第84話 泥と汗の匂い
秋人を助けてくれた警察のひとが、そのまま佐久間先輩たちを連れて去ってくれた。
やがて、この場所には……私と、秋人のふたりきりになる。
彼は。秋人は、近くの木の根元に寄りかかって、
「っ、痛ぇなぁ……マジで殴りやがって、あのクソ野郎……」
はあ、と息をつく秋人。
その表情は微笑んでいたけれど、泥まみれになった身体と服が、すごく痛ましくて。
――私の、せいだ。
私のせいで――また、秋人が傷ついた。不幸になった。
「あき、と……あきと、秋人っ、秋人……っ」
「ん? どうかしたか、恋歌?」
「ごめっ……な、さい……わたしの、せいっ……わた、し、が……っ」
涙が、止まってくれない。
私なんかには、泣く権利はないのに。秋人のほうが、ずっとずっと辛い思いをしたのに。
なのに……どうして、なの?
どうして、私の身体は動いてくれないの?
「恋歌」
彼が。
私の大好きな幼なじみが、私の名前を呼んでくれた。
それだけで、胸が温かくなって――秋人をこんな目に遭わせたくせに、ひとりだけまた幸せな気分に浸って。そんな自分のことが、さらに嫌いになる。
「帰ろうぜ」
――花火の音は、止んでいた。
夜空には、虚しい灰色の煙だけが残っていて。
「っ……あき、と……っ」
声が。
どうにか……声だけは、出すことができた。
これなら、彼に謝ることができる。そんなことをしたって、私の罪が許されるはずはないのだけれど。
「わた、し……ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「いや――恋歌に謝らなきゃいけないのは、俺のほうだよ。ごめんな、怖い目に遭わせちゃったよな」
「ちがっ、や、め……ちがう、からっ、わたし……が、わたしの、せいで……っ」
目を、逸らす。
彼のことを、見ることができなかった。……そんな権利すら、きっともう、私にはない。
「ごめん、なさい……わたし、がっ……私なんかっ、生まれてこなければ――」
「大丈夫。大丈夫だから、恋歌」
ふと――顔を、上げてしまう。
すると、私の目の前には。
秋人の……穏やかで、優しくて、眩しい笑顔が、そこにあって。
「……恋歌。立てるか?」
「ぁ……、っ……」
足に、力を入れようとした。
だけど、できなかった。どうしてか、うまく立ち上がれない。
ぎゅう、と。……手の中の、汚れてしまったミサンガを握りしめる。
ぼろぼろに引きちぎられてしまった、秋人と私を繋いでくれていたミサンガを。
「ごめん、なさい……ごめんなさい、あき、と……っ」
「そっか。じゃ、これならどうだ? 俺に掴まるくらいなら、できるだろ?」
私は、悪い子なのに。
秋人のことを不幸にしてしまう、疫病神なのに。
どうして……秋人の声は、そんなに優しいの?
彼の、大きな背中が――私へと、差し出されて。
「ほら、恋歌。おんぶだよ、おんぶ」
「っ……ぁ、いい、の……?」
「ま、俺はこれでも男子だしな。女の子ひとりくらいなら、たぶん余裕だって」
秋人が、そう言うなら……きっと、そうしたほうが良いよね?
でも、そっか――私、また秋人に迷惑かけちゃうんだ。
ごめんね、秋人。そう心の中で謝りながら、そっと、彼の背中にしがみつく。
すると秋人は、私を背負ったまま、ゆっくりと立ち上がって、
「よっ、と――ほら、軽い軽い。……いや、マジで軽いなっ」
「ごめっ……ごめん、なさい……っ」
「おう。それじゃ、帰るか」
秋人の背中が、動き出す。
一歩ずつ、ゆっくりと。林道の中の下り坂を、秋人は降りていく。
「さっき警察のひとに教えてもらったんだけど、こっちが駅までの近道らしくてさ。いいよな、恋歌?」
「…………っ、うん……」
「そっか。ありがとな、恋歌」
静かな夜の中に、彼の心地良い声だけが響く。
とくん、とくん。この心臓の音は……私と、秋人。どちらの鼓動なんだろう。
「……あのさ、恋歌。昔の話を、してもいいかな」
声を出そうとした。
だけど……そうしちゃうと、また、涙が溢れてしまいそうだったから。
だから私は、こくり、と頷くことしかできなかった。
「今だから、言えることなんだけどさ。俺……ずっと、コンプレックスだったんだ」
何が、だろうか。
彼の声に、意識を傾ける。
「だって、そうだろ? 見た目も運動神経も抜群にいい英樹と瀬名に、成績超優秀の勇利。才色兼備で容姿端麗な、完璧美少女の恋歌。……ははっ。こうやって改めて言葉にすると、やっぱ俺って場違いだよな」
――違う、そんなことない。
場違いなのは……私だ。だって私は、誰かを不幸にし続ける疫病神だから。
英樹とか瀬名みたいに、みんなを盛り上げたりなんてできない。勇利みたいに、強い自分を保つこともできない。秋人みたいに――誰かのために、全力で優しくなんてしてあげられない。
才色兼備? 容姿端麗? ……私は、そんなのじゃない。みんなが言ってくれるような、良い子なんかじゃない。
成績が良いのも、容姿を褒めてもらえるのも、ぜんぶ、お父さんとお母さんのおかげ。
私自身は――私には、何もない。
臆病で、強がりで、嘘つきで。大好きなひとのことを何度も傷つけて、痛めつけて、苦しめて、不幸にさせて。
ねえ……ねえ、教えてよ。
私みたいな、誰のことも幸せにすることができない、不幸を振り撒いてばかりの酷い人間に。
どうして、なの――どうして秋人は、私を、助けにきてくれたの……?
「――――そんな俺を救ってくれたのが、恋歌だったんだ」
夏の夜空の下。泥と汗の混じったような、彼の背中の匂いが。
私の心に、安らぎを与えてくれた。




