吸が浅くなる。


第一の揺らぎ――

“登る”という価値観が、

ほんの刹那、裏返される。


地面が頭上にあり、

空が足元にあるような、

そんな錯覚が脳をかすめた。


「……っ……!」


レミルはぎゅっと目を閉じた。

喉の奥にひっかかった息を押し戻し、

深く、深く吸い込む。


一歩。

もう一歩。


わずかに震える足を前へ出すと、

揺らぎはかろうじて霧散していった。



レミルの動揺を中心に、

周囲の三人の反応が鮮明に浮かび上がる。



「……ここは正気の場所じゃねぇ」


カインが、手にした刃をわずかに持ち直す。

恐怖が声に混じり、肩がわずかに震えていた。

壁画の“逆さの光”を改めて睨みつけたが、

視線を触れさせるだけで嫌悪がこみ上げるようだった。


「こんな歪み、祈りでも伝承でもねぇ……

 呪いの残りかすみてぇだ……」


警戒が、さらに鋭くなる。



リゼルは対照的に、

両手で口元を覆い、青ざめた顔で後ずさった。


「神を……

 神を逆さに祀るなんて……」


壁画の前に立つのが耐えられないのか、

彼女の瞳には涙が滲んでいる。


「こんな……こんな倒錯を、

 誰かが“正しい”と思って描いたなんて……

 信じたくありません……」


宗教的倫理観が揺さぶられ、

声が震えて言葉が途切れた。



一方、エルゴは別の震え方をしていた。

恐怖ではなく、観察者としての興奮だ。


「……重力の方向が反転した経験を、

 描いた者が確実にいる。

 これはただの狂気ではなく、

 異常現象を“認識した記録”だ……」


壁に指先を近づけ、

光の線の傾きを読み取ろうとする。


「この構図……

 反転点に至った者が見た“世界の向き”を再現している。

 つまり、堕崖王の――」


言葉を止め、

レミルに視線を向けた。



レミルは、まだ壁画を見つめていた。

まるでその奥から、

何かが呼んでいるかのように。


(落ちるのは……帰ること……?

 私は……ただ、登りたかっただけなのに……

 どうして……こんな感覚……)


彼女だけが、

堕崖王の“感覚の残滓”を拾ってしまっている。


四人の反応はバラバラだった。


しかし、誰も――

レミルに起きている異変を否定できなかった。



壁画群の最奥――

そこだけ、闇が深すぎて輪郭さえ曖昧な場所があった。


風など吹くはずのない断層内部。

密閉されたはずの空間なのに。


レミルだけが、その一点から

“細く、確かな気流”を感じ取っていた。


(……風が、流れてる……?

 この奥に……落ちた者たちの“道”が……

 堕崖王も……きっと……ここを――)


他の三人には何も感じられない。

ただ深い闇があるだけだ。


だがレミルには違った。

それは風というより、“意志”のようなものだった。

誰かが落ちていった方向を、

誰かが帰ったと思い込んだ先を……

そのまま指し示す細い線。


レミルが一歩近づくと、

その黒い壁の陰で何かが“穴”として形を帯びた。


狭い。

縦に、果てしなく長く。

光も音も吸い込む“暗黒の縦穴”。


エルゴが眉をひそめて近づき、

カインは剣を握り直し、

リゼルは小さく息を呑む。


だがレミルだけは、

その穴の奥で――“呼んでいる風”を感じていた。


(……ここだ。)


落ちた者たちの流れ。

堕崖王が歩いた道。

そして、自分が一度だけ“触れた”世界の裏側。


すべてが、この暗黒につながっている。


闇は口を開け、

次の出来事を予兆するかのように、

沈黙のまま風だけをレミルへ押し返していた。




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