王都を抜け出した第一王子の俺が流れ着いた町で住み始めた俺以外の入居者20人全員女子のハーレムアパートの外壁の色はクリーム色
俺が王都を抜け出したのは四日前の深夜のことだ。王都へは二度と戻らなかった。
このところは熱帯夜で、夜でも外に出るのに上着は必要なかった。十分な現金を持って王宮を抜け出し、通りでタクシーを拾った。位置情報を辿らせないためにスマートフォンを置いて来たから、することもなくただタクシーの窓から外の景色を眺めていた。しかし、そのような乗客をタクシーの運転手は放っておかない。
「最近は夜でも涼しくなりませんね」
「本当ですね」
「冷房もう少し上げますか」
「いえ、車の中は快適です」
「ありがとうございます」
冷房を上げる、と言った時、「どっちだ?」となりがちなものだが、今回は文脈によって意図が間違いなく伝わったな、と思った。結局、意図が正しく伝わったときにもどのみちこのように考えてしまうのだから疎ましい。
「今日は飲み会からのおかえりですか?」
「はい」
「いいですね」
「はい」
努めて下手な返事をした。その後タクシーは沈黙を守ったまま、王都の隣のエドレーの街に到着した。
タクシーを降りて、再び別のタクシーに乗り込む。三日間で十台のタクシーを乗り継いだ後、慣れないパーカーに袖を通した俺は、初めて電車の切符を買った。
外出時にスマートフォンが王宮のWi-Fiから切断されるように、西へ行く電車の中で俺は王子の身分から切断され、ビードの町に流れ着いた。
第一王子の失踪であるから、四日も経てば事件として報道されているものだろうが、俺は顔が良かった。整った顔というのは、人に特別な印象を与えない。俺は堂々とビードの町を歩いた。
ビードの駅からは南に商店街が伸びている。仕事を探すため、この町の経済の様子を観察すべく、俺は商店街を歩いてみることにした。商店街の歩道には屋根がついているが、真夏の陽射しは屋根を突き抜けて商店街を焼いていて、人通りはほとんどない。
商店街の店をひとつひとつ見ながら歩くが、俺にはそこに自分の生活を想像することができない。ちょうど千歩を歩いたところで商店街は終わった。
文章を読んでいて目が滑ってしまい、はっと目が覚めたようにページを戻る、というわけである。俺はこの商店街を戻らなければならない。そうは思いながらも、商店街の終点で俺は呆然と立ち尽くした。
そのとき、ふと目の前のアパートが目に留まった。アパートの一階の部屋の窓には、「入居者募集 月一万円」と貼り出されている。大きくて綺麗なそのアパートの家賃として一万円が破格であることは、世間知らずの俺にもわかった。
遅れて、「ああ、家が必要だ」と気付いた。俺には仕事だけじゃなく家も必要だ。ここに住みたい。
張り紙の連絡先を読もうと、アパートに近づいていくと、玄関からエプロン姿の若い女性が出てきた。二十五歳くらいだろうか、胸元まで伸びた黒髪は、豊満な胸の上で柔らかくカーブしている。化粧っ気はないが唇には潤いがあり、今頭上にある凶悪なそれのことなどは忘れて、太陽のような人だと思った。
彼女は俺に気付くと、怪訝な顔でこちらを見つめ始めた。そんな顔をしなくてもいいのにと思いながら、構わずアパートに近づいていくと、向こうから声をかけてきた。
「どうされました?」
「いえ、ちょっとそちらの入居者募集の張り紙が気になって」
「ああ、ここ、女性専用なんですよ」
そういうものがあるのか。
「安いですよね。女性専用なのに一階だからなかなか住む人がいないみたいで」
「なるほど、そうなんですね」
女性の一人暮らしで一階は避けるべきだ、というのは学校の授業で聞いたことがあった。
「お引越し、考えてるんですか?」
随分と積極的に聞いてくるものだと思ったが、既に彼女の顔から警戒の色は消えていて、俺は早くも彼女の親切心に期待し始めていた。
「そうなんですよ」
「今はどちらに?」
「それが、住むところがなくて」
「え」
そう言った彼女の顔はさらに少し明るくなった気がした。ここから具体的に何が期待できるかはわからなかったが、とにかく俺は彼女に何かを期待して、間を延ばすだけの返事をする。
「そうなんですよ」
彼女を待つ。
「あの、」
来た。
「大家さんに、お願いしてみますか?」
「でも、女性専用なんですよね」
「はい、そうなんですけど、あの、全然、他意はないんですけど、その、」
「はい」
「その、私たちが付き合ってるってことにしたら、多分大丈夫なんじゃないかなって」
彼女の声は段々と小さくなり、語尾が不明瞭だった。顔は耳まで赤い。つまり、「他意はない」といいつつ満更でもないらしいことは見て取れたが、気付かないふりをして続ける。
「それで住めるんだったらとてもありがたいですが」
「そうですよね! 聞くだけ聞いてみたらいいと思いますよ! 大家さん、最上階に住んでるんで、行って聞いてみましょう」
どう考えても話が早すぎるが、都合がいいので乗っかった。アパートに入れてもらい、階段を上っていく。階段を上りながら、彼女も彼女で話が早すぎたことに気付いて、暑そうにぱたぱたと手で顔をあおいでいた。
彼女が大家さんの部屋のインターホンを鳴らす。
「206号室のコアナです。」
コアナというのか、と俺が思うと同時に、彼女もまた名乗りすらしていなかったことに気付いて、恥ずかしそうに視線を送ってきた。そして当然、俺もまだ彼女に名を名乗っていない。無論、本名を名乗ることは今後もないのだが。
アパートの最上階にはドアが二つしかなかった。それぞれの部屋は床面積が広そうだ、一階に住もうという俺には関係ないが。そんなことをぼーっと考えている内に、ドアが開いて大家さんが出てきた。
「どちら様?」
大家さんと聞いてお年寄りを想像していたが、予想に反して大家さんは若かった。というか、幼いと言った方が正しい。十三歳ぐらいだろうか。しかし、それについて尋ねる暇はない。
「はじめまして、ロドランと申します」
俺は腰を屈めて彼女に目線を合わせて微笑みかけた。
「実は、私が以前からお付き合いしている方で」
彼女がすかさず説明に回ってくれる。それは俺が名乗るのを待っての華麗な連携プレーのようでもあったし、彼女が大家さんに強く何かをアピールしているようにも見えた。
そのことに一抹の不安を覚えたものの、果たしてコアナは大家さんの説得に成功してしまった。
大家さんは一度部屋に戻ると俺に契約書とペンを差し出し、
「じゃあ、ちょっとこれ書いてなさい」
と言って、今度は奥のもう一つの部屋に入っていった。大家さんが入っていった部屋の扉は開け放されたままで、奥から何か物音が聞こえてきた。
俺はコーポ・ジュネーブの入居契約書を書き終え、保証人欄を嬉しそうに記入するコアナの横顔に見とれていた。不意にそれを大家さんに見られたくない気がして顔を上げたが、大家さんはまだ部屋の中にいるようで、胸を撫で下ろした。
「すみません、契約書書けました」
語尾を少し伸ばしながら、奥の部屋に向けて呼びかけると、
「こっち持って来なさい」
大家さんのやはり高い声が返ってきた。
「失礼します」
扉の開け放たれた部屋をのぞき込むと、廊下の奥に思ったよりも手狭なリビングが見えた。床はフローリングで、壁一面の窓にはカーテンが掛かっていない。生活感がない、というのは間違いないのだが、なにより奇妙なことに、リビングでは色とりどりの風船が20個ほど紐を垂らしながらぷかぷかと浮いていた。不審に思って、コアナの方を振り返ると、コアナは特に不思議がることもなく笑顔を湛えていた。
「こっちよ」
リビングからの声に招かれて部屋に上がると、リビングの死角に大家さんがいた。大家さんは、銀色のガスボンベに赤色の風船を取り付けていた。大家さんがボンベの栓を捻ると風船はみるみる膨らみ、それはちょうど俺の頭くらいのサイズになった。というのも、大家さんが風船の口を縛って掲げて見せたその風船には俺の肖像画が描かれていたのだ。
「署名代わりにね。ついでに老いなくなるしね」
「おいなくなる……ああ、老いなくなる、か」と気付くのに時間がかかった。その間に大家さんは俺の手から契約書を取っていくと、その場でざっと確認を済ませた。
「オッケー、もらうね。よしじゃああんたの部屋の鍵取りに行くわよ」
そう言って大家さんがリビングを出ていく。
振り向けば、夏の光に満ちた空っぽの部屋には二十個の少女の顔と赤い俺の顔が浮いていた。
コアナとこっそり連絡先を交換し、明日一緒に家具を見に行く約束をした。部屋には当然寝具も何もなかったが、コアナの部屋に泊めてもらうわけにもいかないので、今夜はホテルに泊まることにして部屋に鍵をかけて一人外に出た。
ビードの町に明るくない俺はホテルのあてもなかったが、とりあえず駅の方に行ってみることにして、商店街を北へ歩いた。この町での拠点を得た俺は、昼間とは異なる想像力で夜の商店街を舐めるように見て歩く。
眩く光る看板の中を歩いて行くと、商店街から一本外れた通りにも商業ビルがあることに気付いた。驚安を売りにした若者向けのカジュアルな雑貨店が目に入り、買い出しの用を思い出した。
店に入って、とりあえず売り場を一周してみることにした。ド派手なポップがひしめく店内には、幅広い商品が置かれていて、ほとんどが王宮での生活では目にすることのないものだった。許容量を超えた情報量に酔ってしまった俺はパーティーグッズコーナーで足を止めると、「高出力!」と書かれたレーザーポインターを手に取った。
店を出て、再び商店街を南下した。コーポ・ジュネーブの裏手には、道路挟んで向かいにもアパートが建っていた。ジュネーブとは違い、ボロボロのアパートで、錆びついた外階段はコンコンと足音が響いた。
四階まで上がってくると、ジュネーブの大きな暗い窓に、俺の手元の赤い光が小さく反射するのが見えた。
今度はその光を真っ直ぐその窓に向けた。この距離、窓ガラス越しでは聞こえるはずのない、パン、パンという音が聞こえる気がした。腹の底から笑いが込み上げてくる。一つ、また一つと風船が割れるごとに音は大きくなっていき、二十回目の音はついに俺の鼓膜を突き破った。




