第85話 あったかい背中
「ずっと昔の……それこそ、小一とかの話だけどさ。あのころの俺は、居場所がないなって思ってたんだ」
そう語る彼の声は、とても穏やかで。
背中越しに少しだけ見える横顔には、無邪気な微笑みが浮かんでいた。
「俺は勉強も運動もできないし、見た目だって普通も普通。コミュ力だって低いし、何かしらの特技があるわけじゃない。ただ、恋歌たちの幼なじみってだけの、薄っぺらい人間だった。だからみんなに追いつきたくて、いろいろ頑張ってみたけど――結局、失敗してばっかりで。恥かいて、ダメなところばっかり周りに知られていって」
情けないよな――と。
秋人は、くすりと優しく笑う。
「だから、もう……頑張るのはやめようって思って、逃げたんだ。劣等感って言い方が正しいのかな。いつもキラキラしてた恋歌たちに、俺は憧れてたし……それと同じくらい、惨めにもなったんだ。みんなと俺じゃ、棲む世界が違うような気がして。いっそのこと、ひとりになったほうが気楽かもなって考えたりもした」
――そんなの、知らなかった。
昔って……いつの、話なのかな?
そのときから、私は――やっぱり、秋人のことを苦しめてたの……?
「だけど。そんな俺に、恋歌が――ありがとうって、言ってくれたんだ」
「…………ぇ、?」
「俺はただ、恋歌の話し相手になっただけなんだけどさ。でも、その程度のことしかできない俺のことを、恋歌が頼ってくれたんだ。それが、なんて言うのかな――とにかく、すげぇ嬉しかったんだよ」
もしかして――あのときのことを、言っているのだろうか。
小学二年生のころ。クラスの女の子に嫌がらせを受けていた私に、秋人が優しく声をかけてくれたのだ。
ひとりぼっちだった私に、秋人は寄り添ってくれて。ふたりで一緒に、ゴミ捨て場の中でプリントを探し続けて。結局……秋人が、見つけてくれて。
そのときの彼の笑顔を、私は、きっといつまでも忘れない。
「……そのときさ、思ったんだ。俺なんかでも、恋歌のそばにいていいんだ、って」
それは――違う、その逆だ。
あのとき私は、思ったんだ。私なんかが、秋人のそばにいていいんだって。
そんなふうに思わせてくれたのは、ほかでもない、秋人の優しいコトバだった。
「それから、毎日が楽しくなったんだ。俺みたいなダメなやつでも、恋歌の役に立てるって思うと――なんか、胸の奥があったかくなってさ。恋歌が俺の前で笑ってくれるたびに、幸せだなって俺は思えたんだ」
それも……それも、違う。
幸せだったのは、私のほうだ。
秋人が、支えてくれたから。私と、一緒にいてくれたから。
だから私は、幸せだなって思えた。毎日が楽しいなって、笑うことができたんだ。
「恋歌。――そのミサンガ、ずっと、大事にしてくれたんだな」
「ぁ……う、うん……っ」
覚えている。このミサンガを彼が私にくれたのは、小学四年生のときの誕生日。
そして、あのとき……秋人は、おかしなことを言い出したのだ。
「ほら、俺ってバカだろ? だから、ミサンガのちゃんとした意味なんて知らなくてさ。そのミサンガが切れたとき、なんでもひとつ、俺が恋歌の願いごとを叶えてやる――って、たしか、そう言ったんだよな?」
「…………、うん……」
このミサンガを、秋人から受け取ったときに。
私は――すごく、ずるいことを考えた。
ミサンガが切れたら、秋人が私の願いごとを叶えてくれる。
でも、そのためには……秋人が、私のそばにいないとダメだよね?
いつミサンガが切れるかなんて、誰にもわからない。だったら……ミサンガが切れる日まで、秋人は、私と一緒にいてくれるはずだよね?
だって、秋人は優しいから。
秋人は絶対に、約束を破ったりしない。だから秋人は、このミサンガが切れるときに、きっと私の隣にいてくれるはず。そして――私の願いを、聞いてくれるんだ。
もちろん……そんなの、子供のころの話だ。
高校生になる前には、ミサンガの約束なんて、すっかり私は信じていなかった。秋人は忘れちゃってるだろうな、なんて勝手に思い込んでいた。
でも、そっか。
秋人――覚えていて、くれたんだ。
「それで、恋歌。――どうするんだ?」
「…………ぇ、?」
どうする、って。
それは……なんの、話……?
「だって、ほら。そのミサンガ、切れちゃったんだろ? だったら――約束。何でもひとつ、俺が恋歌のお願いを叶えてやるよ」
ふと――空が、きらりと光ったような気がした。
流れ星、だったのかな。だとしたら……秋人と一緒に、見たかったな。
でも。私には、そんなことを願う権利なんて、ない。
「…………ごめん、なさい」
正直に言わなきゃ、と思った。
ここで嘘をついたら――私は、もっと自分のことが嫌いになる。
「もう……っ、願いごとは、叶った、から……」
だって。
このミサンガを引きちぎられたときに――私は、願ってしまったのだ。
「秋人が……助けて、くれた、から……っ、わた、し……すごく、怖くて……」
「うん」
「嫌だった、けど……っ、声、出なく、て……助けて、って、思って……っ」
「うん」
「そしたらっ、秋人が……きて、くれたの。なのにっ、すごく、傷つい、て……」
私が、助けてって願ったから。
そのせいで……秋人は、あのときみたいに痛めつけられて。
だけど。やっぱり私には、臆病だから。見ていることしか、できなくて。
「もう……叶った、から……っ、私の、お願いは……秋人が、叶えてくれた、から……っ」
すごく、嫌だけど。
すごく、怖いけど。
でも、それでも――私は、やっぱり。
秋人のことを、これ以上、不幸にしたくないから。
「だからっ……、私は、もう、秋人と――」
「――言っておくけど、距離を置くとか言うのはナシだからな?」
……え?
どうして、と言おうとした。
だけど、それよりも先に――秋人は、無邪気に笑った。
子供みたいな、可愛い笑顔だった。
「だって――俺は今、幸せなんだ」
秋人の、優しくて、どことなく無垢な声が。
私の揺れる心の中に、穏やかに響き渡る。
「恋歌のおかげだよ。あの日からずっと、俺は幸せだったんだ。恋歌が、俺のそばにいてくれたから。恋歌の笑顔が、俺の心を支えてくれたから。この幸せをくれたのは――ほかの誰でもない、恋歌なんだ」
「――――……っ、どう、して……?」
私も、声を出していた。
気づけば勝手に、声が漏れ出ていた。
「どうしてっ、秋人は……幸せだって、思ってくれるの……?」
こんなにも傷つけて。こんなにも酷い目に遭わせて。
今日だけの話じゃない。私は私の幸せを守るために、秋人に何度も酷いことを言ってしまった。彼の気持ちを考えずに、その優しさを踏みにじり続けた。
私は、最低の幼なじみだ。
そのはず、なのに――、
「――――――恋歌のことが、好きだからだよ」
どうして、なのだろう。
どうして、こんなにも――秋人の背中は、あったかいのだろうか。




