第86話 ミサンガの約束
「――――――恋歌のことが、好きだからだよ」
ふと気づけば、俺はそんな言葉を口にしていた。
自分でも驚くくらい、何の引っかかりもなく、俺は恋歌に想いを告げていた。
「…………ぇ、?」
恋歌から、か細い声が漏れる。
彼女のやわらかい身体の温もりを背中で感じながら、俺は前へと歩き続ける。
そろそろ、この山道も抜けるはず。……あんなにボコボコにされたあとだというのに、信じられないほどに足が軽かった。今なら、英樹にだって徒競走で勝てそうだ。
「知らなかったか? 俺、ずっと昔から恋歌のことが好きだったんだぜ?」
あの日。恋歌が初めて、俺を頼ってくれたとき。
俺に抱きついて、泣きじゃくりながら愚痴をこぼして。
最後には、“ありがとう、秋人”――と、嬉しそうに微笑んでくれて。
幼なじみたちへと劣等感を抱いていた俺の心は、その瞬間に救われたのだ。
「恋歌の笑顔が好きだった。可愛いってのも、もちろんそうだけどさ。なんて言うのかな……見ているだけで、癒されるっていうか。綺麗だけど子供っぽくて、無邪気だけど優しくて。魅力的だなって、何度も何度も見惚れてきた」
いつだってそうだった。恋歌の笑顔を見るたびに、俺の胸は熱を帯びた。
彼女の隣にいるという事実が、たまらなく嬉しかったのだ。
「恋歌のお節介なところが好きだった。なんだかんだ言いながら、ダメダメな俺の面倒を見てくれて。寝癖を直してくれる手の感触とか、毎日違うお弁当の味付けとか。そういう恋歌の優しさに触れるたびに、やっぱり俺は恋歌のことが好きなんだなって実感してた」
今だから、言い切れるけど――俺が自分磨きをしなかったのは、きっと、そのためだったのだろう。
いつからか恋歌は、俺に頼ろうとしなくなった。歳を重ねるにつれて、悩みをひとりで抱え込んでしまう癖がついてしまったのだろう。
俺は……焦ったのだ。このままでは、恋歌との関係が薄れてしまうのではないか、と。
だから、ダメな自分をあえて直そうとしなかった。
そうすることで、恋歌が俺の面倒を見てくれる。呆れながらも、俺に優しくしてくれる。
――バカだなぁ、と我ながら思う。小学生が、好きな子にイジワルをしてしまうのと一緒。
子供で愚かでダメな俺は、そうやって恋歌の気を引こうとしていたわけだ。
「恋歌の頑張り屋さんなところが好きだった。誰よりも勉強して、誰よりも努力して。どんなことがあっても、折れずに立ち向かおうとしてさ。まあ、すぐ我慢しちゃうのは、恋歌の悪いとこでもあると思うんだけど――俺は、そんな恋歌の隣にいる時間が、何よりも幸せだったんだ」
あぁ――認めよう、認めてやろうじゃないか。
恋歌が俺に依存している。さっきまで俺は、そんなふうに考えていた。それは俺のせいだと自分を責めて、何が正解なのかと思い悩んだ。
でも、違った。本質は、そこじゃなかったんだ。
――――恋歌に依存しているのは、俺のほうだ。
だって。俺を綾田秋人にしてくれたのは、恋歌だから。
恋歌のあの笑顔が、何者でもなかった俺を、《《恋歌の幼なじみ》》にしてくれたんだ。
今も……きっと、そのままだ。
恋歌と一緒に過ごすこの時間が、何よりも幸せで。彼女のそばにいるという事実が、胸を高鳴らせてくれて。
だからこそ、俺は佐久間先輩たちに立ち向かえた。勇気を振るうまでもなかった。恋歌のためなら、俺はどんな目に遭ったっていいと思っていたから。どれだけの痛みも、恋歌の涙に比べたら安いものだと本気で確信していたから。
「だからさ、恋歌。どうして、なんて聞かないでくれよ」
さっき恋歌は、俺に――どうして幸せだと思ってくれるの、なんてふうなことを尋ねてきた。
俺からすれば、愚問も愚問だ。
――好きな女の子が、俺と一緒にいてくれる。
これが幸せじゃないなら、いったい何を幸せと呼べばいいのだろうか。殴られて、蹴られて、花火を見逃して。……だから何だ? その程度で、俺が不幸だと言うとでも?
「ま、そういうわけだからさ。今日は、恋歌のおかげで楽しかった。幸せだったよ――だから、ありがとな。恋歌」
前方に、街頭の光らしきものが見えてきた。ということは、もうじき駅前か。
このあたりからは人通りも多くなる。浴衣姿の美少女を、泥まみれの男がおんぶしているこの状況を誰かに見られたら……それはもう、気まずいことになるだろう。さてどうするか、と思案する。
「ぁ……、あき、と……」
「ん? 恋歌、どうした?」
「もう……大丈夫、だと、思う。から……降ろして、くれる……?」
その声は、あいかわらず震えていた。
……あんな目に遭ったんだ。それに恋歌には、中学のことのトラウマもあったはず。かなり辛い思いをさせてしまったに違いない。
だが、そんな恋歌が、大丈夫だと言ってくれた。
なら俺は、それを信じたい。「わかった」と返して、恋歌をゆっくりと腰から降ろす。
「……ぁ、そ、その……っ、秋人、わ、たし――」
振り返る。恋歌へと、向き直る。
彼女は。俺の初恋の幼なじみは、その薄い唇をふるふると震わせて、
「――――……ごめん、な、さい……っ」
それは、謝罪の言葉だった。
何に対しての謝罪なのだろう。
いや――そんなもの、ひとつしかないか。
「恋歌。それより先に、言うことがあるんじゃないか?」
きっと。
少し前の俺なら、勘違いしていただろうな。
俺は恋歌に依存している。だからこそ、彼女の言葉に敏感になりすぎていた。その結果、恋歌の感情と向き合うことができなくなっていたのだろう――恋歌が俺のことをどう思っているのか、考えること自体が怖かったから。
だから大嫌いと陰口を言われたときにも、すぐにそれを受け入れることができてしまった。それ以上の真意を探ることで、さらに傷つくことを無意識のうちに避けていのだ。
その結果……俺は、恋歌を傷つけてしまった。彼女の幼なじみとして、失格だ。
でも、だからこそ。
今度こそは――もう、勘違いはしたくない。
「これでも俺、恋歌のことを助けて、ここまでおんぶしてきてやったんだぜ? ちょっとくらい、労ってくれてもいいんじゃないか?」
「ぁ……う、うん……っ」
不安げに、恋歌が上目遣いを向けてくる。
その可憐な顔は、涙で赤く腫れてしまっていた。目もとはいまだに潤んでいる。大人びた薄紅色の唇は、小さな震えを刻んでいて――、
「……し、も……っ、き、なの……っ」
視線が、重なる。
悲痛な。だけど情熱的な、恋歌の瞳から。
一滴の涙が、こぼれ落ちる。
「――――私も、好き……秋人のことが、大好き、なの……っ!」
綺麗な、その雫とともに。
恋歌の言葉が、流れ落ちた。
「だって……っ、秋人は、いつも優しくてっ、かっこよくて……っ! 私のことをっ、支えてくれて、何度も何度も助けてくれて……っ!」
拙い言葉遣いだった。嗚咽混じりの、いつもの恋歌らしくない声。
でも、それでも。
これは間違いなく、恋歌の“本音”なのだろうから。
だから、もう、俺は目を逸らさない。
「なのにっ、私……っ、秋人を、いっぱい傷つけて……っ、好き、なのに……酷いこと、たくさん言っちゃって……っ! 大好きなのに、大嫌いって言っちゃってっ……違う、の。ほんとに、ほんとに大好きなの……っ!」
思い出す――あの日。恋歌の陰口を聞いてしまったときの記憶。
夕暮れの中、冷たい春風を浴びながら、河川敷でうずくまって。ひとりで塞ぎ込んで、悩んで、苦しんで。
恋歌から離れようとした。彼女を遠ざけようとした。
だけど結局、俺には無理だったんだ。いつだって、頭の片隅には恋歌の笑顔があったから。
「だから――私だって、ほんとは秋人のこと、いっぱい幸せにしてあげたい……っ!」
夜が、更けていく。
俺と、恋歌。
ふたりの時間が、進んでいく。
「でもっ……わたしっ、怖いよ……っ! 秋人のこと、また傷つけちゃうかもって。また、秋人に酷いこと言っちゃうんじゃないかって……こわく、て……どうしたらいいのか、わかんないよっ……!」
「そっか」
足が、動いていた。
これが正しい判断なのかは、わからない。そんなものに、そもそも本当に正解なんてあるのだろうか。
だけど、俺は。
恋歌の華奢な身体を、そっと抱きしめていた。
あのとき。恋歌が、俺にそうしてくれたみたいに。
「じゃあさ、恋歌。あのときみたいに、また俺を頼ってくれないか?」
「…………あきと、を?」
「そ、俺を。ま、俺なんかじゃ、頼りないかもしんないけど――少なくとも、恋歌の話を聞くくらいならできるからさ。だから、もっと俺に寄りかかってくれ。俺も……恋歌に、もっと頼ってほしいから」
依存? 自立?
――知るかバカ、と思う。
歪な関係だから何だ。俺と恋歌の幸せは、俺と恋歌で決めるんだ。正論なんて、必要ない。
俺たちが求めているのは、お互いの想い。
そして、それを伝え合うための言葉だけだ。
「だからさ。ま、気楽に進んでいこうぜ。それで、いつの日か――恋歌の幼なじみになれたってことが、俺にとってどれだけの幸福なのか。それを、わかってくれればいい」
「……っ、いい、の……? 私……秋人の、そばにいても、いいの……?」
「もちろんだ。だから恋歌も、俺のそばにいてくれ。――もう二度と、すれ違わないようにしようぜ?」
恋歌が――俺に、抱擁を返してくれた。
鼓動と、鼓動。ふたつの音が、ゆっくりと時を紡いでいく。
「……ね、秋人」
「ん、なんだ?」
「ミサンガの、約束。……今、お願いしてもいい?」
俺の胸もとに、ぎゅっと顔を埋めながら。
甘えるように。恋歌の綺麗なソプラノボイスが、そんな声音を奏でてくる。
「――――来年こそ、秋人と一緒に花火が見たいっ」
祭りの騒がしさも、花火の咲き乱れる音も。とっくのとうに、止んでしまっている。
静まり返った夜空には、恋歌のその願いだけが、煌めくように残響する。
「今度は……恋人として、ね?」
「あぁ、そうだな――」
抱擁を、ぎゅっと強める。
お互いの身体に、身体を預ける。
もし片方が離れてしまえば、この抱擁は、簡単に崩れてしまう。そうなれば、怪我だってするかもしれない。俺たちの想像もしていないような事態に陥ってしまうことだって、きっとあるだろう。
でも――俺には、恋歌を離すつもりなどない。
だから俺たちは、不器用に口づけを交わす。
この温度を、この想いを。いつまでだって、覚えていたいから。




